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人の目から自由になろう

2016年12月4日

マタイによる福音書第6章1―4節
川﨑 公平

主日礼拝

マタイによる福音書第6章の1節から4節までを読みました。本当は18節まで続けて読んだ方がよかったかもしれません。1節から18節まで、共通の主題が続いているのです。「施し、祈り、断食」という三つの行為が取り上げられます。けれどもそこで繰り返し問われることは、結局1節に言われていることに尽きます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。施し、祈り、断食。偽善者は、これらの行為を人に見てもらうためにする。いつも彼らが考えていることは、人にほめられたいということだけだ。けれどもあなたがたは、人ではなく、神にほめていただくことだけを考えなさい。三つの段落に分けて、しかし結局、同じことが繰り返されるのです。

主イエスご自身が特に「施し、祈り、断食」という三つの行為を重んじておられたわけではないようです。当時の人びとの意識の中に、「善行」(1節)と言えば、まずこの三つだという考えがあったのです。ということは皆さんも、もっと自由に考えることが許されると思います。施しや祈りや断食に限りません。私どもが人間として生きるとき、常に何かをして生きています。その何かというのが、善い行いであるか悪い行いであるかは分かりませんが、とにかくいつも何かをして生きている。しかし私どもが何をしているときにも、いつも気にかかることは、「自分が人からどう見られているか」ということです。

その意味で、ここに記されていることは、何も難しくないと思います。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」。よく分かります。陰徳などという言葉があるほどです。よいことは隠れてしなさい、やたらと自分の手柄を見せびらかすものじゃない、ということは、私どもにとっては常識に属します。ついでに興味深いことに、この「見てもらおうとして」という原文のギリシア語から、英語のシアター(劇場、映画館)という言葉が生まれました。自分の善行を見せ物にするな、ということです。

その関連で、2節の「偽善者」というのは、もともとは俳優、演技をする人、という意味の言葉です。最初から「偽善者」などという悪い意味を持ったわけではないのです。人に見られること、演技することを仕事にしている人です。けれども、人にお芝居を見せるように善行をする、そのために演技をするようになると、偽善者になるのです。繰り返しますが、主イエスに教えられなくたって、私どもはそのくらいのことはよく承知しているのです。

それだけに分かりにくいのはこの言葉です。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」。いったい誰がこんなことをするのでしょうか。「施し」というのは、広く解釈すれば、「憐みのわざ」という意味の言葉です。要する
に「親切」ということです。おや、あの人は困っているな、と思えば心が動く。そして実際に体を動かす。それがお金や物を恵むという形を取れば、「施し」になります。つまらない例で恐縮ですが、先日私が鎌倉駅の近くを歩いていたら、白い杖をついている高齢の男性を見かけまして、ほんの僅かの距離ですが、一緒に歩いてあげました。それこそここに出てくる「会堂」ではありませんが、「街角」で、川﨑牧師が親切なわざをした。そのときに、どういうわけか私の後ろにラッパを持った人たちが控えていて、「あっ! また川﨑牧師がいいことをした! さん、はい、パッパッパパー」と演奏が始まるというのは、いくら何でも考えにくい。これは一種の比喩的表現であろうと多くの人が考えます。日本語の「吹聴」という言葉は、まさにぴったりというところかもしれません。

私どもは、自分の手柄を吹聴するということが、どんなにみっともないことか、よく承知しています。そうでありながら、私どもの心をいつも支配していることは、自分が他人からどう見られているかということなのです。

主題は「施し」です。今申しましたように、誰かに親切にすることです。ところが自分のした親切を、誰も認めてくれない。親切にしてあげたその相手から、ありがとうのひと言もない。それどころか、逆に文句を言われたりする。そうすると私どもは落胆し、腹を立てます。ひと言でいいから「ありがとう」と言ってほしいのです。そうでなければ、誰かほかの人から、「いや、あなたはよくやったよ」と言ってもらいたいのです。

おそらく私どもは、どんなに肉体的に疲れ果てても、あるいはその労苦が金銭的な報酬に結びつかなくても、むしろだからこそそれが他人からの評価に結びつくとき、たいていの労苦には耐えることができるものです。けれども、誰にも認められないということには、耐えられません。しかも一方で、人に認めてもらいたいという気持ちをむき出しにして生きることは、恥ずかしいことだと思っているのです。けれどもそれもまた、人の目を気にするひとつの姿でしかありません。それを主イエスはここで「偽善者」と呼んでおられるのです。

説教の準備のために読んだ書物の中に、説教者こそその偽善者の最たるものではないかと書いてありました。「人の目を気にすることは罪だ」などと説きながら、自分の説教がほめられれば天にも昇る気持ちになるし、面と向かって批判されるということがなくても、聞いている人たちの表情がどうも今ひとつだったりすると、それだけで日曜日の夜、眠れなくなるほど落ち込む。いちばんたちが悪い。私自身の話です。

こういうところに私どもの根本的な問題があることは、私ども自身もよく分かっているのです。人の目が気になるのです。そのために私どもの生活がどんなに不健康なものになってしまっているか。分かっていながら、私どもにはどうすることもできないのです。そして主イエスもまた、私どものことをよくご存じでいてくださり、だからこそ心配してくださるのです。

ところで、念のため、こういうことも考えた方がよいかもしれません。今私は、皆さんのことを低く評価し過ぎたかもしれません。もっと立派な生き方をなさっている方も、案外多いかもしれません。自分はそんないやらしい人間ではない。よいことというのは、本当に隠れたところでするのがよいのだ。しかしそれならば、どの程度まで隠すのでしょうか。自分のしたことは、自分だけが知っていればよい。世界中の誰に知られる必要もない。そういうことでしょうか。

