まず初めに
ヨハネによる福音書1:1-5
上野 峻一
主日礼拝
「初めに言があった。」ヨハネによる福音書は、とても不思議な表現で、神の御子、主イエス・キリストの壮大な出来事を語り始めます。「初めに」とは、その言葉の通り、すべての始まりです。本日の旧約聖書の箇所としては、創世記の第1章1節から5節をお読みいたしました。天地創造とは、この世界のすべてのはじまりの事柄です。ヨハネによる福音書の「初め」と、創世記の「初め」は、まさに、同じ「初め」であると言えます。このことは、それぞれ聖書が記された原語においても、同じ意味をもって「初め」ということができます。けれども、同じ「初め」という表現であっても、明らかに両者には違いがあります。それは、例えるなら、創世記が、「天地創造」という出来事の「1」であるならば、ヨハネによる福音書は、それよりも前の「言があった」という状態の「0」を語っているということです。初めよりも、もっと前、「まず初めに、言があった」ということです。
まず初めに、つまり「0」において、あった言(ことば)。そこから、ヨハネによる福音書、主イエス・キリストの出来事は語られます。この言(ことば)とは、一体、何のことでしょうか。はっきりと簡単に言ってしまえば、イエスさまです。しかし、そう簡単に言ってしまうことができないからこそ、ヨハネ福音書は、言(ことば)としたのです。新約聖書が、もともと書かれたギリシャ語では「ロゴス」といいます。この「ロゴス」は、単に言葉を表すだけではなくて、世界の法則や理性を表すものでした。その言、ロゴスが、「神と共にあった」と続きます。言は、父なる神さまと共におられるのです。つまり、世界のはじめである天地創造の前から、イエスさまは、父なる神のところにおられたのです。このように言われると、私たちは、クリスマスで繰り返し語られるように、イエスさまは、あの時、母マリアからお生まれになったということを思い出します。神の御子である主イエスは、クリスマスの出来事を通して、この地上に来られました。イエス・キリストは、マリアより生まれ、この地上での生涯を始められたことは、誰もが知っている歴史の事実です。けれども、それよりも以前に、いや、世界が造られる前に、言である主イエスは、父なる神のもとにおられ、天地創造の業にも関わっておられるのだと、聖書は語ります。つまり、主イエス・キリストは、天地を創られた父なる神さまと同じ本質をもつ神であり、同時に、マリアより生まれ、この世に生きている私たちと同じ人間であるのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」ヨハネによる福音書の始まりは、まるで美しい詩を歌いあげているように、言が、ロゴスが、イエスさまが、世界が造られる前から、まず初めから、神と共にあることを語ります。この「共に」という言葉から、人格的な交わり、神の関係ということが言われます。私たちが信じる主なる神さまは、父、子、聖霊なる三位一体の神です。3節で「万物が言によって成った」と言われる時、そこで働かれるのは、三位一体の神さまです。この方が、私たちを、この世界を、造られたのです。もう一度、改めて、旧約聖書の創世記の第1章1節以下をお読みします。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光』あれ。こうして、光があった。」このようにして、天地創造において働かれる三位一体の神が、聖書全体に示された私たちが信じる主が、この世界をお造りになられたのです。
ヨハネによる福音書では、この創造の出来事を、「万物は、言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と伝えます。創世記では、万物のすべてが、「神は言われた。『光あれ』」とあるように、神の言葉によって創られていきますが。この「言によって成ったもの」とは、「主イエスを通してできた」と言い換えることができます。つまり、神さまが「光あれ」と言われてできたことと、イエスさまである言(ことば)成ったによってこととが、重なってみえてくるのです。神の言葉による創造の御業と、言であられる主イエスの関わりが、重ね合わせられるように語られます。
私たちに与えられている歩みにおいては、嬉しいこともあれば、悲しいこともあります。楽しいこともあれば、苦しいこともあります。浮き沈みし、山あり谷あり、日々変化する日常の生活です。洗礼を授けられ、キリスト者となったからと言って、決してすべてが上手くいくわけではありません。ある神学者は、自分の洗礼の体験を振り返って、このように語っていました。洗礼を受ける前と、洗礼を受けた後、この世の景色は、何一つ変わっていなかった。しかし、確かに自分の中で、洗礼を受け何かが変わったのだ。私たちが、よくよくわかっているように、キリスト者となってからも、これまでと同じような様々な出来事が起こります。もしかすると、時には、今、自分が進んでいる道がまったく見えなくなり、暗闇の中にいると思えることさえあるかもしれません。けれども、洗礼を授けられ、主イエスは我が救い主であると告白し、キリスト者とされた者は、やはり、それ以前とは、決定的に違う者です。宗教改革者マルチン・ルターは、試練や苦難にあった時、「わたしは洗礼を受けている」と、主の救いの確信、洗礼というキリスト者の原点を思い起こしたと言われます。これは、別の言い方をすれば、たとえ、どのような暗闇の中にあっても、確かに輝いている光のあるところを知る者だということです。
主イエスは、言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ。」ヨハネによる福音書の第1章4節で「言の内に命があった」と語られる時、主イエスが、私たち一人ひとりに与える永遠の命を思い起こします。キリストを救い主と信じて歩むことは、イエスさまに従い、新しい命のうちに生きることを意味します。この命は光です。どのような暗闇であっても、周りを照らし、また自分自身を照らす光となります。この命の光があるからこそ、私たちはどのような暗闇だと思える状況であっても、与えられた道を進んで行くことができます。
第1章5節「光は暗闇の中で輝いている。」主イエスこそ、暗闇の中で輝く真の光です。言であり、命であり、光であるのが、私たちの救い主、イエス・キリストです。けれども、この5節の後半には、このようにあります。「暗闇は光を理解しなかった。」「理解しなかった」と訳される言葉の中心の意味は、「とらえなかった」ということです。暗闇が、光をがっしりと掴んで、我がものにすることはできなかったのです。掴みどころがないと言えるかもしれません。あるいは、勝つことができないとも言えるでしょう。この光と暗闇とは、命と死と言い換えることができます。暗闇は、死を連想させます。暗闇の中にいると、自分が何をしているのか、どこにいるのか、一体どこへいくのか、生きていることが不安になります。聖書は、この光を理解しない暗闇を、私たちの生きている世であると言います。この世は、暗闇です。私たちは、死と隣り合わせの道を、ひたすら歩んでいるのかもしれません。私たちのすべてを奪い、最大の敵である死が、いつも私たちを脅かします。しかし、この死の暗闇は、命の光に勝てないのです。そして、死に打ち勝ち、復活なさった方こそが、主イエス・キリストです。
今日の礼拝は、棕櫚の主日礼拝としてささげおります。けれども、今日はまた、受難週の始まりの日曜日でもあります。今日からの一週間、主イエスの受難の道を思い起こすのです。その一日一日は、まさに私たちの罪が、明らかにされる日々でもあります。私たちは、御言葉によって、主イエスと出合い、盛大に喜んで主イエスを迎え入れました。しかし、罪ある私たちは、主が深く私たちを愛して下さったにも関わらず、主イエスを知らないと、主を裏切り、見捨ててしまう者たちなのです。主の御言葉に聴き、感激し、礼拝から新しい一週間を歩み出しても、日々の生活と忙しさの中で、祈ることも、御言葉に聴くことも忘れ、自分のことばかり考え、家族や大切な友さえも愛することができない者なのです。光の輝きを、光あるところを知っているにも関わらず、暗闇の中で、自分が何をしているのかわらず、どこへ向かっているのかわからなくなる者なのです。けれども、その時にこそ、宗教改革者ルターが、「わたしは洗礼を受けている」と語ったように、主イエスが、そのような罪ある私を救ってくださったこと、救われた喜びの原点へと立ち返るのです。主イエスは、私たちの罪のために、人々に見捨てられ、罵られ、多くの嘆きをその身に引き受け、受難の道を進まれました。主イエスは、私たちの罪のために、激しい痛み、苦しみ、すべての悪を身に受け、十字架の死を遂げられました。ここに、神の愛があります。この世が、暗闇が理解しなかった主イエス・キリスト、神の御言葉が、示されたのです。
「神は、その独りをお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」どのような暗闇の中にあっても、光である主イエスは、初めから終わりまで、いつも共にいてくださいます。なぜなら、父なる神さまが、独り子なるイエスさまを、私たちの罪の代わりに十字架につけるほどに愛してくださっているからです。この神さまの壮大なご計画を、主イエスの深い愛を、聖霊の導きを信じて生きる者は、死の暗闇で終わることなく、永遠の命の光に生きているのです。今日からの一週間、主イエスの御苦しみを覚えつつも、信じる者に約束された復活の喜びの朝を待ち望みながら、御言葉によって与えられた命の光を携え、今日もこの世へと遣わされるのです。