1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 十字架につけられた神

十字架につけられた神

2020年6月21日

マタイによる福音書 第27章27-44節
川崎 公平

主日礼拝


■主イエス・キリストが、十字架につけられたことを伝える聖書の記事を読みました。主イエスが十字架につけられたということ、これは信仰のあるなしにかかわらず、多くの人がよく知っていることだと思います。十字架は、既にキリスト教のシンボルになっていますし、その十字架というのがもともと、イエス・キリストを処刑したの道具であるということも、よく知られている事実だと思います。けれども、どうしてそんなことが起こったか。なぜイエスさまともあろうお方が、十字架で殺されなければならなかったということは、これは何度考えてもよく分からない、たいへん不思議なことだと言わなければならないだろうと思います。

十字架というのは、たいへん残酷な処刑の方法でありました。その処刑の方法をリアルに想像するだけでも、気の弱い人は気分が悪くなってしまうかもしれませんが、しかしひとつ私どもがよく理解していなければならないことは、新約聖書のいずれの文書も、十字架という処刑の方法の残酷さについて詳細に語るようなことは、まったくありません。主イエスがどんなに肉体的につらい目に遭われたか、聖書を書き伝えた人たちは誰も興味を持たなかったのです。なぜかと言うと、そういうことは私どもの救いに何の関係もないからです。

聖書が丁寧に伝えることはそうではなくて、どうして主イエスは十字架につけられたのか、ということです。どうして主は十字架に、というときの「どうして」という言葉には、ふたつの意味があると思います。ひとつには、「なぜ人びとは、主イエスをここまで憎んだのか」、どうして人びとは、主を十字架につけるなんてことをやってしまったのか、ということであり、しかしもうひとつの「どうして」の意味は、「何のために、主イエスは十字架につけられたのか」。主が十字架につけられたのには明確な目的があったのであって、どういう目的で、誰のために、このお方は十字架につかなければならなかったのか。何のために、どういう目的で、というのは、もう少し露骨な言い方をすれば、主イエスの十字架によって、私どもにどんないいことがあるのか、ということであります。

「どんないいことがあるか」などと申しますと露骨に過ぎるかもしれませんけれども、逆に何のいいこともなかったとするならば、つまり、主の十字架は、わたしには何の影響も与えなかった、わたしの生活には何の関係もなかったとするならば、こんなにむなしいことはないだろうと思います。主イエスが十字架につけられたのは、結局のところ、このわたしのためだったのだと言えなければ、信仰はわからないだろうと思いますし、しかも実は、まさにそこがいちばん分かりにくいんで、そこで私どもは何度でも最初の問いに戻るんです。どうして、主イエスは十字架につけられたんだろう。何の目的で、誰のために。主イエスの十字架によって、このわたしのために、何が起こったんだろう。

■私のような者が毎週ここに立ってお話しすることも、結局はそのことに尽きるはずで、伝道者パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ第2章においてこう言いました。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」。私のような伝道者が知るべきこと、語るべきことは、主イエスの十字架のほかに何もないと言うのです。そういうときにしかし、ひとつの誘惑があることも事実です。
それこそちょっと露骨な話をすることになるかもしれませんけれども、私が皆さんの前に立って説教をする、ことに主イエスの十字架についての話をするというときに、先ほど「ひとつの誘惑がある」と申しましたが、それは要するに、少しでもいい話をしたいと思うんです。皆さんも、毎週まじめに牧師の説教に耳を傾けながら、その説教に何の期待もしていないということは、おそらくないと思います。もしそうなら、とっくに礼拝生活をやめているでしょう。そしてその説教に対する期待というのは、たとえば、説教によって励まされたい。慰められたい。生きる力を与えられたい。少しでも自分の生活をよくしたい、整えたい。いろいろあるでしょう。説教者も同じことを考えるんで、皆さんを励ますような言葉を語りたい。皆さんの生活に、何の役にも立たない言葉ではしょうがない。説教を聴いてくださる皆さんの生活をしっかりと支える、力のある言葉を語りたいと思うのです。そのこと自体は、何も間違っていないだろうと思います。

