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神が召すとき

2016年9月4日

イザヤ書第6章1-13節
大嶋 重徳 キリスト者学生会総主事

主日礼拝

今朝は神様がご自身の成熟へのご計画に召しだされる中で、人が必ず通らなければならない歩みについて、イザヤ書の6章から教えられていきたいと願っています。

一節に「ウジヤ王が死んだ年」とありますが、ウジヤの死んだ年、イザヤは神殿の中で幻を見ます。イザヤは今朝の私達と同じく、神様を礼拝していたのだと考えられます。そのとき彼の目の前に突如、高く上げられた神の御座が現れ、御座の上にはセラフィム達が、高らかに神を礼拝し、神を賛美していたのです。そこでイザヤは、セラフィムと共に神様への賛美を共になしたかというと、そうではなくイザヤは五節「災いだ。私は滅ぼされる」と告白せざるを得ませんでした。神の為さることとその召されるタイミングの全てに神のご計画があるならば、この時点で神はイザヤに語らなければならないことがあったのです。

ウジヤ王の死んだ年は、紀元前740年頃と言われています。ウジヤという王は、歴代の王の中で善王として数えられていますが、その晩年には祭司の務めを自らが行い、神の裁きを受けます。そしてイザヤの住むユダの国内は隣国からの圧力で政治的に不安定な状況となっていました。さらにイザヤ書1―5章は6章の記事の前後の預言とされていますが、そこには偶像礼拝、姦淫がはびこり、宗教的頽廃が国中に起こっていたことが記されています。この当時、イザヤの目の前には形だけの礼拝をする民が居たのです。

イザヤ書1章1節を見ますと、イザヤがウジヤ王の生きている時代に既に神の幻を見、預言を始めている事が記されています。既に預言者としての活動を始めていたイザヤは、ユダの国に対して嘆き、怒り、失望し、裁きのメッセージを語りました。そしてこの時、神はそのような預言者イザヤに現れなければなりませんでした。預言者として欠けていることがあった。彼に語らねばならないことがあったのです。

時に人は神の救いにあずかり、熱心にその信仰を燃やす時に、同時に熱心に人を裁くようになる事があります。周りに居る信仰者の罪を犯す姿に怒り、その堕落に憤り、裁きの言葉を発してしまうことがあります。その心情の背景には「自分はあんな罪人ではない」という自己肯定の思いがあります。罪を犯すその人と自分は違うところに居るのだという意識が、人を裁くのです。

イザヤにはその自分の罪の自覚、罪びとの中の一人だと言う自覚が欠けていました。神はご自身のきよさをイザヤの目にはっきりとお見せになることによって、イザヤにそのことを気づかせるのです。その時イザヤの口から出た言葉は5節「災いだ。わたしは滅ぼされる」。この言葉は「ああ、わたしはもう死ぬ」とも訳した方が良いと思います。神の前に立った時、私達が神のきよさの前に立たされた時、私達が自分で誇っているものは何ひとつ誇ることは出来なくなります。むしろ「もう駄目だ。私は死ぬしかない」と自分の罪深さに気がつかされる。続くイザヤの口からは「私は汚れた唇の者」という罪人の告白が出てきます。「汚れた唇」とは原罪的な罪を差す言葉です。神の前に立った時、言葉をもってイスラエルの民を攻撃し、裁き、熱心に訴えていたそんな自分の存在全てが罪であったと気が付いたのです。

キリスト者は自らが罪人であるという事を徹底的に知らなければなりません。そうでなければいつの間にか自分が何者かになってしまいます。私もクリスチャンになって、教会の奉仕も張り切っていろいろしてくると教会の問題が見えてきて、牧師先生に「あの人のここが問題だ」と言うようになりました。すると、牧師が「大嶋君、君はまだ罪人ということが分かっていない。君は自分の罪がわからないから、人の罪ばかり見えるんだ。君はもっと罪人なれ」と言われたことが忘れられません。

さらにイザヤは告白します。「わたしは汚れた唇の民の中に住む者」。彼には自分もまた神の前に罪を犯すイスラエル共同体の一人なのだという自覚が必要でした。預言者は、キリスト者は民の外にいるのではありません。民の真中にいて、民の罪の中で神の言葉を預言するのです。彼はこの時、民の罪の連帯の中にいる自分を発見したのです。「私も同じ罪人だ……」神はイザヤをこの告白に導かれたのです。

そして6節「すると」と始まります。イザヤに起きた裁きと同時に、「すると」という言葉とともに、神の側の一方的な救いの業が起きるのです。セラフィムの手には火鋏で取った祭壇の燃え盛る火のついた炭火がありました。神殿の祭壇で何千頭ものいけにえが捧げられ、血が流されたことによってできた贖いの炭火を、セラフィムはイザヤの唇に当てます。そしてセラフィムは言いました。7節「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。赦しの宣告でした。イザヤはどのような思いでそれを聞いたでしょうか。自分の存在が罪である事実。「もう駄目だ」と自己崩壊した者が神の前で罪の無い者とされたのです。ここで「もう死ぬ」と言ったイザヤが生き返るのです。

