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いつもあなたがたと共にいる

2017年2月12日

マタイによる福音書第28章16―20節
大澤 正芳

主日礼拝

 新しい仲間が教会に加えられたこの日に、ふさわしい御言葉が与えられたと思います。全ての民を主イエスの弟子とすること、そして父と子と聖霊の名において洗礼を授けること、11人の弟子たちに、このご復活の主イエスのご意志を告げられた個所です。

 私はこういう想像をしてみます。11人の弟子たちは、「すべての民」を、どの範囲の人々として思い浮かべていただろうかと。今日、この場でなされた一人の婦人の洗礼入会式を想像することができたのだろうか? きっと誰一人として想像できなかったのではないでしょうか。彼らが心に思い描くことすらできなかった民、今ここで教会を形作っている私たちはそういう種類の人間であると思うのです。

今日の聖書個所で、主イエスだけが、今ここにいる私たちが弟子となることを見定めておられた。ただ、主イエスの御心にしかなかったことの実現を私たちはこの身で経験していると思うと、たいへんわくわくいたします。今ここでなされた洗礼入会式とは、ここに作られている群れとは、マタイによる福音書第28章16節以下の弟子たちと、ご復活の主イエスのやり取りが生きた現実となっている、その時、その場、その人なのです。

主イエスのお語りになったその言葉の広がりを、私たちは11人の弟子たち以上に、よく知っているということです。

 汲み尽くすことのできない主イエスの御心は、私たちに、御言葉を聞いても聞いても、水面に映る影のように、ぼんやりとしか神の思いが分からないという思いを与えるかもしれません。しかし、それはがっかりするようなことばかりではないと思います。神の言葉の捉え難さは、神のなさることは、いつでも私たちの思いをはるかに超えて行くということ、しかも、はるかに素晴らしいことを主はしてくださるということだと思います。だから、それは私たちの心の内に神への信頼を作り出し、その方への賛美に必ず至らせると思うのです。使徒パウロは、エフェソ書3・18でこういう風に祈り、賛美しました。「あなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」。

 喜びにあふれています。主は私たちが願うよりも、もっと素晴らしいことを実現してくださるからです。このような私たちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方が、今日私たちに与えられた物語において、11人の弟子たちの前に現れたのです。

 死から甦らされたそのお方は、ガリラヤで弟子たちを待っておられました。弟子たちは復活の主イエスを探す必要はありませんでした。はっきりとした待ち合わせ場所が与えられていました。このガリラヤとは、弟子たちの故郷であり、生活圏に他なりませんでした。

 だから、主イエスがそこで待たれていたということは、弟子たちが必然的に向かう先に、先回りして来られたと言うこともできるのではないかと思うのです。さらに、主イエスは弟子たちの生活圏の中でも、明確にこの場所で会おうと一つの山を定めてくださいました。それは、私たちにとってのこの場所と同じ種類の所でしょう。自由にいつでも、この私たちが生きるその所、どこでもお会いできるであろう主イエスが、しかし、「ここで会おう」と私たちのために特別に定めてくださる礼拝の場所です。

 弟子たちとご復活の主イエスとの出会いは、どのようであったでしょうか? 17節に「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあります。正反対の態度が、主イエスにお会いした弟子達の間に起きました。主イエスを拝む者と、疑う者。

 復活の主イエスに顔と顔とを合わせてお会いして、なお、信じない者がいました。これは教会の歩みにとって、重要な局面に見えます。ユダの抜けた残された11人が、真の弟子であるかどうか、彼らが真の教会の基礎でありうるかどうか、そういう場面だと思います。そこで、復活の主イエスに出会って頂きながら、その方にひれ伏して礼拝するか、疑うかということは、決定的なことではないかと思うのです。つまり、ここでの疑いは、弟子として致命的であると思うのです。

 けれども、驚くべきことですが、ある聖書学者は、17節の言葉は、原文に素直に訳せば、次のように訳せると指摘します。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑った」。ひれ伏す者と、疑う者の二種類の人間がいるのではありません。ひれ伏した者が、同時に疑う者でもあったのです。

 驚くべきことと言いましたが、考えて見れば、私たちも同じだと思います。二種類の人間がいる訳ではないと思います。信じる者であると同時に、疑う者でもある。疑いながらも信じている。より丁寧に言えば、私たちの信仰とは、ここでの弟子たちと同じように信じることのできない者であるにも関わらず、復活の主がその私たちの元にやって来られ、私たちは思わずひれ伏してしまった。しかも、ひれ伏して終わりではなく、また、信仰生活の中に引き続いて疑いが起こってくる。

 けれども、18節、そういう根っからの疑う者に、もう一歩、復活の主イエスが近づいて来られる。そうすると、やはり、ひれ伏さざるを得なくなる。だから、復活の主イエスにお会いした者が、どう反応するかということは、私たちにとっては教会が立つか、倒れるかの瀬戸際に見えますが、主イエスも、福音書記者もその疑いを重視することはなかったのだと思います。私たちの信仰とは、疑いが頭をもたげても、もたげても、主イエスが、もう一歩、もう一歩と近寄って来られる。そうやって保たれる信仰だから、弟子たちの不信仰にはこれ以上、注意が向けられることがないのです。

 主イエスは、その疑う者達にどのような言葉を掛けられるのでしょうか? 18節以下です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 たいへん有名な大宣教命令と呼ばれる言葉です。勇ましい伝道への派遣の言葉に聞こえます。けれども、改めて文脈の中で読んでみると、このような勇ましいとも思える派遣の言葉が、ここで語られるということは、少し不思議だと言えるかもしれません。ひれ伏した弟子たちは、疑う者たちなのです。その疑いが解消されたなどとは、まだ、どこにも書いていないのです。その疑う者たちに、大切な任務が与えられたのです。11人中の1人でも、大きな損失です。けれども、全員が疑う者であるのかもしれない。

 そのような集団に命令を与えることは普通しないと思うのです。それよりも、その心を解きほぐすことを試みると思うのです。まず、立て直さなければならないと私であれば思います。疑う者を教会の伝道の基礎となる11人としたままで、命令を与えることは、その命令の実現のためにとてもリスクが高いはずです。だから、疑う者には、まず、福音の恵みを一から十分にわからせる。恵みの言葉をとことん語る。その上で、疑いが無くなったら、命令を与える。キリスト者としての備えが十分にでき、共同体として気力体力ともにみなぎったら、使命を与える。それが、一般的なプロセスだと思うのです。ところが、主イエスは、違います。疑う者を含めたままで即、奉仕へと召し出しました。疑う者を100パーセントご自分の弟子と見做し、大切な使命を与えます。

 これは驚くべきことだと思います。なぜこのようなことをなさるのか? 主イエスは、私たちよりもずっと人間に甘いということなのでしょうか? あるいは、人間が真に信じる者となることを諦めているということなのでしょうか?

 そうではなく、これはまさに、甘やかしや諦めの正反対にある、主イエスの力強い権威に拠るものであり、権威あるお方は、どんなどうしようもない人間も諦める必要がないことによるのだと思います。

 疑う者を弟子として扱い、大切な使命を託されるお方は、まず、このように仰いました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。

 ご復活の主に授けられた天と地の一切の権能、それは一切の権能です。それは、地上のイエスが、お持ちになっていた権威、教え、癒し、悪霊を追い出し、罪を赦した権威のこと、風や湖さえも従わせる権威のこと、すなわち、新しいものを作り出す力、現実を変える働きをする力のことです。しかも、マタイによる福音書第28章では、今やその権威は、「一切の権能」と呼ばれています。風や、湖や、悪霊を従わせるだけではありません。天と地の一切を従わせます。そこには、疑う弟子も、今までは神の民と呼ばれなかった全ての民も含まれます。

 弟子は服従するからこそ弟子であり、信じるからこそ弟子です。服従しない者は弟子ではないし、信じない者も弟子ではありえません。けれども、その信仰、その服従は、この天と地の全権をお持ちになったお方が、そう願い、近寄ることによって、生み出される信仰であり、服従ではないでしょうか。

 この天地の全権をお持ちになる方は、整っているとは言えない者たちに断定的に約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。信じ続ける者ではなく、ひれ伏し続ける者ではなく、ひれ伏し、即、疑う者への約束です。整えられていない私たちへの約束です。しかし、世の終わりまでいつも主イエスと共にいて頂ける者は、いつまでも、疑う者であり続けることはできないのです。彼の疑いとは、どれほど深いものであったとしても、主イエスの約束に打ち勝つものではありえません。それは、終わりから二番目の疑いにすぎないのです。私たちが何度疑っても、何度躓いても、共にいる主は、さらに一歩深く我々に近づき、我々はひれ伏さざるを得なくなります。それゆえに、私たちは、世の終わりまで主イエスの弟子であり続けるでしょう。

 さて、最後に、洗礼の言葉に少しだけ触れたいと思います。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」と言われています。直訳では、「父と子と聖霊の名の中に浸せ」という言葉です。洗礼を授けるとは、父と子と聖霊の名の中に、人を沈めてしまうことです。それは、一人の人を父と子と聖霊の中にある者としてしまうこと、それ以外の者としては、もう見ないし、もう知らなくなるということだと思います。

 全ての民にそのような洗礼を授けるように弟子たちは遣わされます。それは、まさに、今まで語ってきた意味において、彼ら自身と全く同じ意味において弟子とすることです。全ての民を父と子と聖霊の名の中に浸すことは、実に、疑う者をなお、弟子と見る主イエスのまなざしの中に置くことを意味すると思います。それは、主イエスが天と地の一切の権威を持っているという信仰に基づく行為です。

 しかも、ある人は言います。全ての民への洗礼命令は、「異邦人が洗礼を受けることによって、初めて主の支配のもとに置かれるというようなことを意味してはいなかったであろう」と。そうではなく、「洗礼を受ける者がそこで告白したのは、自分が既にイエスに属する者となっているということであり、その当然の帰結として、弟子となり得ることを認めたのである」と。

 だから、ここにあるのは、全ての民を弟子と見做し、弟子とする主ご自身の業であり、その出来事を告げる私たちの証人としての奉仕です。それは、私たちの想像をはるかに超える神の出来事です。この人は、主の弟子ではない。この国民は主のものではない、そして私もふさわしくないと諦めることは出来ません。神のなさりようを知っているからです。

 そのために弟子は遣わされ、働きます。どのように働くのでしょうか? 主イエスと同じものを見ることによって、主イエスの御業を告げることによってです。疑う者を、全ての者をそのインマヌエルの約束の中に、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束されている者として、巻き込み、呑み込むようにして、私たちは全ての人間にとっての主イエスの証人となるのです。