けれどもそこで誘惑があるというのは……たとえば今朝、十字架につけられたイエス・キリストのことを聖書から読みました。人びとからさんざん馬鹿にされ、侮辱され、軽蔑され、罵られておられるイエス・キリストのことを語りながら、「でも、それだけじゃあ、皆の生活に役立つ話にはなりにくいな」。「何かもうちょっと、気の利いた話を付け加えないと」。「皆さんの、いろんな悩みや悲しみに応えるような話をしないと」……。そういう〈いい話〉をしないと、説教者としての人気がなくなるんじゃないかとか、そういうことまで考え始めるとしたら、それはやっぱり説教者としての堕落であり、そういう誘惑があるだろうということは、容易に理解していただけると思います。

■けれどもそういうことを考えるときに、私どもがよく理解していなければならないことは、もう一度申します。どうして、主イエスは十字架につけられたんでしょうか。それは実に単純なことで、このお方が、結局のところ、人びとの期待に応えるような救い主ではなかったからなのです。39節以下にこう書いてあります。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。

そのあとにもいろいろとひどい罵りの言葉が続きますけれども、内容的には同じことであります。「神の子なら、自分を救え。そして十字架から降りて来い」。キリストとか言いやがって、お前みたいなやつ、何の役に立つか、誰の役に立つか。悔しかったら十字架から降りて来い。そんな簡単なこともできないようなキリストなんか、死んでしまえ。そう言って、このお方は十字架につけられたのです。

私どもの信仰生活というのは、十字架につけられたイエス・キリストによって救われて生きる生活です。しかし、「救われて生きる」というのは、具体的にどういうことなのでしょうか。生きる力を与えられたい。自分の生活をよくしたい。そのために、神さま、こうしてください、ああしてくださいと、私どもはいろんなことを願うのですけれども、その私どもの願いを象徴的に言い表したのが、「十字架から降りて来い」という、この言葉ではないでしょうか。ところが主は、そのような人びとの期待に、一切お答えにはならなかったというのです。

「十字架から降りて来い」という人びとの願いは、いろんな形で出てくるだろうと思います。病気を治してくださいとか、経済的な悩みを助けてくださいとか、新型のウイルスを何とかしてくださいとか。もっと高尚な願いだってあるだろうと思います。社会がよくなるようにとか、人びとの心がよくなるようにとか、そういうことを願って、どうか神さま、あなたの力を見せてください、と真剣に祈っている私どものところに、もしも、この21世紀の日本にもう一度主イエスが同じような姿でおいでになったら、結局私どもも同じように、このお方をもう一度十字架につけてしまうのではないでしょうか。キリストとか言いやがって、何だ、この役立たず。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。そうすれば、信じてやったっていいんだぞ。けれども主イエスは、最後まで、彼らが期待するような奇跡をひとつもなさいませんでした。そういう主イエスのことを、人びとはこれでもかというほどの残酷さでもって、いじめ抜いたというのです。

■このような人びとのあざけりは、主イエスにとって、決して痛くも痒くもないものではありませんでした。何を言われても超然としておられたなんてことは、決してなかったのであります。むしろ、「十字架から降りて来い」と罵られたとき、主イエスはいちばん痛いところを突かれたに違いないのです。なぜかと言うと、主イエスご自身がほんの何時間か前に、ゲツセマネの園において、「父よ、できることなら十字架だけは勘弁してください」と、三度同じ祈りを繰り返されたと書いてあります。「三度」と聖書が言っているのは、完全に祈り切ったということです。「父よ、み心ならば、わたしは十字架につきます。けれども、できることなら、やっぱり何とかなりませんでしょうか」。その主イエスの祈りは、来週の礼拝で読みます「わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに至るのであります。何度でも申しますが、主イエスは、超然と悟りの境地で十字架の死を受け入れておられたなんてことはまったくないのです。そうではなくて、「神さま、わたしを見捨てないでください。できることなら、今すぐにでもこの十字架から降ろしてください。お願いします」。

ヘブライ人への手紙第5章には、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」祈りをなさったと書いてあります。そんな祈りをなさった主イエスが、ここでは人びとから、「神の子なら、十字架から降りて来たら?」とあざけられているのです。彼らのあざけりは、主のゲツセマネの祈りと見事に重なるものでありました。だから、「十字架から降りて来い」という人びとのあざけりは、主イエスにとっては、それを言われるのがいちばんつらい、いちばん痛いところを突かれるような言葉であったのです。「十字架から降りて来いよ」。そうだ、自分はまさにそのことを、父なる神に祈り抜いたのだ。今でも人間としての思いから言えば、すぐにでも十字架から降りてやりたい。けれども主イエスは、父なる神に対する従順のゆえに、遂に最後まで、十字架から降りることをなさらなかったのです。「わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに至るまで、その苦しみをなめ尽くされたのであります。不条理の極みであります。