主はこう言われました。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」。つまり、あなたのしたよいことを、あなた自身も知っていてはいけないと言われるのです。先ほど劇場とか俳優というイメージでお話しいたしましたが、その関連で言えば、あなたは自分に対しても自分を見せ物にしていないか、ということです。主のご命令通り、わたしは自分の善い行いを徹底的に隠す。まさに陰徳を積む。そうするとかえって、私どものひそやかな誇りは強固なものになるかもしれません。それも捨てなさいと言われるのです。自分で自分を評価することもやめなさい。あなたのしたことには、神が報いてくださる。その神との生活を確かなものにしなさい、と言われるのです。

少し話が戻るようですが、「演技をする人」という意味の言葉が「偽善者」という意味を持つようになった、その詳しいいきさつは知りませんが、ひとつこういうことがあったかもしれません。古代ギリシアの演劇は、仮面をかぶって演じられたそうです。ひとりの役者がひとつの劇の中でいくつもの仮面を付け替えて、いくつもの役を演じることもあったそうです。ここでの話は、偽善者であります。仮面をかぶって、善行をしているふりをする。場面よって仮面を付け替えて、全然違う役柄を演じたりするかもしれない。なぜそういうことをするのでしょうか。自分の本性を現すわけにはいかないからです。なぜでしょうか。人の評価が気になるからです。

この仮面ということについて、ある説教者がこういうことを言いました。「なぜわれわれは仮面をかぶるのか。人間が皆、ひとりぼっちだからだ」。仮面の下にいるのは、自分ひとりだけです。一所懸命自分を隠して、人の評価を気にしながら、その寂しさに耐え切れずに、ラッパを鳴らし、人の目を引こうとするのです。それがみっともないと思えば、自分の右手のしたことを、一所懸命左手でほめるのです。それはすべて、仮面の下で、ひとりぼっちでしていることでしかありません。皆さん自身のことを考えていただいてもよいのです。人の評価が気になってしかたがないとき、そのときこそ私どもはいちばん孤独ではないでしょうか。仮面をつけている限り、本当の友はできないでしょう。

けれどもこの説教者が、仮面をつけた人間はひとりぼっちだと言ったのは、それだけのことではなかったようです。偽善者の世界には、神がいないのです。それこそが本当の孤独でしょう。偽善者と言うと、とんでもない悪党のようですが、実はどの人間も孤独な偽善者であって、けれども、そのひとりぼっちで生きている偽善者が、神に呼ばれているのです。その仮面の下から出ておいで。神はあなたを愛しておられるのだ。なぜそれを無視して生きるのか。
2節の最後に「彼らは既に報いを受けている」という言葉がありました。人にほめられようとするとき、あるいは自分の左手で自分の右手をほめるとき、「彼らは既に報いを受けている」。それは言い換えれば、それ以上あなたの取り分はないですよ、ということです。この「彼らは既に報いを受けている」という言葉は、もしかしたらあまり印象に残らない言葉であったかもしれませんが、主イエスはこの言葉を力を込めておっしゃったと思います。なぜかと言うと、「はっきりあなたがたに言っておく」と言われるからです。「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という表現です。「彼らは既に報いを受けている」。しっかり受けるべきものを受け取りましたね。もうこれ以上あなたの取り分はないですよ。

なぜ主イエスはこんなことを、それほどまで力を込めて言われたのでしょうか。……あなたの受けるべき報いは、そんなけちくさいものじゃないはずだ。あなたの天の父は、もっとすばらしい報いをあなたに与えたいのだ。
今日、こんな聖書の話を聞かされても、なお性懲りもなく人の目を気にし続けるのが私どもであるのかもしれません。こんな話をしている私自身、礼拝のあとで「今日の話、分かりにくかったです」などと言われたら、それだけで落ち込んでしまうかもしれません。そんな私どもだからこそ、このように呼びかけられているのです。天の父が、あなたに報いる。あなたの天の父は、あなたに報いを与えたいんだ。

主イエスがここで「報い」ということを話題にしておられること自体、不思議に思われるかもしれません。私どもは、よい行いをすれば、よい報いが与えられる、そうあってほしいと望む一方で、報われることを期待してよい行いをするなんて、動機が不純だ、などと思うのです。ところが主イエスは、「あなたがたは、神の報いを期待しなさい」と言われます。ここで、私どもの動機が不純かどうか、などということは問題にもなりません。神は、私どもに報いたいのです。神は、愛だからです。それを無視してひとりぼっちで生きるところに、本当に人間らしい生活を作ることができるでしょうか。この神の愛を知らないから、私どもの生活は、いつまでも不健康なままであるのではないでしょうか。

特にここで主イエスは、「天の父」と言われます。神は、私どもの父でいてくださるのです。わたしのお父さんです。自分の子どもには、いちばんいいものを与えたい。その天の父の愛を無視して、わたしは神に報われることなんか望まないというのは、それこそまさに、ひとりぼっちであります。
主イエスは言われるのです。あなたには、お父さんがいるんだ。それを忘れていないか。その父の報いを求めるというのは、神さま、これだけのよいことをしたんですから、報酬をくださらないといやですよ、というようなことではありません。人にほめられることを求めて、ひとりぼっちで生きるのか。神の愛の中に生きるのか。その意味では、神がわたしの父でいてくださる、ということ自体が、何にもまさる報いであります。そして、その父の愛の中でこそ、私どもの愛のわざも、隣人との関わりも、偽善などではない、すこやかなものに変えられていくと、私は信じます。

今、共に聖餐にあずかります。偽善者でしかない私どもが、父の愛に呼ばれて、今ここに立つのです。