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神を裁けるか

2020年5月17日

イザヤ書 第50章4-9節
マタイによる福音書 第26章57-68節
川崎 公平

主日礼拝


■再来週の日曜日、5月31日は、聖霊降臨記念の日曜日であります。その日はまだ礼拝堂に集まることができませんが、この礼拝堂において、洗礼入会式を行います。今しているような形で、洗礼入会式のライブ配信をするということになります。洗礼入会者の紹介も含めてなるべく通常通り行いますが、受洗者の個人情報に配慮し、その日に限り、礼拝のライブ配信は限定公開とさせていただきたいと考えています。

このような状況ですから、4月のイースターに洗礼を受けそこなった、というのはあまりに人間的なものの言い方かもしれませんが、そういう面があることは否定できない。そういう方たちの洗礼も、5月31日に行います。それに加えて、今日の礼拝のあとに、初めての試みですが、洗礼入会志願者のリモート試問会を行います。洗礼入会式は、さすがにリモートでは難しいかもしれませんが、リモート試問会ならできるでしょう。つまり、志願者の方たちは自宅で、牧師や長老たちも何人かは礼拝堂に集まっておりますが、自宅にいながら試問会に参加する長老たちもおります。こういうやり方は、一方ではさびしい面もありますし、スムーズにいくかどうか、機械音痴の私はまだ少し心配していますが、このような状況にあっても大勢の洗礼の志願者が与えられたことを、心から喜びたいと思います。

今日もこういう特別な礼拝の方法を強いられながら、それでも私は、いつもカメラの向こうにいる皆さんのことを意識しながらここに立っています。ことに今日は、これから試問会をお受けになる志願者の方たちもカメラの向こうにいらっしゃるわけで、きっと今緊張なさっているでしょうね。それだけに、今既にここで、聖書のみ言葉をしっかりと聞き取り、み言葉に慰められながら、特に志願者の方たちには、主イエス・キリストに対する愛と信仰を、はっきりと言い表していただきたいと願っています。

洗礼志願者の試問会をするときに、私がほとんど必ず読む聖書の言葉があります。マタイによる福音書の、第16章13節以下です。フィリポ・カイサリアという土地で、主イエスが弟子たちに改まってお尋ねになりました。「あなたは、わたしのことを何者だと言うのか」。それに答えて、一番弟子のシモン・ペトロが代表するように答えました。「あなたこそ神の子、メシアです」。メシアというのはつまり、キリスト、救い主ということです。あなたこそ、わたしを救ってくださるお方です。

なぜ洗礼の試問会において、この聖書の記事を読むかというと、試問会において、本当の意味で試問をなさるのは主イエスである、このお方の問いの前に、われわれは立たされるのだということを、大切にしたいと考えるからです。牧師に問われるのでもない。長老にどんな質問をされるかとびくびくするのでもない。ついでに言えば、志願者が質問するのでもないのです。「イエスさまってどんな方ですか。救い主とか言われますけど、本当にわたしのことを救ってくださるんですか」と、志願者が質問をして、納得できたから、じゃあわたしも洗礼を受けます、という話ではないのであって、「あなたは、わたしのことを誰と言うのか」と、主イエスの問いの前に立たされるのです。「あなたの答えを聞きたいのだ」。それほどに主イエスが私どもの答えを待っていてくださるというのは、それだけでも、私どもの心を熱くするものがあるだろうと思います。

「あなたは、わたしのことを誰と言うのか」。「あなたの答えを聞きたい」。この主の問いの前に立ちながら……ああ、そうだ、わたしは本当にこのお方に愛されているのだ。このお方の命によってわたしは生きているのだ。そのことに気づいたならば、私どもも、「イエスよ、あなたこそ」と、心からの喜びをもってお答えするほかありません。その意味では、洗礼の試問会に一種の緊張感があるのは当然だろうと思います。そこで問われることは、もう一度申します、「イエスとは誰か」ということです。「あなたは、わたしのことを誰と言うのか」。そこに、すべてがかかっています。

■なぜ延々とこういう話をしているかというと……今日ご一緒に読みましたのは、マタイによる福音書第26章の57節以下です。主イエスが、ユダヤの最高法院という場所で裁かれて、死刑の判決を受ける。そういう場面です。このような聖書の記事をお読みになって、皆さんがどういう感想をお持ちになったか。もしかしたら、どうということもない、どちらかと言えば、退屈な印象だけが残ったという方もあるかもしれません。けれども多くの聖書の学者が口をそろえて申しますことは、マタイによる福音書はたいへん深い思いを込めて、この主イエスの裁判の記事を書いただろうということです。なぜかと言うと、ここで問題になっているのは、まさに「イエスとは誰か」ということだからです。ある意味では、この箇所以上に、「イエスとは誰か」ということを明確にしている箇所もないくらいです。あるとすれば、先ほど紹介した第16章13節以下くらいです。

私どもの信仰というのは、結局のところ、「イエスとは誰か」、「ナザレのイエス、いったいこのお方は、何者なのか」というこの一点にすべてがかかっているのです。「あなたこそメシア、生ける神の子です」というペトロの答えを、ほとんどそのまま写したような言葉が、第26章63節にありました。大祭司が、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と尋ねています。ここでは、主イエスに問われるのではなく、逆に大祭司が主イエスに尋ねています。「イエスよ、どうか答えてほしい。あなたは、神の子、メシア、すなわち救い主なのか」。

この大祭司の発言を捕らえて、ある人はこう言いました。実はここで大祭司は、全人類を代表して質問をしているのだ。もちろん、知らず知らずのうちにであります。「ナザレのイエスよ、どうか答えてほしい。あなたはいったい何者なのか。あなたは、神の子、メシアなのか」。もしそうなら、そう答えてほしい。

全人類を代表して、というのは、ずいぶん大げさだと思われるかもしれませんが、考えてみればその通りだと思うのです。この二千年の間、「イエスとは誰か。このお方は、いったい何者か」、そのことを、あらゆる人びとが問い続けてきたというのは、ある意味では客観的な歴史的事実でもあると思います。われわれ人類の歴史に、大きな名を残した人というのはたくさんいるわけですが、ナザレのイエス以上に、多くの人の興味関心を呼び起こした人は、歴史上ひとりもいないのです。「イエスよ、あなたは本当に、神の子、メシアなのですか。もしそうなら、はっきりそうおっしゃってください」という全人類の問いを、言ってみれば大祭司は決定的な形で尋ねている。そう言うのです。

3月に、既に2名の洗礼入会志願者の試問会をしました。今日も、そして来週の礼拝のあとにも、洗礼の志願者の信仰の言葉を聞きます。ひとりひとりの歩みはまったく異なります。その人だけの特別な歩みがあり、その人だけの特別な試練も悲しみもあり、けれどもひとりひとり、主イエスに救われなければならなかった、そういうひとりひとりであったことを、試問会においていつも牧師たち、長老たちは思わされます。この人の、これまでの何十年という歩みは、結局のところ、イエスさまに出会うための歩みであったのだ。本当は、全人類の問いなのです。イエスとは誰か、ということは。

けれども、ここでの決定的な問題は、ここでユダヤの最高法院は、「イエスとは誰か」という決定的な問いを、主イエスご自身に尋ねながら、まさにそこで、決定的な罪を犯してしまったということです。人間が、神を裁いたのです。

よく考えてみますと、「お前は神の子、メシアなのか」という大祭司の問いは、たいへん欺瞞に満ちております。「お前は神の子、メシアなのか」。もしそこで「その通り」と主がお答えになったら、「神を冒涜した」とか何とか言って、有罪にすることができるし、実際、そういうことになりました。けれども他方から言えば、主イエスが民衆の人気を得ているのは、この人こそメシア、救い主ではないかという期待があったからで、もしも主イエスが、「いいえ、違います、わたしは神の子なんかじゃありません、しがない大工の子です」なんてことを言ったら、たちまち人びとの期待は冷めるに違いない。そういう意味でも、この大祭司の問いは、実に卑怯な質問であったと言わなければなりませんし、そもそも、本当にイエスが神の子、メシアであったとして、「生ける神に誓って我々に答えよ」というのは、これは神に対するふさわしい態度なのでしょうか。本来、考えられないことであります。

それにもかかわらず、であります。それにもかかわらず、この大祭司の問いは、全人類を代表する問いとなりました。「イエスよ、どうか答えてください。あなたは、わたしの救い主なのですか」。それはもっと突っ込んで言うならば、本当は、すべての人が神の救いを待っているということでもあると思います。けれども、この聖書の記事が語っていることは、そのように神の救いを待ち続けている人間が、だからこそ、このイエスというひとりのお方に直面したときに、このお方を救い主として迎えたのではなくて、かえってこれを裁いた。断罪した。そして殺してしまったということなのです。どうして、そういうことになってしまったのでしょうか。

■何度か礼拝の中でご紹介したことがあると思いますが、関根正雄先生という旧約聖書学者がいます。無教会という集まりで指導的な立場にあった方ですが、鎌倉雪ノ下教会でも一度説教者としてお招きしたことがあります。今申しましたように旧約聖書が専門ですが、この先生が、マタイによる福音書の講義録を残しています。ある無教会の集会で、マタイによる福音書を説き続けた、その記録です。この箇所について、こういうことを書いています。ユダヤ教、というのはつまり、ここで主イエスを裁いている人びとのことですが、言い換えれば旧約聖書の信仰というのは、切実に救いを待ち望んだ宗教であった。「お前は神の子、メシアなのか」と大祭司は言いましたけれども、この背後には既に何百年、何千年と救いを待ち続けてきた、その歴史が極まったところで生まれた問いであって、その大祭司の問いは結局、ユダヤ教の絶望の声でしかなかった。そう言うのです。

「絶望」というのはたいへんきつい言葉ですが、私はこの一週間のほとんど、この関根先生のひと言をめぐって考え続けたとも言えます。「イエスよ、答えてほしい。お前は神の子、メシアなのか」。救いの望みに生き続けたのが旧約聖書の信仰である。その意味で、旧約聖書というのは、待望の書、希望の書である。新約聖書は、その希望に対する成就の書物であると、私どもは教えられます。その通りです。けれどもここで関根先生が言われることは、希望に生かされていたはずのユダヤの人びとが、「あなたはメシアなのか」と問いながら、既に絶望している。そして実は、およそ人間の絶望そのものが、この言葉に言い表されていると、関根先生は言われるのです。救われたいと願いながら、まさにその救いをもたらす救い主が目の前に現れたときに、これじゃだめだ、ここには救いはないと絶望して、このお方を人間は裁きました。侮辱しました。

なぜそんなことになったかというと、理由は単純なのです。主イエスのもたらした救いと、自分たちの期待が、全然食い違っていたからです。神よ、われわれを救ってくださいと寝る間も惜しんで祈りを続けながら、実は既に、自分がどのように救われるべきか、期待というか、思い込みというか、そういうものが先にあって、それを基準にして、人間が神を裁くということが起こる。まさにここでも、人間が神を裁いたのです。

けれども、案外こういうことは、私どもにとっても遠いことではないと思います。私どもも教会に来て、あるいは聖書を読んで、神を求める。その時に、何の期待もなく神を求めるということはあり得ないと思います。こういう神さまであってほしい。神さまにはこういう救いを与えていただきたい。聖書にはこういうことが書いてあってほしい。ついでに教会はこういう教会であってほしい……。神さま、どうなんですか? こういう私どもの問いは、尽きることがありませんけれども、実はその問いのすべては、結局はひとつのところに行き着くのであって、「イエスよ、本当にあなたはわたしの救い主なのですか。もしそうなら、あなたはわたしのために、何をしてくださるのですか」。

けれども問題は、その主イエスのなさったことが、当時の人びとを失望させたということなのです。ああ、だめだ、この人じゃなかった。ここに救いはない。それで、人びとはイエスに絶望して、これを全会一致で死刑に定めました。それが、人間の究極的な絶望の姿であると説く関根先生の言葉は、本当に深いものがあると思いました。

67節以下では、人びとは「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」。この人たちは、皆、聖書の信仰に生きた、救いの望みを抱き続けた人びとです。必死で救いを求めながら、けれども本物の救いが目の前に現れたときに、これは違う、われわれの待っていた救いはこんなものではないと失望して、絶望して、「何なんだよ、お前は。何とか言えよ、この野郎」と言って、殴ったり、唾を吐きかけたり……それは、人間の罪が極まったと言うこともできるのかもしれませんが、また同時に、まさにそこに、人間の絶望が極まった姿でもあったのです。

■ところがそのようなところで、主イエスは何もお答えにならなかった。63節にも、主イエスは人びとの絶望の声を聞きながら、ひたすら沈黙を守っておられたと、そう書いてあります。その主イエスの沈黙の意味もまた、たいへん深いものがあると思います。「イエスは黙り続けておられた」。おそらく、私どもが同じように、「イエスよ、あなたは神の子、救い主なのですか」、もしそうなら、わたしにも分かるように教えてほしい、答えてほしいと言ってみても、主イエスはお答えにはならないだろうと思います。そして、これはおそらく多くの方の実感ではないかと思いますが、「イエスさまって、何者なんですか」と、たとえば牧師に質問してみる、長老に質問してみる。けれども、なかなか納得することができないというのは、多くの方の実感ではないかと思います。信仰というものは、自分で質問して、誰かから答えを与えられて、それで納得したところに生まれるものではないからです。

そうではなくて、そこにひとつの逆転が起こらなければなりません。主イエスに問うている自分が、実は主イエスから問われている。自分が神を裁くのではなくて、わたしが神に裁かれることに気づかなくてはなりません。そうすると、「イエスよ、本当にあなたが救い主なのですか」と質問するところに立ち続けるわけにはいかない。そうではなくて、逆に主イエスから問われる。わたし自身が問われる。「あなたはどうなんだ。あなたは、わたしのことを何者だと言うのか」。問われたら、答えないわけには、いかないのであります。「わかりません」ではすまないのです。「わかりませんから、教えてください」などと逃げることはできません。ことは、わたしの救いに関わることだからです。

主イエスはこの裁判の席で、ひたすら沈黙を守っておられましたが、ただひと言、こう言われました。64節です。

「しかし、わたしは言っておく。
あなたたちはやがて、
人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る」。

これは、世界を支配し、世界を裁く、裁き手としての主のお姿です。主イエスを信じるとは、私どもが神を裁くのではなく、主イエスが私どもを裁かれる。そのことを受け入れるということです。

ここに、神からの大きな問いかけがあることに気づくべきです。あなたは、このわたしを信じるのか。信じないのか。私どもの信仰は、この主イエスからの問いに答えるところにしか生まれないのです。

■ところで、今読みました64節ですが、先ほどわざと読むのを省略した、少し不思議な言葉がありました。64節の最初のところ、「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです』」。そう言うのです。「それは、あなたが言ったことです」、直訳すればもっと単純な文章で、「あなたは言った」、そう主イエスはお答えになりました。これは分かりにくいところですが、同時にたいへん大切なところです。「お前は神の子、メシアなのか」と問われて、主イエスは「yes」とも「no」とも言われずに、「それは、あなたが言ったことだよ」と、そう言われたのです。原文のギリシア語では、特に「あなたは」というところを強調する構文になっていますから、「それを言ったのは、あなただ」。わたしが言ったんじゃない、ほかでもないあなたがそう言ったんじゃないか。

私どもも、救いを求めて、いろんなことを、いろんな人に尋ねるんです。「あれはどうなんですか、これはどうなんですか、聖書のこの言葉、どういう意味なんですか」。「わたしが分かるように、わたしが納得できるように、説明してくださいよ」。もちろんこれは、そんなことをやたらと牧師に質問するなという意味ではありません。質問は大いに結構。けれども、先ほども申しましたように、どんなにたくさん質問をしてみたって、いちばん大切なところは、誰も答えを与えてはくれません。牧師だろうと長老だろうと、そして実は主イエスご自身も、いちばん肝心なことについては、決して答えてはくださらないということを、知らなければなりません。「それは、あなたが言うべきことだ」。この63節、64節でも、「イエスよ、本当にあなたが救い主なのですか」という問いに対して、主イエスは、本当の意味ではお答えになりませんでした。「それは、わたしが答えてあげるようなことじゃないんだよ。あなたが、自分で答えるべきことだ」。そして事実、あなたはそう言ったじゃないか。あなたが言った通りのことを、そのまま信じればいいんだ、というふうに読むこともできるかもしれません。

主イエスというお方は、実は一度もご自分で「われこそは神の子である」というようなことをおっしゃったことはありませんでした。これは、聖書を読むときの、基本的な姿勢を定めることだと思います。主イエスというお方は、いろんな奇跡をなさり、その言葉においても比類のない力をお示しになりましたが、遂にご自分からは一度も、神の子、救い主としての正体を明かすことはありませんでした。それは、主イエスが言っても仕方のないことだからです。言っても仕方がないというのはつまり、もし主イエスがそうおっしゃったとしても、私どもは容易に信じないでしょう。だからこそこのお方は十字架につけられたのです。

大祭司と最高法院の人びとは、「お前は神の子、メシアなのか」と問いかけ、けれども問うだけで、自分たちの責任で答えることはありませんでした。けれども本当の問題は、あなたが何を言うか。イエスとは誰か、十字架につけられたイエスのことを、あなたは何者だと言うのか。そのことが問われなければ、どうしようもないのであります。

今日は特にこのあと、洗礼の志願者の試問会をいたします。そこでも私どもは、十字架につけられたお方の、問いの前に立たされます。「あなたは、わたしを何者だと言うのか」。あなたの答えを聞きたい。あなたの声を、聴きたいのだと、主イエスが問うておられるのです。それに答えて、私どもも、「主よ、あなたこそ」と、答えさせていただく。ここに、決して絶望に終わることのない、私どもの望みがあり、幸いがあるのです。お祈りをいたします。

今こそ、私どもも、心からあなたにお答えいたします。主イエスよ、あなたこそ、生ける神の子、わたしの救い主です。あなたに出会うことができたことを、いや、あなたが私どもに出会ってくださったことを、今新しく、私どもの救いの出来事として受け入れることができますように。神を裁くわがままな思いから、私どもを解き放ってください。主のみ名によって祈り願います。アーメン