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復活の主に遣わされて生きる

2020年7月26日

マタイによる福音書 第28章16-20節
川崎 公平

主日礼拝


■マタイによる福音書の、最後の言葉を読みました。十字架につけられた主イエスが、お甦りになったあと、「もう一度、あのガリラヤの山に集まろう」と言って、11人の弟子たちを山にお集めになった。最初12人いた弟子たちのうち、イスカリオテのユダはもういませんから、残り11人が山に集まった。おそらくこのあと、主イエスは天に昇ってしまわれるというところでしょう。マタイによる福音書は、主イエスの昇天の様子を具体的に伝えませんけれども、話としては結局そういうことです。事実、キリストの教会は、その後主イエス不在の時代を迎えます。目に見える姿では、もう主イエスはここにおられない。そういうところで、主が最後に言い残された言葉が、このように伝えられているのです。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。

復活の主、イエスを礼拝する教会の歴史が、ここから始まる。そこで主は弟子たちに、ひとつの命令と、また約束をお与えになりました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

私どもは、4年半にわたって、このマタイによる福音書を礼拝の中で読み続けてまいりました。その最後の言葉を読みながら、私も改めて、さまざまなことを思わされました。教会員の皆さんには、今週中に郵便でお送りする予定ですが、雪ノ下通信の牧師室だよりにも、少しそのことについて触れました。マタイによる福音書を読み続けたこの4年半、鎌倉雪ノ下教会にとっても、また私個人にとっても、本当にいろんなことがありました。たとえば、この4年半の間に、4人の牧師・伝道師の辞任という出来事があり、また4人の新しい教師を招聘したのであります。それだけでも、教会にとっても、また私にとっても、「本当にいろんなことがあった」と言わなければならないと思います。私とその家族のことについても、鎌倉雪ノ下教会の皆さんには本当にご心配とご苦労をかけてしまったと思います。けれども、それだけに私は、マタイの伝える主イエス・キリストの福音に慰められてきました。福音書というのは、本当に〈福音〉なのだ、よい知らせ、喜びの知らせなのだということを、こころに刻みながら、こういう言い方は少し語弊があるかもしれませんけれども、どんなにつらいことがあっても、私はここに立ち続けることができました。これも雪ノ下通信に書いたことですが、この4年半、マタイによる福音書を読むことによって、おそらくいちばん慰められたのは、私自身であったと思っています。
その福音書の、最後の言葉を読むのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。マタイは、この最後の言葉を、特別な思いを込めて記したと思います。というよりも、マタイはまず最初に、この最後の言葉から福音書を書き始めたのではないかと思うほどです。
ここで、もし時間が許すならば、マタイによる福音書を最初から最後まで、もう一度読み返すべきかもしれません。私どもが読み続け、学び続けてきた主イエスのお姿、そのいかなるみわざも、どのみ言葉も、すべてはお甦りになったお方の言葉であり、みわざであったのです。「天と地の一切の権能を授かっている」お方、「見よ、わたしが、世の終わりまでいつも、あなたと共にいるのだ」と、そう約束してくださったお方のことを、私どもは学んできたのです。
その意味では、この最後の言葉は、マタイ福音書の〈結論〉というよりは、むしろ福音書を読むときの〈大前提〉であると考えるべきであります。マタイによる福音書のどの文字を読むときにも、これは、お甦りになった方の言葉なのだ。これは、天地の一切の権能を委ねられたお方のわざであったのだ。このお方が、今もいつも、世の終わりまで、わたしと共にいてくださる、そういうお方の姿が、このように描かれているのだ。その大前提が曖昧なままで福音書をどんなに勉強しても、何も理解できないだろうと思います。

■私どもも今、この11人の弟子たちと共に、主イエスの前に立ちたいと願います。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。「そのわたしが、今も、いつも、あなたがたと共にいるのだ」と、そのように約束してくださる、お甦りの主の前に立つとき、そのときに私どもがすべきことは、礼拝であります。17節に「イエスに会い、ひれ伏した」とあります。私どもの礼拝の姿、礼拝に生きる教会の歴史の、その先頭に立つのは、この11人であります。11人の弟子が山に登って、「イエスに会い、ひれ伏した」と書いたとき、マタイは昔話をしているつもりはまったくなかったと思います。自分たち、教会の姿をここに描いている。
しかしそう読んでまいりますと、どうしても気になるのは、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と、こう続いていることです。お甦りの主イエスを目の当たりにし、そのお方の足もとにひれ伏しながら、なお疑っていたというのは、どういうことなんだろうか。11人の弟子たちのうち、何人くらいが疑っていたんだろうか。新共同訳聖書は「しかし、疑う者もいた」というように、弟子たちの中の何人かが疑ったという訳し方をしていますが、むしろ原文をいちばん素直に訳すならば、「彼らはイエスを見て拝んだけれども、疑った」という文章です。11人全員が、イエスを拝んだ。そしてその全員が、礼拝をしながら同時に疑っていたというのです。そう理解した方が、内容的にも自然ではないかと私は思います。
11人の弟子たちは、何を疑っていたんだろうか。いずれにしても、疑いながらする礼拝というのは、礼拝として成り立つんだろうかと問うこともできるかもしれませんけれども、私どももよく分かると思うのです。日曜日の朝、このように礼拝をしながら、けれどもどこかでいつも疑っている。疑いながらもなお礼拝の生活を続けている。その疑いというのは、イエスさま、一緒にいるっていうけどほんとかなあ、というような素朴な疑問でもあるかもしれませんし、そういう意味で主イエスの存在を何ら疑うことがなかったとしても、その主のみ前にあって、ちっとも喜びがなかったとしたら、少しの勇気も湧いてこないとしたら、この弟子たちと同じく、「イエスに会い、ひれ伏しながら、疑った」ということにしかならないでしょう。そんなことでいいんだろうかと、むしろ自分自身の礼拝生活を疑うべきかもしれませんけれども、そこで大切なことは18節、「イエスは、近寄って来て言われた」。なぜ近寄って来られたか。弟子たちが、疑っていたからだと思います。その疑いを癒すために、主は私どものためにも近寄って来てくださり、そして、「見なさい、わたしが共にいるではないか。あなたと共に、いるではないか」と言われるのです。

■先ほど、もし時間が許すならば、マタイによる福音書を最初から、もう一度全部読み返すべきだと申しました。もちろん今ここで、そのようなことをする余裕はありませんが、どうしてもひとつ思い起こしたいのは、第14章の22節以下です(新約28頁)。ここは大切なところですから、聖書を開いてくださってもよいと思います。なぜこの箇所が大切かというと、たとえば、この段落の最後に、「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(33節)とあります。ここで「拝んだ」と訳されているのは、今日読みました第28章17節にも同じ言葉が出てきて、「ひれ伏した」と訳した方がよかったかもしれません。ついでに、ここで弟子たちは「舟の中にいた」と言われますが、この舟というのは、しばしば教会を象徴する言葉として用いられます。お甦りの主イエスを拝む、教会の姿が、既にここで先取りされております。
もともと、この箇所で弟子たちが舟に乗っていたのは、22節にありますように、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」。ところが、その弟子たちの舟が湖の上で風に悩まされ、にっちもさっちもいかなくなってしまったという話であります。ところが、25節。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。その「夜明け」というのは、明らかに、主イエス・キリストのお甦りを予感させる言葉です。お甦りになった主イエスが、湖の上を歩いて、弟子たちに近寄って来られる。そして言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。だから、恐れることはない。
ところで、この一連の出来事において、いちばんおもしろいところは、さらにその先です。弟子のペトロが、妙な提案をするのです。28節。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。ペトロはこう思ったのかもしれません。ああ、本当に主が来てくださった。絶対無理だ、絶対こんなところに主は来てくださらないと思ったのに、主はわたしのところに来てくださった。しかしペトロはそこからさらに進んで、それなら、わたしだって、水の上を歩いて主のもとに行けないわけがない。それで申しました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。それで、たいへん不思議なことですが、ペトロは僅かの間ですが、水の上を歩くという経験をさせていただく。けれども、ペトロは強い風に気づいて怖くなって、疑いの心が生まれた、その途端、たちまちずぶずぶと水の中に沈んでいきました。「主よ、助けてください」。そのペトロの手を主が捕まえてくださって、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。
「なぜ疑ったのか」と、ここで主がペトロに言われた言葉が、もう一度福音書の最後に出てくるわけですが、ここで「疑う」と訳されている言葉は、少し意味の強い言葉で、新約聖書の中でも、この二か所にしか用例がありません。直訳すれば、「二重に立つ」とでも訳せると思います。「二重に立つ」、つまり、どっちつかずで立つべき場所が分からない。心がふたつに分かれる、と言ってもよいと思います。死人が生き返るなんて、ほんとかなあ、というような次元の疑いではなくて、主イエスを見つめながら、けれども同時に風を見て、湖の深みで自分を待ち構えている死の力を見て、ひとすじに主イエスだけを信頼しきることができない。そのためにたちまち水の中に沈んでいったペトロの姿は……何度も申しますが、マタイによる福音書を書いた人は、けっしてこういう話を昔話のように書いたつもりはなかったと思います。私どもも、いつ沈むか分からないのです。本当に思いもよらないようなところで、死の力に足を引っ張られ、そのまま沈んでいってしまうのが、私どもの生活だと思うのです。もしもあのときペトロの手を、主がつかんでくださらなかったら、ペトロはそのまま湖の中に沈んでいっただろうと思います。
けれども、沈みそうになったペトロの手を、しっかりと主がつかんでくださって……そして主はペトロに言われました。「なぜ疑ったのか」。ペトロは、何の言い訳もできなかったと思います。そんな余裕、あるわけがない。舟の上で水をゲボゲボ吐きながら、恐怖のためにガタガタ震えながら、けれども、そんな自分の手をしっかりとつかんでくださった主イエスの手は……ペトロも、あとになって分かりました。あのとき、わたしを水の中から引き上げてくださったイエスの手は、お甦りになったお方の手であったのだ。「天と地の一切の権能を授かっている」お方が、あのとき、わたしを滅びの水の中から引き上げてくださったのだ。

