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真実

2020年12月13日

嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第7章25-36節

主日礼拝

今日は、クリスマスを記念して、信仰告白と洗礼入会式が行われますことを、とても嬉しく思います。そのお二人は、主イエス・キリストを、救い主としてお迎えになりました。この方を、わたしの、まことの救い主としてお迎えになりました。主イエスは、ほんとうの、まことの救い主であります。

そのほんとうの、まことのということを今日、主イエスがこう言われました。「真実」。「わたしをお遣わしになった方は真実」(7:28)であり、
「わたしはその方のもとから来た」(7:29)、と言われました。
父なる神様は真実であり、主イエスはその方のもとから来られた、真実の救い主です。

そのことを主イエスが仰せになったのは、エルサレムの人たちの中に、主イエスのことを、この人はほんとうの救い主かどうか疑う人たちがいたからでした。その人たちは、主イエスが人としてお育ちになった出身地を知っていましたので、自分たちがよく知っているそんなところから、救い主が出るはずがないと思ったのです。でもそうやって主イエスのことを、偽りだという時には、それはその方をお遣わしになった神様のことも、偽りものというのと、同じことでした。それで、主イエスは大きな声で、叫ぶように言われたのです。「わたしをお遣わしになった方は真実」(7:28)であり、「その方がわたしをお遣わしになったのである」(7:29)。

私どもの教会の、そして全世界の教会の、どこも同じに大事にしている信仰告白に、ニカイア信条と呼ばれるものがあります。4世紀に、教会が、これが教会のただ一つの信仰であると決めて、制定されたものです。そのニカイア信条では、主イエスのことがはっきりと、こう告白されています。

この方は「光よりの光、まことの神よりのまことの神」。

キリストは、まことの神よりのまことの神である。
父なる神様がまことで、その神様からおいでになった、この方は、まことの神である。

そのことを教会は、いまも昔もたいせつに告白するのです。この「まことの」というのには、二つの意味があるように思われます。まことの、すなわち「真実の」というのは、「ほんもの」である。にせものではなくて、ほんものであるということです。それからもう一つは、それは、真理にかなった、偽りがない、信頼できる、そういう「真実」であります。

その真実なる方、「まことの神よりのまことの神」である主イエスを、わたしの救い主として、お迎えするというのは、どういうことなのでしょうか。

誰かが、自分のところを訪ねて来てくれるというのは、嬉しいことであります。それも、このわたしという人間を、救ってくれるというなら、もっと嬉しいです。

でも、だからといって、突然来られても困るのが人間なのです。こちらがいいというまでは来ないでくださいというのが人間なのです。それには、ちゃんとしたいという思いもあるからです。救い主をお迎えするなら、ちゃんと準備をしないといけません。周りもととのえて、自分も身支度をして、部屋もきれいにしないとなりません。それに、忙しいときはちょっと困ります。都合のいい時になったら、来てくださるとたすかります。

でもとても緊張してしまいそうです。だいたいわたしという人間は、その方ときちんとお話ができるでしょうか。それに、わたしのような人間が、いいのでしょうか。でも救ってくださるなら、救ってほしいのです。わたしには、いろいろあるのです。解決できないことも、いっぱいあるのです。どうしてこんなことを考えるのか、どうしてこんなことをするのか、自分でもわからないものもあり、醜かったり、惨めだったりもするのです。

でもその方が訪ねて来ても、わたしはその方が、救い主だとわかるのでしょうか。わたしはその方のお顔も知らないし、お声も知らないのです。それにもし、にせものが来たらどうしましょうか。聖書には、救い主はベツレヘムという町でお生まれになったということが書いてあるから、もし誰かがわたしを訪ねて来たら、そのことを聞いてみましょう。あなたは、ベツレヘムから来られましたか。ちゃんと確認しないといけません。それと、聞かなくてはなりません。あなたは、わたしの期待通りにわたしを救ってくださいますか。わたしの思うようにしてくださいますか。それも確認しないといけません。

すると向こうで声のようなものが聴こえました。でもそこは困ったことに、裏口の奥の部屋でした。わたしには、誰にも踏み込めない、心のへやがあるのです。他のだれも入ったことがないし、自分の問題が積み重なっているところなのです。そして時々、そこに閉じ込められて苦しくなったり、逆に気に入って出てこないこともあるのです。それなのに、そんなところに、誰かが訪ねて来たようでした。でももし、その方なら、困るので、正面から来てくださるように言ってみましょう。でも、窓から、そっとのぞいてみると、その方はずっと外で待っていたようでした。

わたしには聞こえなかったけれど、ずっと待っておられたようでした。ずいぶんお待たせしてしまい、わたしは慌てて、そして、勇気を出して聞いてみました。
あなたは、どなたですか。あなたは、どこから来られたのですか。

すると声がしました。
「真実」。

そして続けて聴こえました。
「わたしをお遣わしになった方は真実であり…わたしはその方のもとから来た。」

わたしは急に恐ろしくなりました。真実なんて。
わたしという人間の中には無いように思われたからです。だからわたしは言いました。そんな方を、わたしのへやにお通しするわけにはいきません。わたしは、あなたをお迎えするような人間ではありません。でも、あなたのお声を聞いて、いまわかりました。わたしは、ほんとうは求めているのです。あなたにお会いしたいです。ちゃんと話をしたいです。だから、教えてください。
神様が、人間を救われるとはどういうことですか。
わたしのような人間でも救ってくださるのですか。
真実とは何ですか。

すると、向こうから強い風が吹きつけてドアが開き、その方は見えなくなりました。でも、その方がおいでになることがわかりました。わたしにはわかりました。神様は、その「真実」を、どこで現わされましたか。
神様の真実は、どこにありましたか。

それは飼い葉桶の中、十字架の上、墓の外に、
そこにありました。

罪を取り除き、永遠の命をくださるために、真実から遣わされたあなたが、わたしには見えました。
神様の真実は、あなたです。

わたしは、その方がとどまっておられるように思いました。それでわたしはその方をお迎えしました。すると、わたしのへやが「真実」でいっぱいになりました。そしてわたしの問題は消えてなくなったのではなくて、あなたが、すべて受け取ってくださったということを、知りました。

それでわたしは申しました。どうぞ、わたしのうちにずっととどまってください。そして生涯を全うさせてください。それから、あなたのところに迎え入れてください。

洗礼を受け、信仰告白をするというのは、この真実な方がわたしのうちに住んで、わたしのうちで生きてくださるということであります。

だから人間は、この救いを受ける気持ちにならないとならないのです。ほかの方法では、どうしようもなく、他の方法はないのです。

今年のクリスマスは、以前とは違うクリスマスで、暗いクリスマスと言われたりしますが、でもクリスマスは、にぎやかに楽しく歌ったり踊ったりするのではなくて、暗い夜、ぜんぶが見えなくなってしまったような中で、ほんとうにただ、この方と自分だけが向かい合って、迎える日なのです。

わたくしですけれども、わたくしはこの「真実」という言葉と、この数日ずっと過ごしてまいりましたので、ある人に、「真実って何だと思う?」と聞いてみました。「真実って何だと思う?」
するとその人は、考えて、こう言いました。
「神様が、なにがあっても、ただしく、接すること。」

わたくしはその人に、聖書のことを聞いているのだとか神様のことだとかを言わなかったので、その人がまず「神様が」、と即答したことに驚いてしまいました。そして「なにがあっても」。神様が、なにがあっても、ただしく、接すること。接することというのですから、私どもに、そして自分にということでありましょう。
神様が、なにがあっても、わたしに、ただしく接せられること。

だから…、十字架があったのだと、思わされました。
罪にも、ただしく、試練のようなつらいことも、神様がただしく、なさってくださるのだと。

その神様が、御子を、私どもに、まことの救い主としてお遣わしになったことを、共に心から喜び、感謝をしたいと思うのです。

お祈りをいたします。

父なる神様、
あなたのまことを、私どもにお与えくださり、感謝をいたします。どうぞ、その中で私どもを生かしてください。
主の御名によって祈ります。
アーメン