1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 出合いによる発見

出合いによる発見

2017年10月8日

ヨハネによる福音書 第1章43-51節
上野 峻一

主日礼拝説教

今朝、私たち一人ひとりが、この礼拝へと呼び集められたのは、主イエス・キリストと出合うためです。主は、いつも私たちと共におられます。それは、教会から離れ、それぞれの生活の場で過ごしていても変わらないことです。しかし、それであっても、主の日の礼拝は、特別な時間です。主なる神の御前にあって、主イエス・キリストが今も、この時も共におられることを、御言葉によって、ありありと経験します。私たちの信仰が問われます。私たちの罪が明らかにされます。神の言葉に聴き、赦しを確信し、悔い改めへと導かれます。新しくされて再び主に従う歩みを始めます。このような出来事が起こるのが、礼拝です。主なる神が、今も生きて働かれていると、そう気づかされるのです。この出来事の中に、キリストとの出合いがあります。そして、主イエス・キリストと確かに出会った時、必ず、私たちは、これまでにない新しい発見をすることになるのです。

この出会いの出来事が、今日の聖書にあります。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」出会ってくださるのは、イエスさまの方からです。それも、突然のことです。フィリポには、まったく予想もしていないことが、向こう側からやってきました。さらに、出会って、やはり唐突に、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と声をかけています。これが、フィリポが、イエス・キリストの弟子となった経緯です。これ以外のことは、一切、聖書に書いてありません。たったこれだけで、弟子になったのかと思う方もおられるかもしれません。しかし、これ以上のことは必要ないのです。イエスさまが出会ってくださり、わたしに従いなさいと言われたのです。もう、それだけで、十分です。他に理由など必要ありません。「イエスさまが、私に出会ってくださった。」これほどまでに、単純明快な「証し」はないと言えるでしょう。他の福音書、また他の弟子たちと同じように、フィリポもまた、キリストの一方的な選びによって、主イエスの方から出合い、語りかけ、主の弟子となる歩みが始まったのです。

主イエスに出会い、主に従ったフィリポが、まず初めにしたこと、それは伝道でした。聖書は、フィリポが、アンデレとペトロと同じ出身地であることを紹介すると、すぐに、フィリポが、ナタナエルに出会って言ったと、記事が続いています。このナタナエルという人について言えば、彼は謎の人物です。ここには、イエスさまとの会話のやり取りはあります。ただし、ここの箇所以後、ヨハネ福音書の最後の21章に名前が記されるだけで、その他に登場することはありません。他の福音書の12弟子のリストにもありません。ナタナエルという名前の意味は、「神が与えてくださったもの」です。そのため、ヨハネ福音書の第6章39節「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」という御言葉から考えて、神が与えてくださったすべての人を指すとも言われます。また他の福音書には、フィリポとバルトロマイという名の弟子がセットで出てくるので、このバルトロマイの別名だとも言われます。色々な可能性はありますが、謎の人です。大事なことは、ナタナエルは、私たちと何ら変わらない、いや、私たちが出会い、主イエスを伝える神が与えてくださった人ということです。そして、この人も、主イエス・キリストに出会うべき人であるということです。このナタナエルにとって、フィリポとの出会いは決定的でした。なぜ出会ったのか、どのような出会いだったのか、二人の関係はわかりません。しかし、ナタナエルは、フィリポと出会い、イエスというお方を伝えられ、ここから新しい何かが動き出したのです。

フィリポが、何よりも望んだことは、何よりもまず、イエスというお方を伝えることでした。フィリポは、ナタナエルに出会って言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」これは、フィリポの精一杯の証しの言葉であったと思います。このフィリポの言葉を聞いて、ナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言います。宗教改革者のジャン・カルヴァンは、このようにフィリポがしたイエスさまの証しについて、「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」という言い方は、正しく主イエス・キリストを伝えていないというのです。けれども、カルヴァンは、それ以上に大事なことがあるとも言います。それは、「フィリポが、キリストを伝えようという純粋な欲望に駆られているため、神は、彼のうちにあるその一途な熱心さを賞賛して、また結果も良い結果に終わっている」ということです。さらに、こう続けます。「たとえ無学な人たちが、必要以上にまずい言い方でキリストについて何かを言うことがあっても、真のキリストへと私たちを差し向けるものであるなら、無下に彼らを退けてはならない。」

フィリポは、言葉で伝えることには失敗しましたが、そんなことでは諦めません。「来て、見なさい」と言って、ナタナエルを、イエスさまのところへと導きます。フィリポの具体的な役割はここまでです。ナタナエルの足が、イエスさまへと向いたところで、ナタナエルが主のもとへ歩み出したところで、フィリポにできることはしました。あとは、恐らく、祈りつつそばで見守るだけです。主イエスは、そのようなナタナエルが、ご自分の方へと来るのを見て、イエスさまの方から、彼に語りかけます。「見なさい。真のイスラエル人だ。この人には偽りがない。」このように、主の方からナタナエルへと語りかけられ、新しい関係を始められます。ナタナエルは驚きを隠せません。彼は、どのような想いで、イエスさまのもとへ向かったのでしょうか。半信半疑、フィリポの熱心さに仕方なくついて行ったのかもしれません。ナザレから、何か良き者が出ることはないというのが、ナタナエルの考えでした。それは当時の常識でした。先入観や偏見と言ってもいいかもしれません。ところが、主イエス・キリストに会ってみると、そのようなすべての常識や先入観が消え去ります。

主イエスがナタナエルに言われたのは、「見なさい。真のイスラエル人だ。この人には偽りがない」ということでした。それは、単にナタナエルを褒めたということではありません。それよりも、もっと深い、ナタナエルという人物の本当の心に、深い深いところにある真実な想いに、触れる言葉でした。ナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と、主に問いかけます。「どうして」という言葉は、「どこから」とも訳される言葉です。「一体いつから、どこまで、私のことをあなたは知っておられるのでしょうか。」主イエスは答えます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」それは、あなたが、わたしを知る前から、あなたを知っていたということです。ずっと前からあなたを見ていたというのです。神は、私たちの本当の姿を、その心の奥にある真実をみられるお方です。

主イエス・キリストと出会い、このことに気づいたナタナエルは、ただ「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言います。「神の子であり、イスラエルの王である」とは、あなたこそ、主イエスこそ「真の神であり、真の人である」救い主であるという信仰告白です。これが、主イエス・キリストと出会った者の姿です。先入観や偏見、疑いといったあらゆるものをうち捨てて、完全に主イエス・キリストの前に立つものがここにいます。主イエスと出会ったものが、すべてを主にゆだねる出来事が、起こったのです。そのようなナタナエルの言葉を聞いて、主イエスは言われます。「いちじくきの下にいるあなたが見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」そして、このことは、主イエス・キリストと出会い、主に知られている驚きのただ中で、イエスさまを救い主と信じるだけでは終わらないのです。そこから、もっと偉大なことを見るになります。それを、最後の1節に、はっきりと主イエス・キリストご自身が語られます。

第1章51節、「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」あなたがたは、見ることになる。これまで「あなた」と言って話しておられた主イエスが、あなたがたと、語りかけられます。いや、はじめから、主イエスは、ナタナエルに語りかけつつも、あなたに、あなたがたに、わたしたち一人ひとりに語りかけておられたのです。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、見ることになる」と、主は言われました。そのように約束されたのです。最後の51節では、主イエスが、ご自身を指して「人の子」と言われます。これは、旧約聖書の創世記28章では、階段となっています。主イエス・キリストが、天上と地上をつなぐ階段となるのです。これは、一つのことです。天と地、神と人との関係が、壊れてしまった世界、この和解にために、神の方から私たちのもとへ来られたのです。

ヨハネによる福音書は、第一章のはじめからイエスさまを、言、光、神の子羊、メシア、神の子、イスラエルの王など、様々な仕方で証ししていました。これから先も、主イエスを人の子、道、命、真理と、実に豊かに記されます。しかし、主イエス・キリストは、ただお一人です。イエスさまとの出会いというものは、実に様々な仕方で、私たちの予想や想像を超えて、はるかに豊かなものです。真理であるからこそ、自由なのです。私たちは、このお方との出会いによって生きていくものです。それは、単純に言葉にはならないことかもしれません。主イエスを正しく証しできないこともあるかもしれません。けれども、主イエスとの出会いは、いつも主イエスご自身から始められ、語りかけてくださるのです。主なる神は、私たちのすべてを知り、今、新しく関係を始められます。この出来事に、イエスさまに、安心してすべてをゆだねたいと思います。主イエス・キリストとの出会いから、主の御言葉に生きるこの礼拝から、新しい歩みが始まります。祈りをささげます。