けれどもそこでもう一度、「十字架から降りて来い」と言った人びとの心を丁寧に解きほぐしてみたいと思うのです。人びとは、もちろん表面的には、悪ふざけでそういうことを言っただけなのかもしれませんが、そのいちばん深いところでは、神の救いをどこかで待ち望んでいる、私どもの声でもあったのです。「神さま、どうかあなたの力を見せてくださいよ」と、神の救いを待ち望みながら、しかも同時に、神なんかいないと絶望してしまっているのです。そうではないでしょうか。その私どもの絶望を、たったひとりで担い切ってくださったのが主イエスである。そのことに気づかされます。

人間というのは愚かなもので、いつでもどこかで、神の奇跡を待っているのです。何か苦しいことに出会うたびに、「神さま、助けてください、見捨てないでください」と神の奇跡を願うくせに、同時に実は神なんか信じていないんです。いつもどこかで神に期待しながら、同時に絶望しているのです。そういう、(うまい日本語が見つからないのですが)アンビバレントな、矛盾した感情を持つ私どもの前に、ただ十字架につけられているだけの救い主が現れたときに、人びとは、ふつうでは考えられないほどの憎しみをむき出しにいたしました。何だよ、神の子って。何なんだよ、救い主とか言いやがって。だったらうんとかすんとか言ってみろよ。十字架から降りて来るくらいのこと、簡単にできないのか。
けれども、主イエスにとっての本当の奇跡とは、何だったのでしょうか。十字架から降りることが、いちばん大事な奇跡だったのでしょうか。もしあそこで、主イエスが十字架から降りて来られたら、有名な魔術師にはなったかもしれない。ちょっとした教祖にはなったかもしれない。しかし、もしあそこで主が十字架から降りて来られたら、私どもの救いもなかったのです。主イエスが最後の最後まで、絶望の苦しみをなめ尽くされたからこそ、主の死は私どものための身代わりの死になったし、だからこそ主イエスの復活は、私どもの知るどんな絶望にも勝つ、神の勝利のしるしになったのであります。

■このお方の苦しみこそ、私どもに与えられた神の救いのしるしである。そのことを伝えるために、マタイは27節以下で、もうひとつこのようなエピソードを伝えています。「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた」。そして、言ってみれば王様ごっこのようなことをしたというのです。お前、ユダヤの王様だってな。王様なら敬意を表して、全部隊を集めなきゃいかん。ここで「部隊の全員をイエスの周りに集めた」と言われるのは、だいたい5、6百人であったと言われます。この教会堂にも入りきらないくらいのたくさんの屈強な男たちが、たったひとりの傷だらけの男をからかうためだけにわざわざ集まって、何をしたかというと、王様なら王様らしくしてやろうと言って、28節以下。

そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。

王様なら、冠がいるだろう。それで、茨の冠を編んで主の頭に乗せた。その上から棒で頭をたたいたら、当然血が流れるでしょう。兵士たちは、何気なくただ面白がってやっただけでしょう。その何気ない出来事が、しかし私どもにとってはかけがえのない救いの証しとなりました。讃美歌136番は、「血しおしたたる 主のみかしら」という最初の言葉でたいへん有名になった歌です。

血しおしたたる 主のみかしら
とげにさされし 主のみかしら、
なやみとはじに やつれし主を、
われはかしこみ きみとあおぐ。

十字架につけられ、しかもそこから降りて来られなかったこの方こそ、わたしの主、わたしの王。お祈りをいたします。

神よ、あなたの救いを求め続ける、まさにそのところにおいても、罪を犯し続ける私どもです。あれが欲しい、これが欲しいとさまよいながら、主の十字架の重さ、主イエスの味わわれた絶望の深さを知ろうともせず、その十字架の前を素通りしてしまう私どもの浅はかさを、どうか憐れんでください。御子イエスの苦しみは、このわたしのための苦しみ。このお方こそ私どもの王と、こころから信じる者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン