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物言わぬ偶像からの解放

2020年8月23日

川崎 公平
テサロニケの信徒への手紙 一 第1章1-10節

主日礼拝

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです(5節)。

このような手紙を受け取ったテサロニケの教会は、伝道者パウロと、その仲間たちの伝道によって生まれました。そこで起こった出来事を、集中的に伝えているのが、この5節の言葉であります。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは」と書いてあります。この言葉を、パウロは深い感動と感謝の中で書いたと思います。福音が、伝わったのだ。神が、そのような出来事を起こしてくださったのだ。テサロニケにおいて起こったことは、要するに、このことだ。私もひとりの伝道者として、言ってみればパウロの後輩として心から思うことですが、こういう言葉を語ることのできたパウロという人は、本当に幸せであった、祝福されていたと思うのです。もう一度読みます。

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。

以前の説教でも申しましたが、5節の初めの「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは」という翻訳は、少し原文のギリシア語から遠ざかって意訳されているところがあります。もうちょっと原文に近づけて直訳すると、「わたしたちの福音が、あなたがたの中に向かって起こった」。起こった、というのはつまり、出来事として起こった、ということであります。わたしたちの語った福音が、あなたがたの中へとぐーっと入って行って、出来事を起こした。それは新共同訳が理解しているように、「福音が伝わった、福音が伝えられた」ということなのでしょうが、ここでパウロが使っている、「出来事が生じた」というものの言い方には、特別な思いが込められていると思います。ここでパウロは、自分に委ねられている〈み言葉〉の力、神の言葉の力に驚いている。その意味では、「わたしがあなたがたに福音を伝えたのだ」なんて言い方はできないので、「福音が、出来事を起こしたのだ」。働いたのはわたしたちじゃあない。神のみ言葉、それ自身が、あなたがたの中に入って行って、出来事を起こしてくださった。そのことを賛美するような発言です。

■その出来事、言ってみれば〈福音という出来事〉の中で何が起こったか。それを伝えるのが、6節以下です。

そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ…… (6節)

み言葉が、あなたがたの中へと、出来事を起こした。そしてまたあなたがたも、「喜びをもって御言葉を受け入れ」た。それは、「聖霊による喜び」の出来事でしかない。さらに8節ではこうも言うのです。

主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。

主の言葉が、あなたがたの中に向かって出来事を起こしたときに、当然それで終わるはずはないので、今度はその主の言葉が「あなたがたのところから出て」、言ってみれば、主の言葉はあなたがたを共鳴体として響き渡ったというのです。「マケドニア州やアカイア州に響き渡った」というのは、たとえば「日本中に響き渡った」というくらいの話です。そのみ言葉の響きの共鳴体となったのは、あなたがた自身である。あなたがたの存在が、あるいはあなたがたの生活が、み言葉のうるわしい響きの出どころとなったのであって、その響きは国中に響いているほどだと、パウロは言うのです。これはずいぶん大げさな物の言い方のようですが、繰り返しますが、ここでパウロは、み言葉の力に驚きながら、その力を賛美するような思いで、こういう手紙を書いたと思うのです。

■いったいそこで、なお具体的には、テサロニケの教会において何が起こったのでしょうか。そこでパウロは、ひとつたいへん具体的なことを書いています。それが9節以下です。

彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを(9~10節)。

テサロニケの教会において起こった〈み言葉の出来事〉は、まさに出来事であって、教会に生きる人びとの生活を、具体的に新しくしました。今はやりの言葉で言えば、〈新しい生活様式〉が生まれたのです。その新しい生活の姿は、国中に響き渡ったと言われているように、誰の目にも明らかな出来事であって、それをここでパウロは、「あなたがたは、偶像から離れて、生けるまことの神に立ち帰った」と書いています。
当時のギリシアには、ことにテサロニケのよう大きな都市には、偶像があふれていたと言います。その偶像に対する礼拝は、町を挙げての祭りであって、これは私ども日本人にも容易に想像することができるわけで、これを拒否するということは、まったく考えられないことであった。そういう町に、パウロを初めとする伝道者が現れて、イエス・キリストの福音という〈出来事〉をテサロニケの町にも起こしたのであります。それが、9節に書いてある、国中に響き渡ったと言われていることの内容の第一のことで、「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」というのです。パウロたちが、「どのように迎えられたか」。それは必ずしも、幸せな迎えられ方ではなかったのであります。キリストの福音を信じた者たちも起こされましたが、町全体を巻き込むたいへんな騒ぎが起こり、パウロたちは町から追い出されてしまいます。それはそうでしょう。町の人たちが熱心に偶像を刻み、さまざまな神々を祀りあげていたときに、それを真っ向から否定するような話をしたわけですから、騒動が起きないはずがありません。もともとキリストの福音そのものが、騒動を起こすような力を持っていたということでもあると思います。何ら騒動を起こさないような福音なら、人を救う力もないでありましょう。そのような福音の出来事を、もう一度読みます。「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」。そう言うのであります。
当時のテサロニケは、十何万という人の住む大都会であったそうです。そういう大きな町の中で、ほんのひと握りの人たちがみ言葉を受け入れ、主イエス・キリストに対する希望に生きるようになったときに、「わたしたちはもう、偶像を拝みません」と言い始めた。「わたしたちは、生けるまことの神に仕えます」。それが国中で話題になるほどの大事件であったいうのは、しかし、もしかしたら私ども日本人にはよく分かる話であるかもしれません。

■偶像とは何でしょうか。そこでひとつ私どもの心に留まることは、9節の最後のところに、ただ「偶像から離れて」というだけでなく、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」と書いてあることです。偶像というのは、「生けるまことの神」ならざるもののことだ。生きていない、偽物の神だ。そういうところで私どもは、いくつもの旧約聖書の言葉を思い起こすことができます。たとえば、イザヤ書第44章9節以下に、たいへん痛烈な言葉があります。林の中で一所懸命木を育てた人が、その一部を切り取ってたき火をして、「ああ、温かい、温かい」。同じ木の他の一部を燃やして肉を焼いて、「ああ、うまい、ああ、おいしい」。そして同じ木の別の部分で「自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』」。
また、詩篇第135篇15節以下には、こう書いてあります。

国々の偶像は金や銀にすぎず
人間の手が造ったもの。
口があっても話せず
目があっても見えない。
耳があっても聞こえず
鼻と口には息が通わない。
偶像を造り、それに依り頼む者は
皆、偶像と同じようになる。

「生けるまことの神」と相対立する偶像の特質を、たいへん厳しく言い表しています。偶像というものは、「口があっても話せず/目があっても見えない」。旧約・新約、一貫して聖書にしばしば出てくる表現は、「物言わぬ偶像」というのです。「生ける神」の対義語を単純に考えるならば、「死んでいる偶像」と言ってもよいのかもしれませんが、やはり何と言っても偶像の第一の特質は、ものを言わないことである。それはそうです。偶像が口をきけないのは当たり前だ。けれども実は、私どもは、口がきけない「にもかかわらず」偶像を求めてしまうのではなくて、そうではなくて、私どもを惹きつける偶像の魅力は、まさに口がきけないところにあると、そう言わなければならないだろうと思います。口がきけないというのは言い換えれば、私どもの言いなりにしかならないということです。それが偶像の特質であり、だからこそ、私どもにとって魅力的でもあるのです。
10年前、私が鎌倉に来てすぐの頃だったと思いますが、鎌倉にある神社のご利益一覧表というのを見たことがあります。そのご利益の多さが、鎌倉の神社の魅力なのだと、堂々と書いてありました。交通安全に役立つ神さま、受験に役立つ神さま、いろんな神さまがいるでしょう。そういう神さまのところに人が群がるのは、結局、それが「物言わぬ偶像」だからなのです。もしもその受験の神さまが、「お参りするひまがあったら勉強しろ」とかうるさいことを言い始めたら、たちまち人気はなくなるだろうと思います。まして、「あなたがその大学に行きたいって言っているのは、結局あなたの私利私欲だろう? 違うか?」 そんなややこしいことを言うような神さまには、誰も見向きもしないだろうと思います。偶像が、まさに偶像として人びとの人気を集めるのは、ものを言わないからであって、しかしそういう意味での「もの言わぬ偶像」なら、いわゆる他宗教の批判なんかする必要もないわけで、お金だって学歴だって、何だっていいんです、偶像を作るのはわれわれ自身なんですから、私どもが偶像にしたものが即、物言わぬ偶像になるのです。そういう偶像を、まさに「わたしの偶像」たらしめてしまう私どもの思いの最も深いところにあるのは、主の祈りをもじって言うならば、「わたしの名があがめられますように、わたしの支配力が大きくなりますように、わたしの願いが実現しますように」ということでしかないのです。しかしそれだけに、先ほど読みました詩編の言葉は、痛烈というか、思わず息を呑むほどのものがあると思います。

