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いのちの待ち伏せ

2020年4月12日

イザヤ書 第53章1-6節
マタイによる福音書 第26章26-35節
川崎 公平

主日礼拝


 主のご復活、おめでとうございます。少し個人的なことになりますが、私が鎌倉雪ノ下教会の牧師として着任して、ちょうど10年がたちました。10年前の4月の最初の日曜日、この礼拝堂に、2度の礼拝に分けて、500名の方たちを迎えて、共に主のお甦りを祝ったことを、懐かしく思い起こします。今朝の礼拝は、鎌倉雪ノ下教会の皆さんと共に祝う、11回目のイースターということになります。

その11回目のイースターに、けれども今、私どもは礼拝堂に集まることができません。カメラの向こうに、無数の教会の仲間たちがいることを喜んでいないわけではありませんが、だからこそかえって、言いようのない寂しさを覚えます。しかし、そのような時にこそ、今聞くべき言葉を聞きたいと願います。私どもの主はお甦りになりました。そのお甦りの主が、今も共にいてくださる。その事実に立ちたいと願います。

教会員の皆さんには、一週間ほど前に郵便で届いたと思いますが……いよいよ本格的に教会堂を閉めなければならないことになって、教会員全員のメールボックスの中身を郵送するということをいたしました。そのときに、この春から着任した嶋貫先生のアイディアなのですが、小さなカードを同封しました。嶋貫牧師の描いてくださったイラストで、明らかに主イエスの手とわかる右手が、優しく差し伸べられている。そこに「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と、詩編第23篇の言葉が添えられています。ただそれだけのカードですが、私はそれを手にとって、思わずほろりと涙がこぼれました。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。そうだ、本当に、そうなんだ。お甦りになった主イエスが、わたしの羊飼いでいてくださるなら……鎌倉雪ノ下教会の皆さん、ひとりひとりにしっかりと差し伸べられている羊飼いイエスの御手を思いながら、「わたしには、何ひとつ、欠けることがない。不足することは何もないのだ」。その事実に立とう。立たせていただこう。改めて、そう思わされました。

復活の主の日にさえ礼拝堂に集まることができないということは、やはりたいへんな試練だと思います。この鎌倉雪ノ下教会も、100年を超える歴史を神から与えられながら、本当にさまざまなことがあっただろうと思います。しかし、今私どもが経験しているような試練は、少なくともこの教会の歴史の中では初めてではないかと思います。

しかし、試練っていったい何でしょうか。何が、私どもにとっての本当の試練なのでしょうか。主がわたしの羊飼いでいてくださるなら、わたしには、何も、欠けることがない、足りないことは何ひとつないのです。けれども、もし私どもにとって、本当の試練があるとするならば、それは、羊飼いを失うことではないでしょうか。わたしの羊飼いが誰であるかを、忘れてしまうことではないでしょうか。自分たちがいったい誰の羊であるのか、もしそのことさえ忘れなければ、どんな試練も、本当の試練にはならないのではないでしょうか。

しかし、今日読みました福音書の記事が明確に伝えていることは、弟子たちが経験した試練というのは、まさに彼らの羊飼いが打たれることであった。そのために、羊の群れはばらばらに散らされてしまう。マタイによる福音書第26章31節にこう書いてあります。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

「わたしは羊飼いを打つ」。それはつまり、神が羊飼い主イエスを打ちたたいて殺すということです。「すると、羊の群れは散ってしまう」。それこそ、本物の試練です。羊飼いを失った羊の群れば、ばらばらに散らされてしまう。それが具体的には、たとえばペトロという弟子については、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、そう言われるのです。今夜、そのことが起こる。「羊の群れは散ってしまう」ということが、本当に具体的に、あなたがたの身に起こる。まさに試練です。その試練の本質に、私どもは気づいているでしょうか。

主が十字架につけられたとき、弟子たちが皆、自分の主を見捨てて逃げ出したということは……ことに、一番弟子と目されていたペトロが、三度繰り返して主イエスのことを知らないと言ったということは、福音書の受難物語の中でも、特に私どもの心を打つところではないかと思います。「三たびわが主をいなみたる よわきペテロを」、主はなお赦してくださったと歌う有名な讃美歌に、共感する人も少なくないと思うのです。自分自身の姿を、容易に重ね合わせることができるからです。ああ、そうだ、われわれも、いろんな人に気兼ねしたり、そもそも自分の信仰が弱かったりして、なかなか主の弟子であることを証しすることができない。そういう聖書の読み方も、間違っているとは言えないかもしれません。

しかし、ある人が、この福音書の記事を説き明かしながら、こういうことを書いています。この弟子たちが散らされる、それは弟子たちの弱さを示す出来事でもあったかもしれないけれども、何と言っても、彼らが主の羊であることを示す出来事であった。羊飼いが倒れればたちまち途方に暮れる羊のように、彼らの存在がどれほど深く、羊飼いに依存しているか。それを知らないのは弟子たち自身であった。そう言うのです。

もう少し丁寧に言い直すと、こういうことです。ここで主イエスは、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。「つまずかないように気を付けなさい」と警告なさったんじゃない、「あなたがたは、必ずつまずく」。なぜかと言うと、あなたがたはわたしの羊だから。「わたしは羊飼いを打つ」と31節に書いてあります。つまり、父なる神が羊飼いイエスを打つ。そうしたら、「羊の群れは散ってしまう」。くどいようですが、そこでも主は、「散らないように、ちゃんとしなさいよ」なんてことはひと言もおっしゃらない。「あなたがたは、必ず、散り散りになってしまう」。なぜかと言うと、あなたがたは、わたしの羊だから。「羊飼いが倒れればたちまち途方に暮れる羊のように、彼らの存在がどれほど深く、羊飼いに依存しているか。それを知らないのは弟子たち自身であった」。

それを知らないから、自分が主の羊であることを忘れたから、たとえばペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」、そう言ったのです。ペトロは、嘘つきではなかったと思います。心の底から、誠実に、主の弟子として、言うべきことを言ったのです。「先生、死ぬときは一緒です。先生のことを知らないなどと、口が裂けたって言うものですか」と、そのように豪語した時点で既に、ペトロは自分が誰の羊であるかを忘れていたに違いないのです。自分自身の存在そのものが、どんなに深く羊飼いに依存しているか……けれども、羊がそのことを忘れても、羊飼いがご自分の羊のことを忘れることはありません。主はご自分の羊の名を知っておられる。その絆の深さを、主はここでもお語りになったのです。

32節では、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とも言われました。この羊と羊飼いとの絆の深さは、お甦りの約束に根ざす絆、死の力を超える絆です。けれどもペトロは、そのようなすばらしい約束を、少なくともここでは、すっかり聞き流してしまったようです。

しかしここで私どもは、あまり話を急ぎすぎない方がよいかもしれません。「主はわたしの羊飼い」、お甦りのイエスこそ、その羊飼いであるというのは、その通りであるに違いない。けれども、この羊飼いは、何度も読んでおりますように31節では、「わたしは羊飼いを打つ」、つまり、父なる神が羊飼いイエスを打つということが起こる。なぜ神は、私どもの羊飼いを打ち殺さなければならなかったのでしょうか。この羊飼いとは、いかなる意味において、私どもの羊飼いでいてくださるのでしょうか。

「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」というのは、旧約聖書のゼカリヤ書第13章の引用です。けれども今日は、敢えてゼカリヤ書ではなく、イザヤ書第53章を読みました。「神に打たれる羊飼いとは何か」ということについて、より深く、また豊かに語っていると思うからです。ここには羊飼いという言葉はありませんが、第53章6節には「羊の群れ」という言葉がありました。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

羊の群れが、けれども、散らされてしまって、「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」。なぜ、そうなるのでしょうか。羊たちの信仰が弱かったからだろうか。もっと羊たちが信仰をしっかり持って、たとえばペトロのように、「あの人のことなんか知らない」などと言うのではなくて、堂々と羊飼いと一緒に死ぬような立派な羊であればよかったんだろうか。イザヤ書は、そんなことはひとつも言っていない。第53章の2節から改めて読んでみます。

乾いた地に埋もれた根から
生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

弟子たちが羊飼いイエスを見捨てて逃げ出したのは、彼らが弱虫だったとか、意志が弱かったとか、そういう問題ではないのです。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」。それをイザヤ書は、「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」、まさにそこに、神のご意志があったと言うのです。たいへん不思議な神のご意志であります。なぜこの羊飼いは、こんなにみっともない姿をしているんだろうか。「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」。こんなの、羊飼いでも何でもない。ところが、そこで驚くべきことに気づく。4節。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、
わたしたちはいやされた。

これが、あの羊飼いに愛された、私どもの現実だと言うのです。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

それなのに、「わたしたちは思っていた」。「ああ、この人は、神に懲らしめられているんだ。しょうもないやつだ」。「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。それが、今日読みましたマタイ福音書第26章31節の、「あなたがたは皆わたしにつまずく」という言葉の意味です。

「あなたがたは、わたしにつまずく」。これは、うっかりするとあまり心に留まらない言葉かもしれませんが、考えれば考えるほど、不思議な言葉だと思います。先ほど、ペトロが三度主イエスを知らないと言う聖書の記事は、多くの人の共感を呼ぶと言いましたけれども、しかしこの言葉はどうでしょうか。皆さんは、「イエスさまにつまずく」という経験があるでしょうか。

「つまずく」という言葉は、あまり一般的な日本語ではないかもしれませんが、しかし教会ではよく使われる言葉です。「教会につまずく」などと言うことがあります。教会って、すばらしいところだと思っていたけれども、思いがけずいやな経験をする。何だ、この教会は。と、いうときに、「教会につまずいた」とか、「牧師につまずいた」などと言うのです。それも試練と言えば試練かもしれませんけれども、私どもにとって本当の試練というのは、もっと別のところにあるのであって、「今夜、あなたがたはわたしにつまずく」。イエスにつまずくのです。それこそイザヤ書がはっきりと予言してくれていたように、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」。だから、「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。つまずくとは、そういうことです。

だからこそペトロも、「あんな人のことは知らない、わたしは関係ない」と言ったのです。ペトロの信仰が弱かったからじゃない。もう少しペトロの意志が強ければ、あんなことを言わずに済んだのに、というような問題ではないのです。弱かったのはペトロじゃない、本当の意味で弱かったのは、主イエスの方です。その主イエスの弱さに、ペトロも他の弟子たちもつまずいたのであります。だがしかし、その主イエスの弱さの中に、どんなに確かな神のご意志が込められているか。

この先の第26章47節以下では、主イエスが捕らえられ、そこで弟子たちが皆主イエスを見捨てて逃げ出してしまいます。まさしく、羊の群れは散ってしまう。なぜ逃げ出したか。そのときの弟子たちは、実は決して臆病ではありませんでした。むしろ、弟子たちは実はたいへん勇敢であった。ひとりの弟子は、勇猛をふるって、剣を抜いて敵のひとりに切りかかりました。文字通り、真剣勝負で、命を懸けて、主イエスの命を守ろうとしたのに、ところが主は言われました。「おやめなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。せっかく勇気を出して剣を振り上げた弟子の失望は、深いものがあったと思います。いや、もう無理。もうこれ以上ついて行けない。なんなんだ、この人は……。

「輝かしい風格も、好ましい容姿もない」。弟子たちは皆、イエスにつまずいたのです。そこで弟子たちが見事に忘れたことは、自分が誰の羊であるか、自分が誰に愛され、自分が誰に守られているのか。そのことに気づかされたとき、ペトロはただ泣き続けるほか、なすすべがありませんでした。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
……

けれども、神はこの羊飼いイエスの傷によって、わたしたちに平和を与えてくださった。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と言うのです。

このイザヤの予言が現実となったのが、主イエスのお甦りの出来事でありました。マタイによる福音書第26章32節において、主はこう言われました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。ガリラヤというのは、ペトロを始めとする、多くの弟子たちの故郷です。「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った羊の群れ」を、けれども先回りするように、お甦りの主が待ち伏せしていてくださる。命の待ち伏せであります。このマタイによる福音書の最後の言葉はこうです。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」。そう言われたお甦りの主の手には、釘で打たれた跡がはっきりと残っている。わき腹には、槍で刺された傷跡が残っている。その「傷によって、わたしたちはいやされた」。ペトロも、いやされたのです。帰るべきところに、帰ることができた。

このペトロが、後にペトロの手紙Ⅰと呼ばれる手紙を書きました。興味深いのは、そこでもペトロがイザヤ書第53章をなぞるような言葉を記していることです。ペトロの手紙Ⅰ第2章24節以下であります。

……そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

ペトロ自身が、羊のようにさまよっていたのです。けれども、遂にペトロが帰るべきところに帰ったとき、ペトロはもはや二度と、「わたしは、決してつまずきません」などと言うことはなかったと思うのです。「わたしが、わたしが」と言っている限り、信仰は分からないだろうと思います。そうではなくて、ペトロが心から教えられ、慰められたことは、「主は羊飼い。だから、わたしには、何も欠けることがない」。復活の主をわが羊飼いとして生きることこそ、私どもの最高の祝福なのであります。お祈りをいたします。

良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。父なる御神、あなたはその羊飼いを、死人の中からお甦らせになりました。今もいつも、この羊飼いイエスの命のご支配を、確かな思いで受け入れさせてください。ありがとうございます。私どもは、あなたの羊です。主のみ名によって、祈り願います。アーメン