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イエス・キリストを信じる

2018年12月30日

ヨハネによる福音書 第4章39-42節
イザヤ書 第53章1-12節
上野 峻一

主日礼拝説教


今日のテキストは、ヨハネによる福音書、第4章1節から続く最後のまとめの部分です。このテキストから聴くべき御言葉を、三つのポイントに整理して、お伝えしたいと思います。三つのポイントとは、今日の箇所にある大事なキーワードに基づいています。1つ目は、「信じる」ということです。2つ目は、「とどまる」ということです。最後3つ目は「ことば」ということです。

はじめに、「信じる」ということです。ヨハネによる福音書では、他の福音書よりも約6倍、「信じる」という単語が出てきます。このことからも、ヨハネ福音書が、いかに「信じる」ということを重要だと考えているかが分かります。39節「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことのすべてを言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」その町の多くのサマリア人は、「イエスを信じた」とあります。そして、41節の最後にも、「イエスの言葉を聞いて信じた」とあります。この箇所では、「イエスを信じる」という出来事が起こっています。この「信じる」とは、一体どのようなことでしょうか。実は「信じる」ということは、私たち日本人のイメージと、聖書が伝える「信じる」ということには、大きな違いがあります。「信」という漢字を広辞苑で引くと、「欺かないこと、言を違えないこと、そして、思い込み疑わないこと」とあります。日本語における「信じる」とは、簡単に言ってしまえば、自分の問題、自分中心です。ところが、聖書が元々書かれたギリシャ語で「信じる」という意味は、「人格的信頼を全面的にかけて投入する、頼り切る、自分自身をゆだねて服する」とあります。つまり、自分中心ではなくて、相手中心ということです。相手に寄っている、対象が問題なのです。一言で言ってしまえば、「信じる」とは、「ゆだねること、お任せすること」です。イエス・キリストを信じるとは、イエスさまに、全体重を委ねることです。全幅の信頼を、ただ主イエスにのみ置くのです。文字通りに、自分の存在を、自分のすべてを、主イエスにお任せすることが、聖書が伝える「信じる」ということになります。

39節で、サマリアの女の証言を聞いた者たちは「イエスを信じた」とありましたが、宗教改革者カルヴァンは、ここでの「信じる」という意味は、本来の意味では用いられていないと言います。なぜなら、この「信じる」ということは、間接的なもの、つまり、サマリアの女を介してのことだからです。しかし、この「信じる」出来事には、続きがあります。サマリアの女の証言によって、主イエスを信じた者たちが、今日の最後の箇所42節では、このようになります。「彼らは、女に言った。『わたしが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは、自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。』」彼らは、はじめは間接的に、女の証言によって、主イエスを信じました。ところが、41節で「イエスの言葉を聞いて信じた」と、2回目に「信じた」という時は、直接的に信じているのです。直接的に信じた者たちは、主イエスが、世の救い主であるということを告白します。彼らは、主イエスと直接出合って、主イエスにすべてを委ねることになったのです。間接的から、直接的への移っていくことが大事です。

二つ目は、「とどまる」ということです。サマリアの女の証言を聞き、信じて、多くの人たちが、町からやってきました。その者たちは一体何をしたのか。40節「そこで、このサマリア人たちは、イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。」最後の「滞在された」という言葉も、ギリシャ語では「とどまる」と同じ言葉です。この言葉も、ヨハネ福音書では、何度も記される大事な言葉です。イエスさまのところへ、サマリアの女の証しによって、主イエスを信じた者たちがやってきました。そして、主イエスに、自分たちのところに「とどまる」ようにと願いました。この時のイエスさまの喜びは、どれほど深いものであったことでしょうか。サマリア人は、異邦人とされ、神の救いから外れた者たちとされていました。その者たちが、主イエスを信じ、主に「とどまる」ことを願ったのです。主イエスは、彼らの願いに応えて、二日間、滞在されます。その間に、どのような言葉が語られたのか、どのような話がなされたのか、それは、ここには記されていません。けれども、その必要はありません。彼らは、主イエスと直接出会い、主の言葉を聞き、そして、共に時間を過ごしたのです。「どどまる」ということは、同じ時間を過ごすという意味です。主イエスは、彼らと共に過ごされました。同じ時を生きたのです。主イエスが、そこに「とどまり」、彼らはキリストと「つながる」者とされたのです。だからこそ、起こった出来事がありました。それが、41節「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」人々は、サマリアの女の証しによって、既に主イエスを信じていました。だから、人々は、主イエスのもとへとやってきたのです。そして、主イエスと直接出合い、さらに多くの人々が、主イエスを信じる出来事が起こることになります。彼らは、女に言います。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。」

最後、三つ目のポイントです。それは、「ことば」ということです。彼らが、主イエスを信じる、主イエスに全幅の信頼をおいて、すべてを委ねることができたのは、彼らが言葉を聞いたからです。彼らは、最初サマリアの女が、証しする主イエス・キリストを知らされました。その証しが、間違っていたということは言えません。けれども、正確に、主イエスを表現し、伝えたのではなかったことが伺えます。39節では「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と、サマリアの女が町の人々に伝えたとあります。これは、主イエスを「預言者だ」とする言い方です。ところが、直接、主イエスの言葉に聞いた彼らは、「この方が、本当に世の救い主であるとわかった」と言います。「預言者」から、「世の救い主」へと変わります。これが、サマリアの女によって「間接的に聞いた」ことから、イエスさまによって「直接的に聞いたこと」への変化であると言えます。彼らが、最初に主イエスを信じたのは、サマリアの女の言葉によってです。聞いた人々に届いたのは、女の「ことば」でした。この言葉と訳されるものは、ギリシャ語では「ロゴス」です。「はじめに、言があった。」「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という「ロゴス」です。人々は、サマリアの女の証しを聞いて、女のロゴスによって、主イエスを信じました。彼女の証しは、完ぺきではなかったかもしれません。しかし、ロゴスが届いたのです。だから、人々は主イエスを信じました。そして、主イエスのもとへと、人々がやってきました。人々は、主イエスのもとへ来て、主がとどまり、さらに多くの人が、主イエス自身のロゴスを聞いて信じるようになります。そして、彼らは、女に言います。「もう、あなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかった。」彼らは、直接、主の言葉に聴いて、世の救い主である主イエス・キリストを信じる、確かな信仰告白へと至るのです。

この出来事は、今を生きている私たちの出来事と重なります。私たちが、主イエス・キリストを知らない人へ、福音を届けたいと思う人へと、イエスさまを証しします。その証しは、必ずしも正確で、完ぺきであると限りません。むしろ、間違っていないだろうくらいのものでしょう。しかし、私たちが「話したこと」によって、「伝えたこと」によって、もし、その方が、教会に来るのなら、主イエスを信じるのなら、それは、あなたの「ことば、ロゴス」が届いたからです。私たちの証しは、私たちが話すことは、完ぺきであるはずがありません。キリスト者であったとしても、正しく生きたいと願っていても、それができないことを、私たち自身がよく知っています。しかし、それでも、私たちたちは、決して語ることをあきらめません。繰り返し、悔い改め、神さまの方へと向き直ります。愛する人が、イエスさまに直接出合って欲しいと、救われて欲しいと、祈り続け、証しし続けます。なぜなら、このような私たちを決して見放さずに、あきらめずに探し続け、出合ったくださった主イエスがおられるからです。神は、私たちを愛して、独り子をお与えくださいました。神の熱意が、ここにあります。私たちを救うために、主イエスは、苦しみ、痛み、十字架の死に至るまで、私たち一人ひとりを愛し抜かれました。その愛に、今も生かされているのが私たち一人ひとりです。この方に、私たちは全幅の信頼をもって、すべてを委ねます。そのような私たちのところに、主がとどまってくださいます。そして、確かな「ことば」を、主イエスご自身を、私たちに与えてくださるのです。