口があっても話せず
目があっても見えない。
耳があっても聞こえず
鼻と口には息が通わない。
偶像を造り、それに依り頼む者は
皆、偶像と同じようになる。

■けれども、テサロニケの教会の人びとは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」と言います。なぜ、そのような出来事が起こったのでしょうか。理由はひとつしかありません。生けるまことの神の、言葉を聞いたのです。物言わぬ偶像ではなく、今生きておられる神、生きておられるがゆえに、今このわたしのために語りかけてくださる神に、出会わせていただいたのです。だからこそパウロは、自分のテサロニケでの伝道において、結局何が起こったのか、それをひと言で、「福音の出来事が起こった。あなたがたの中に向かって」という言い方をしたのです。テサロニケの人びとは、神の言葉を聞いたのです。言ってみれば、それ以外のことは何も起こらなかったと言ってよい。けれども、テサロニケの人びとが聞いた言葉は、本物の神の言葉でした。物言わぬ偶像ではない、このわたしのために語りかけてくださる神の言葉を、聞いたのであります。
私どもの教会が持っている『雪ノ下カテキズム』という書物があります。このカテキズムという外国語は、もともと、「上から響かせる」という意味のギリシア語に由来します。今日何度か言及した8節の「響き渡る」という言葉と、親戚関係にあるような言葉です。今わたしのために語られる神の言葉が、上から響いてくる。しかしまた、そのように上から響いて来る神の言葉を聞いたならば、それで終わるはずがない。私どももまた、その神の言葉を響かせる、共鳴体とされます。その響きを伝えるために、カテキズムは問答形式で記されます。上から響いて来る神からの問いに、私どもが一緒に答えるのです。
今も何人かの方が洗礼を志願して、私と一緒に一対一で洗礼のための準備を続けています。先週もそういう方と一緒にカテキズムを読みながら、こういう話をしました。『雪ノ下カテキズム』の最初に、こういう問いがあるのです。

問1 あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。

あなたの喜びって何だ。あなたの本物の喜びって、いったい何だ。そのことについて、ひとりでよく考えてみようというのではないのです。神に問われるのです。「あなたは、いかなる喜びを求めるのですか」。この問いが既に、天から響いてくる問いなのであって、そこに既に、「あなたには、本物の喜びを知ってほしいんだ」、そういう神の願いが込められていることに気づかされます。テサロニケの人びとも、この神の御声を聴き取ったのです。この手紙の終わり近くにある、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という有名な言葉を思い起こしておられる方もあるでしょう。「いつも喜んでいなさい」、「あなたには、本物の喜びを知ってほしいんだ。その喜びって、いったい何だ」。物言わぬ偶像からは決して聞き取ることのできなかった、生きた愛の言葉というか、愛の問いかけを、聴き取ったのであります。そうしたら、これに答えないわけにはいかない。雪ノ下カテキズムは最初の問1に答えてこう言います。

答 私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、「私の父なる神、私どもの父なる神」と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます。

神は、わたしの父でいてくださる。その事実が、わたしの喜びとなり、また誇りとなると言います。物言わぬ偶像に心惹かれる余地はありません。このようなテサロニケの教会の人びとの姿が、もう一度申します、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」、このような言葉をパウロに言わしめるほどの輝きを持っていたというのです。
もし私どもの教会が、このようなしかたで世界に新しい希望を見せることができたならば、どんなにすばらしいだろうかと思います。そこに教会の使命があると信じますし、世界の希望もまた、私どもの聞いている神の言葉にかかっているのです。お祈りをいたします。

私どもも、あなたの福音を聞きました。あなたこそ、わたしの父、私どもの父でいてくださいます。そのことを喜び、また誇りとさせていただいている私どもの存在のすべてが、あなたの恵みを響かせるものとされますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン