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どこから来られましたか

2018年7月8日

ヨハネによる福音書 第3章31-36節
上野 峻一

主日礼拝説教

本日の説教のテーマがあるとしたら、それは「どこから来たか」ということです。今日の聖書のテキストであるヨハネによる福音書第3章31節以下には、このようにありました。「上から来られた方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」当然、私たちは皆、地から出る者です。地に属する者として生きています。けれども、明らかにそうではない方がおられる。一体この方は、どこから来たのか。私たちが生きる地ではなく、天から上からやって来られた方、そのお方が、主イエス・キリストです。

今日ここにお集りの皆さんは、どこから来られたでしょうか。恐らく多くの方が「家」から来たことでしょう。もしかすると中には、ご自分の家ではないところから来られた方もいるかもしれません。旅行先から直接、来られたとか、実家からとか、あるいは職場からという人もいるかもしれません。「どこから来たのか」ということは、その人が、今どういう状況にあるのか、また一体どういう者かということと深く結びついています。私たちが日常の生活の中で相手に「どこから来られましたか」と問いかける時には、その人が、今ここにいるものとして「違和感」をもっているからです。「一体この人は、どこの人だ。どうしてここにいるのだろう」と、「どこから来られましたか」と尋ねることになります。

ヨハネによる福音書では「主イエス・キリストが一体どなたであるか」と、時折、人々が非常に困惑している様子が描かれます。その決定的なところは、イエスさまが十字架におかかりになる前、ローマ帝国のユダヤ州の総督ポンテオ・ピラトから尋問を受ける場面です。ピラトは最後の質問として、イエスさまに対して「お前は、どこから来たのか」と問いかけます。それに対して、イエスさまはお答えになりませんでした。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び狂う人々と、何一つ罪を見出せない主イエスとの間にあって、ピラトには、いよいよ「イエス」というお方が、本当のところ一体どういう者であるのか、わからなくなったのです。そして、イエスさまは、この尋問においては、最後の最後まで、ご自分がどこから来られたのか語られることなく、十字架へと向かわれました。聖書に記されている当時、世の人々は、イエスさまが死なれた最後の最後まで、この方が「どこから来れた方であるか」知ることができませんでした。イエスさまの明らかな「違和感」、神の御子である主イエス・キリストを受け入れることができなかったです。

主イエス・キリストが、どのような方であるのか。どこから来られた方であるのか。そこで、何よりも初めに、キリストを証しする言葉として、上から、天から来られた主イエス・キリストは、地から出た私たちとは、明確に違う存在であることが伝えらます。主イエス・キリストは、すべててのものの、私たちの上におられる方です。「上と天」に対して「地」があります。私たちは地での生活を営みます。そこに、「天から、上から、」やって来られた方が、イエスさまであると、はっきりと宣言されます。主イエス・キリストは、私たちを救うために天から来られました。これ以外の目的はありません。この救いは、天の父なる神さまからの救いです。イエスさまは神の御言葉を語られます。天において、神の支配される完ぺきなところで、人が本当にあるべき姿を取り戻す神の国で、見たこと、聞いたことを証しされました。今日のヨハネ福音書の第3章34節には「神がお使わしになった方は、神の言葉を話される」とありますが、この「言葉」という元々の言葉は、「語られたこと」という意味があります。天において、父なる神さまが語られることを、見たこと、聞いたことを、そのまま告げられるのが、天から来られた方であるのです。

ご存知かもしれませんが、昭和の名曲の一つに「上を向いて歩こう」という歌があります。幼い頃、大好きでよく歌っていたことがあります。讃美歌でも何でもない歌謡曲ですが、悲しくて、辛くて涙が出そうでも、歌っているうちにどこからか元気になれました。私たち地に生きる者には、決して手の届かない上を見上げて、その天には、きっと確かな希望があると、誰もが心に思い描くのかもしれません。神はそこから、確かな救いを与えてくださいました。見たこと、聞いたことを証ししても、受け入れない者のために、「信じます」と告白して洗礼を受けたにも関わらず、それでも繰り返し、神に背き、罪を犯し続けてしまう者たちのために、愛する独り子、主イエス・キリストをお与えになられました。

御子は、すべてのものを、神からその手にゆだねられた方であると語られます。父なる神の愛が、御子である主イエスにおいて、真に示されているからです。父なる神の愛、そのものが、まさに主イエス・キリストです。今日のヨハネによる福音書の箇所では、最後にこのように記します。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」とても厳しい言葉のように聞こえます。信じない者、受け入れない者に対する神の裁き、罰のようにさえ思えてなりません。しかし、決して忘れてならないのは、この言葉によって証しされている方が、どなたであるのか、どこから来られた方であるのかということです。私たちの命は、やがて終わりを迎えます。地から出た者として、地に属する者であるからです。神の怒りは、人間が死ぬべき存在であることのしるしとなります。私たちは、神に背く罪ある人間であるため、神の怒りによって、この命が朽ちて、地へと帰っていくしかない者だったのです。

しかし、私たちが、本当に帰るべきところ、神の住まいである家を、そこへと至る確かな道をお示しくださった方が、私たちのところに救い主として来られました。地から出た、地に属するものとして、空しく死んでいくのではなく、本当に帰るべき天の住まいがあると神の言葉を語り、そこへ導く方が、天から来てくださいました。その方が、御子イエス・キリストです。この方を信じる者は、「永遠の命を得ている」と証言されます。今まさに、この時に「永遠の命」を持っているというのです。つまり、それは、やがて自分が帰るべきところを知っている、御子を信じ、従う方が、どこから来られたか知っているということです。主イエス・キリストを信じて生きる先に、必ず復活の希望、永遠の命が与えられた者として、この命の終わりに新しい始まりがあると、確信をもって今を生き続ける者に与えられる恵みです。神の怒りは、文字通り、「その上に」とどまりました。本当なら「その証しを受け入れることができない」私たち人間に裁きとして下される怒りにも関わらず、その上にとどまり続け、そのまま、その怒りを神の御子ご自身がお受けになられたのです。だからこそ、神の御子である主イエスが、死ななければならなかったのです。私たちが受けるべき怒りを、死ぬべき死を、神ご自身が十字架で代わってくださいました。ここに神の愛があります。

私たちは、今日も、ここに来る前のところへと、地にある家へと帰っていくことでしょう。それぞれの家に、あるいは、地ある遣わされるべきところへ向かいます。けれども、いつかその時が来たら、私たちは本当に帰るべきところ、天の家を知っています。天から来れた方が、ご自分の命をもってして、その場所を証ししてくださったのです。私たちは、まだ地のある者として生きていきます。もちろん、私たち人間は、完ぺきではありません。いつも疑いや迷いの中で、時に苦しみや悲しみの中で、本当はどこから来て、どこへ帰るのかを見失ってしまいます。しかし、時折、上を見上げながら、天を仰ぎながら、やがて帰るべきところ思い起こすのです。そのようにして、天から来られた方、主イエスにこそすべてをゆだね、主の御言葉と祈りのうちに新しくされて、喜びと希望をたずさえ歩んでいきます。