■そのことを、最後にもう一度明らかにしてくださるように、主イエスはここでも、疑う弟子たちに近寄り、その手を取って立ち上がらせるように、言われるのです。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

私どもの言い慣れている言葉で言えば、要するに、伝道しなさい、と言われたのです。これはよく想像していただきたいと思いますけれども、弟子たちが山の上で聞いた言葉です。このことを語るために、主はわざわざ山に登られたのかな、とも思います。山の上には、広い空が広がり、また山の下には、広大な景色が広がっている。そこで、主イエスは言われるのです。天を仰いでごらん、地を見渡してごらん、天も地も、すべてわたしが支配している。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるのです。
こう言っては何ですが、ガリラヤ出身の、何の教養もない11人の田舎者です。当時の国際語の、ギリシア語だのラテン語だの、ろくにできなかったに違いない11人の弟子たちが、世界を股にかけて伝道の仕事を始めるというのは、いくら何でも……。このことに比べれば、水の上を歩いてみせるなんてことは、何でもないことだと言わなければなりません。
しかも本当の問題は、この11人に教養があったか、知恵があったか、言葉が上手であったか、そんな次元の話はどうでもいいんで、何よりも深刻であったのは、この11人には、信仰がなかったということなのです。最後の最後まで、信じ切ることができませんでした。お甦りになった主イエスに会い、ひれ伏した。それでも、この期に及んで疑い続けていたのが、この11人であったのです。
けれども、そんな弟子たちに近寄ってくださるのは、天と地の一切の権能を握っておられるお方です。伝道というのは、強い人、力のある人、知恵のある人に委ねられた仕事ではありません。自分で自分を救うことができる、それでもさらに余力のある人が、ではその余った分の力を他人の救いのためにも使いましょう、という話ではないのです。自分は自分を救うだけで精いっぱいだから、伝道なんて、他人の救いなんて、そんなことまでは手が回りません、という話ではないのです。疑いのために、恐れのために、水に沈みそうになったペトロの手を、けれども主がしっかりとつかんでくださって……もし一瞬でも主がその手を離したら、たちまち深い滅びの中に吸い込まれていったはずの、そういう弟子たちに伝道のわざが委ねられたのです。
伝道、伝道と言っても、何も難しいことを考える必要はないのです。主が共にいてくださる。もし主がわたしの手を離してしまわれたら、たちまち自分は滅びてしまう。そんな自分の手を、しっかりと握って、決して離すことのない主の恵みのすばらしさを語ればよいのです。必要に応じて、そのとき、その人にふさわしい言葉で、「世の終わりまで、いつもわたしと共にいてくださる」お方のことを紹介すればよいのです。こんなに幸いなことはないと思うのです。
山の上で、共にいてくださる主イエスを仰ぎ見ながら、伝道の使命を与えられた11人。鎌倉雪ノ下教会の歴史も、ここから始まったのです。この主イエスを信じ、愛するがゆえに、私どもも今、新しい望みに生きることができるのです。祈ります。

「世の終わりまで、わたしはあなたがたと共にいる」。主よ、ほかの何を疑うことがあったとしても、今私どもと共にいてくださる、あなたの恵みを疑うことは、もうできません。主と共に歩み、そしてその主のことを紹介する幸いを、ますます深くすることができますように。あなたの教会を、最後まで、あなたのものとしてお守りください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン