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ああ、神の愛を裏切るのか

2020年4月5日

イザヤ書 第54章4-10節
マタイによる福音書 第26章14-30節
川崎 公平

主日礼拝


●今日から、受難週が始まります。主イエス・キリストが、私どものために苦しみをお受けになった、そのことに思いを寄せる、特別な一週間です。次の日曜日は、イースター、復活の祝いの日。キリスト教会にとって、いちばん特別な、大切な時であります。しかし今年は、この受難週に、復活の祝いの日も含めて、教会堂に集まることを断念せざるを得なくなりました。本当は、今日ここでするはずであった洗礼入会式も延期します。毎年多くの方が熱心に集まる受難週祈祷会も、残念ですが中止です。ただし木曜日の夜だけは、今しているように、ライブ配信方式で礼拝を行います。

 なぜ木曜日の夜だけ特別扱いかというと、その木曜日の夜に起こったことを、先ほどマタイによる福音書第26章から読みました。主イエスが十字架につけられる前の晩、つまり木曜日の夜に、主イエスは12人の弟子たちと共に食事をなさった。別れの食事であります。そのことから、これを「最後の晩餐」と呼びます。多くの人が心に刻む、聖書の場面です。教会の絵描きたちが、競ってこの場面を絵に描きました。しかし、本当のことを言えば、これは決して「最後の晩餐」にはならなかったのであって、お甦りになった主がもう一度弟子たちを訪ねてくださり、そこで主が繰り返し弟子たちと一緒になさったことは、食事をするということでした。弟子たちは、お甦りの主と一緒に食事をしながら、「本当に、主はお甦りになったのだ」ということを、文字通り体で理解することができました。そこから教会の歴史が始まったのであります。

この弟子たちが絶えず思い起こしたのが、この木曜日の夜の過越の食事です。どんなに深い思いを込めて、主はあの食事を用意してくださったことか。そこで語られた言葉、そのときの主のしぐさまで、ひとつひとつが、弟子たちにとっては生涯忘れることのできないものになったと思います。最初の聖餐式であります。その中心に立つのは、26節以下の主の言葉です。私どもが、聖餐のたびに耳にしている言葉です。

「取って食べなさい。これはわたしの体である」。

「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

主イエスの体と血をいただくことによって、私どもは生きる。しかし、今日ここで祝うはずであった聖餐を、今日も来週も、ひょっとしたら当分、断念しなければならないかもしれないのです。

少なくとも4月いっぱいは、私どもはこの礼拝堂に集まることをしません。教会にとって、こんなに厳しい試練はないかもしれません。念のために申しますが、私どもは、国の偉い人に命令されたからしょうがなくこうしているのではありません。主の命じられた隣人愛の戒めに従うためには、これが最善の方法であると信じて、今は異例の礼拝の方法を選択しているのです。けれども他方で、私どもが明確にわきまえていなければならないことは、今しているライブ配信方式の礼拝というのは、決して本来の礼拝の代わりにはならない。そのいちばんの理由は、聖餐を祝うことができないからです。

私どもはおそらく当面、聖餐を断念しなければなりません。なぜ神がこのような試練を教会にお与えになるのか、私も正直なところ分かりません。しかし、だからこそ、今ますます切実に、聖餐の原点に立ち帰りたいと思うのです。あの木曜日の夜、主がどんなに深い思いを込めて、弟子たちのために食事の席を用意してくださったか。「あなたは、これを取って食べなさい。あなたは、わたしの命を食べて生きるのだ」と、そう言われた主の思いを、もう一度学び直したいと思うのです。

●「最後の晩餐」とも呼ばれるこの食事は、もともと「過越」と呼ばれるもので、旧約聖書に根拠を持つユダヤの人の祭り、その伝統に従って主イエスと弟子たちも食事をした。その食事の席で起こったことのすべてが、弟子たちにとって忘れることのできない思い出となりました。大げさでも何でもなく、永遠に記念されるべき食事となりました。その食事の席が楽しかったからではありません。むしろ話はまったく逆で、この食事の最中に、突然、主は弟子たちに言われました。21節。

一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。22弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

12人の弟子たちは、12人全員が非常に心を痛めて、しかし誰も自分に自信を持つことはできませんでした。「主よ、まさかわたしのことでは」。……この場所にいた弟子たちが、それこそ一生忘れられない悲しい思い出として、心に刻んだやりとりであったと思います。23節の主の言葉もそうです。

23イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」。

ちょっと不思議な表現ですが、日本的に言えば、「同じ釜の飯を食った」くらいの意味です。そういう深い絆に結ばれたはずのあなたがたの中から、裏切り者が出る。

24「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。

衝撃的な言葉です。いくら何でも言葉がきつすぎるようです。しかしここでも、私どもが思うべきは、弟子たちの受けた衝撃よりもむしろ、このような言葉を遂に口にしなければならなかった主の苦しみであると思います。

●「受難週」と、そのように呼びます。主イエスは、本当に、苦しんでおられるのです。主の受難、主の苦しみと、私どもは簡単に言いますが、いったい主イエスは何に苦しんでおられたんだろうか。十字架につけられたらやっぱり痛いし苦しいし、何てったって死ぬことくらい怖いことはない。けれども、主イエスにとって何がいちばん苦しかったって、たとえば十字架という刑罰の肉体的な痛みがどんなものであったか、聖書はそのようなことには何ら関心を持ちません。そうではなくて、聖書が繰り返し伝えることは、「主は、裏切られたのだ」ということです。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方がよかった」って、いや、いくら何でも言い方がひどい、という感想があるとしたら、それは間違っています。愛を裏切られるということは、何よりもつらいことです。ことに主イエスにとっては、それがいちばん苦しいことであったのです。

「裏切り」というのは、口にするのも憚られるような、いやな言葉です。しかも実は、私どもの誰もが、裏切られる悲しみを知っています。この人だけは、私の味方だと信じていたのに……親友に裏切られたり、夫・妻に愛を裏切られたり、牧師に裏切られるなんていう経験だってあるかもしれません。私どもが人間として生きるというときに、実はいちばんの問題になることは、われわれは欠けのある人間で、いろいろ失敗もあるとか苦手なことがあるとか、私どもの本当の問題はそんな生易しいものではないんであって、私どもは、互いに愛を裏切るような罪人なのです。そのために、私ども自身、死にたくなるほど苦しむことが、きっと長い人生の中では、一度や二度じゃないでしょう。逆に、どんなに痛い目にあったって、この人だけは絶対に自分のことを裏切らない。そういう人が、いつも自分のそばにいてくれたら、それだけで、人間というものはしっかりと立つことができる。そういうものだと思うのです。

けれども、ここで起こったことは、ただ罪人同士が愛し合ったりつまずいたり裏切ったり、という話にとどまらないので、ここで愛の裏切りに苦しんでおられるのは、神ご自身であられるのです。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」。主イエスは、ご自分がいちばん愛しておられた弟子に、裏切られたのです。主イエスは、イスカリオテのユダを、文字通り死ぬほど愛しておられたし、その愛するユダに裏切られたということが、主イエスにとってどんなにつらく、苦しいことであったか。その主イエスの苦しみの深さに、しかし私どもは、いつまでたっても鈍感なところがあるのではないでしょうか。

●皆さんも今、それぞれに、いまだかつて経験したことのないような生活をしながら、だからこそそれぞれに、特別な思いで聖書を読み、祈りの生活を作っておられると思います。そのような私どもの生活の中に、今受難週という特別な時間が与えられたということは、いったい何を意味するのだろうか。少しおかしな話をするようですが、私もまた、この1か月、ずいぶん特別な生活を与えられました。そういう生活の中で、特に先週、この福音書の記事と向かい合いながら、何と申しますか、どうも違和感がありました。違和感というか、率直に言うと、「いやあ……こんな状況で、こんな聖書の言葉を読んでいる場合かな」。

新しいウイルスの不気味な力に翻弄されて、私も、もしかしたら皆さんも、そしておそらく世界中が、ウイルスに魂まで奪われてしまったかのようです。そのようなときに、主の十字架とか、弟子の裏切りとか、最後の晩餐とか、そんな遠い世界の話をされても困るんで、だいたい、聖餐を祝うことさえできなくなっちゃったのに……。いやね、もうちょっと何と言うか、今のわれわれの実生活に、具体的に響く言葉を聞きたい、そういう言葉を説教したい。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。いやいや、その前にウイルスの方、何とかしてくださいよ……。

そのようなことを考えながら、ふと気づかされたことがある。どうしてイスカリオテのユダは、主の愛を裏切ったんだろうか。15節では、ユダは「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言って……ついでに申しますと、ここで「引き渡す」と訳されている言葉は、原文のギリシア語では、そのあとの「裏切る」とまったく同じです。そこでユダは、裏切りの代償として銀貨30枚を手に入れる。「そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」というのです。なぜそんなことをしたんだろうか。お金に目がくらんだのだという解釈も伝統的にありますが、これはあまり人気がありません。

ひとつの有力な説明はこうです。イスカリオテのユダもまた、イエスに大きな望みを置いていた。誤解を恐れず言えば、ユダは、他の弟子たちにもまさって、主イエスのことを愛していた、信じていた。きっとこの人が、真実の救いをもたらしてくださるに違いない。そう信じてイエスに従って来たけれども、だんだんとユダが悟ってきたことは、どうも自分の期待する救いと、イエスさまの考えていることは、ずいぶん食い違っているようだ。ローマ皇帝の支配をはねのけるような救い主、具体的には、この福音書の第21章にもそういう話題がありましたが、ローマ皇帝に税金を払わなくて済むような世界、もう暴力団のような徴税人におびえなくてよい世界、そういう新しい世界を切り開いてくれるメシアを期待していたユダにとって、主イエスのやることなすこと語ること、どれをとっても納得できるものではない。あるいは、ユダはわざと主を引き渡して、そうすれば、遂に主が最終的な力を人びとに見せつけてくれるに違いないと期待したのではないかと、そういう解釈をしてみせる人もいます。

今日は、30節までを読みましたが、その直後の31節には、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」という主の言葉があります。まさにイスカリオテのユダは、イエスにつまずいた。教会につまずいたとか、牧師につまずいたとか、そういう次元の話じゃない。ユダは、イエスにつまずいた。もっと言えば、神の愛につまずいたのです。裏切ったのは俺じゃあない、俺はイエスに裏切られたんだ。銀貨30枚というのは、奴隷ひとり分の代金にもならないと言われます。そこにもユダの失望が表れているかのようです。

そのユダのためにも、語られた聖餐制定の言葉です。「これはわたしの体である。あなたは、これを食べて生きるんだ」。ユダもまた、いちばん近くで神の愛をいただきながら、その神の愛につまずいたユダの姿は、実は私どもの姿に本当によく似ていると思います。ウイルスに魂まで奪われたかのようになって、これが足りない、あれが足りない、神よ、助けてくださいと祈りながら、本物の神の愛を見せられても、いやいや、神さま、今わたしがほしいのは、そういうんじゃなくて……私どもも、そのようにして、まるでユダのように神の愛を足げにするということが起こるのだと思うのです。

●その意味でも、24節の主の言葉は、強烈なものがあります。

24人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。

この言葉については、ひとつ個人的な思い出があります。まだ私が駆け出しの牧師であったときに、しばらく私の説教を聴き続けてくれた若い求道者がいました。あまり具体的なことをお話しするわけにはいきませんが、幼い頃から、自分自身を肯定することができない、その悲しみはどうしようもなく深いものがありましたが、それだけに、熱心に聖書を学び続けた青年でした。遂にこの人に洗礼を授けることができなかったことを、今でも悲しく思い出します。あるとき、この人からこんな質問をされました。旧約聖書の最初のところに、ノアの洪水という物語がある。神が、大洪水によって世界を滅ぼし尽くされた。なぜ神がそんなことをなさったかというと、創世記第6章にこう書いてあります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。

「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」。

そこでこの青年が疑問に思ったことはこうです。全能の神が後悔なさるって、どういうことだ。神が人間をお造りになって、けれどもそれがたまたま失敗作で、やることなすこと考えること、悪いことばかり。ああ、しまった、人間なんか造るんじゃなかったと言って、それを滅ぼされたというのは、読み方によっては、神さまもずいぶん身勝手だ、という感想もあり得るかもしれません。しかし、この創世記の物語を実際に筆を執って書いた人は、そんなのんきではなかっただろうと思います。むしろ、手がガタガタ震えるほどの思いで、この言葉を書き記したのではないかと思います。

「こんな人間、造らなければよかった」と、「生まれなかった方がよかったのだ」とさえ神がお考えになったとき、そのときにもいちばん苦しんでおられたのは、神ご自身であったのです。創世記の最初から、神は、人間に裏切られる苦しみに苦しんでおられたのです。その神の苦しみに、私どもは気づいているだろうか。たとえば皆さんも、一日の終わりに、自分の過ごしたその一日を振り返ってみればよいのです。そこで、神が自分の一日を、どうご覧になるか。「しまった、こんな人間、造るんじゃなかった」と、神が後悔なさるか、なさらないか。少なくともノアの洪水のときには、神ははっきりと後悔なさって、それで洪水を起こされた、その神の苦しみに気づいているだろうか。

けれども、その洪水のあとで、神はこう言われました。わたしは二度とこの地上を呪うことはしない。そう言って、永遠の契約のしるしとして、雲の中に虹を置かれました。虹が出るたびに、わたしはわたしの契約を思い起こす。わたしはもう二度と、人間を滅ぼすようなことはしないと。考えてみればこれは面白い言葉で、人間たちよ、虹を見るたびに神の愛を思い起こせと言っているのではないのです。神は、虹をご覧になるたびに、ご自分の約束を思い出してくださる。もう二度と、人間を滅ぼすことはしない。けれども、その洪水の後に造られた人間の歴史は、相変わらず神を後悔させるような、神の愛を裏切るような歴史でしかありませんでした。その歴史を神がご覧になりながら、この人間の罪の歴史を解決するには、他のいかなる道も残らず、ただ神のみ子ご自身が、裏切られる苦しみを身に受けるほかありませんでした。そのお方が、ここで言われるのです。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、よかったのだ」。

●ここに、「不幸だ」と訳されている言葉があります。原文のギリシア語をそのまま発音すると、「ウーアイ」という言葉です。「不幸だ」と訳しても間違いではありませんが、もっと単純に、「うう」と訳してもよかったかもしれません。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は、うう…………」。ユダよ、わたしは、あなたにだけは、裏切られたくなかったんだ、という主の呻きの深さは、主の愛の深さを表すものでしかないのであります。

先ほどの若い求道者の話からずいぶんそれてしまったようですが、この人の質問にそのとき私がどう答えたか、もうずいぶん昔のことで覚えておりませんが……神が後悔なさるほどに、あなたは愛されているんだから。イエスさまがこれほどに苦しみ呻かなければならないほどに、あなたは愛されているんだから。あなたも洗礼を受けて、「取って食べなさい」。あなたは、主の愛を食べて生きるんだ。だがしかし、このときのイスカリオテのユダにとっては、その主の言葉もまた、むなしく響きました。

第27章の冒頭では、ユダは自分のしたことを後悔し、自ら首を吊って死にます。「生まれなかった方がよかった」という判決を、自分自身にそのまま下してしまいます。そのユダの後ろ姿を追いかけるように、「ウーアイ」という主イエスの呻きが響きます。愛を裏切られた、主の苦しみから生まれる呻きであり、それはまたノアの洪水の時にまでさかのぼる神の苦しみでもあったのです。どんなに苦しんでも、なお私どもとの愛の関わりを求めておられる、神の呻きです。「こんな人間、造ったつもりはないのに、なんでだ」。主イエスが十字架につけられたのは、その人間の不幸を、主イエスが身代わりになって担ってくださるためでした。

その主イエスが、今私どもにも言われるのです。「取って食べなさい。あなたは、わたしの愛を食べて生きるのだ」。あれが大事、これも大事、ウイルス対策だって大事、けれどもいちばん大事なのは自分の命。けれども、そのいちばん大事な自分の命を生かすために、神の御子イエスがどんなに深く苦しまなければならなかったか。その神の愛に目を開かれてこそ、私どもは自分の命をすこやかに生かすことができるのです。

●このような混乱の中でも、先月の長老会において、ふたりの洗礼入会志願者の試問会をすることができました。その洗礼入会式を、今日することができなくなったことは、とても残念なことですが、私自身、主の前に改めて問われるような思いがいたしました。洗礼の試問会のときに、私が必ず読む聖書の言葉があります。マタイによる福音書第16章において、主イエスが改まって、弟子たちにお尋ねになる。「あなたは、わたしのことを何者だと言うのか」。試問会をする牧師・長老たちも、いつも新しくこの主イエスの問いの前に立たされます。「あなたは、わたしのことを、誰と言うのか」。わたしを信じるのか、信じないのか。どうなのか。主の愛の問いかけの前に、今静かに、確かな思いをもって立ちたいと心から願う。そうすれば、私どもは、神に愛された人間として、すこやかに立つことができるのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、今私どもも、不幸な人間ではなく、あなたに愛された、幸いな者として、み前に立ちたいと願います。あなたの御子の苦しみを思いつつ、もうあなたの愛を裏切ることがありませんように、切に祈り願います。主のみ名によって祈ります。アーメン