そしてさらにイザヤは驚くべき神ご自身の声を聞きました。それはイザヤの過去の罪を責める声でもなく、ユダに対する怒りのメッセージでもありませんでした。聞こえてきたのは、神ご自身が妬むほどに愛しておられるイスラエルの民に今、遣わしたいと願っておられる声でした。ある時、私の友人がこう言いました。「俺が本当に神様に赦されたと分かったのは、神様がこんな罪人でどうしようもない者にも関わらず、俺を使いたいと言われた時だ……」。私達は一度失敗した人間を、その大切な仕事に使うことはしません。「赦したよ」と言っても「それじゃ、これして」と別の仕事を与えます。私たちは、一度失った信頼を取り戻す事はなかなか出来ないということをよく知っています。しかし神はもう一度信頼して下さる。しかも神様の最も大切な、神の民を任せたいとされるのです。
イザヤは赦しと同時に神の召しを受けました。この時のイザヤの「ここに私がおります。私を遣わしてください」という言葉は、決して自分に自信があるから言ったのではないでしょう。「こんな罪人を救って下さった。この神がこんな者をも用いて下さるなら、どうぞ使ってください」と神の愛に対して立ち上がってくる信仰の応答で答えたのです。そこで為す奉仕の内容が何か、それはイザヤには問題ではなかったのです。

すると9、10節。イザヤに聞こえてきたのは神の驚くべきメッセージでした。「行け。この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ。しかし悟るな」。民の心を頑なにするメッセージを語れというイザヤに対する神の命令でした。あまりにも衝撃的な神の召命の実際でした。イザヤは聞きます。「主よ、いつまででしょうか」。私は何故イザヤが「主よ、何故ですか」「主よ、どうしてですか」と聞かなかったのかと疑問に思います。私なら「何故、そんな理不尽なことをさせるのですか。主よ、そんなつらいことをさせる理由を聞かせて下さい」と聞いてしまいます。

しかし、イザヤは「主よ。何故ですか」とは問わず、「主よ、いつまででしょうか」と問いました。この箇所はいろんな聖書学者が様々な解釈をし、意見の分かれるところです。イザヤは主に憤って聞いたのだとする人も居ます。しかし、私はこのイザヤの「主よ、いつまででしょうか」とは、イザヤの中にある「こんなわたしのような者が救われたのだ。それならば、あのユダ王国に居る私と同じ民が救われない筈が無い」という神の主権を信じる信仰があったのだと思うのです。「あなたによって救われた者がここにおります。あなたが私にして下さったことを、あの私と同じく唇の汚れた民に為されるのを私は信じています。」「主よ、いつまででしょうか」は「いつまでそれをすればよいですか。そして私があなたのきよさの前で罪赦されたように、この私と同じく唇の汚れた民と共にいつあなたを礼拝できるのですか」というイザヤの祈りの問いであったと思うのです。

イザヤは「私は汚れた唇の民の中にいる」と言いました。この召命の出来事でイザヤは、イスラエルの罪の中に居る自分を知りました。それと同時にイザヤは自分に与えられた救いの恵みもイスラエルの民と共にしたかったのではないでしょうか。彼に起こった救いの事実は、イザヤ個人に留まらなかったのです。「私だけが救われればいい」のではない、イスラエルの救いの為に彼は神に問うたのです。そこには長いつらい預言者生活が待っていることをイザヤは知りました。しかし、私にしてくださったあの赦しを民にも与えて下さらない筈はない。「主よ、いつまででしょうか」と希望を失いませんでした。

そのイザヤの問いに答えられた神の言葉は、11―13節。町々は崩れ去り、国は見捨て去られる。十分の一が残されるがやがてそれも焼き尽くされる。あまりにも酷い状況がイザヤを待っていました。しかし、「それでも切り株は残る」、「その切り株とは聖なる種子である」。これはメシア預言です。イザヤはメシアが来られるのはもしかするとそれが自分の生きている時代ではない事を直観したかもしれません。事実、その後は六章の時点よりもさらにひどい状況が国を襲い、ユダ王国は神の言葉どおりに完全に滅び去ります。イザヤはその生涯を命懸けで預言していくのです。周囲を見れば悪くなっていくばかりのなか、イザヤの預言の中心はこの「それでも切り株は残る」、「その切り株は聖なる種子である」というキリスト預言に集中していくのです。これらの預言はイザヤに起こった、神の前に霊的に死んだ筈の自分が神の一方的な憐れみにより、生き返った事実によっているのであり、そしてあの罪人を赦して下さる神の愛と憐れみがイザヤの中に根付いていたのであり、この罪深い自分をもう一度神の栄光の為にお用い下さるという事実がイザヤの預言の確信であったのではないでしょうか。

イザヤは自分の息子に「シェアル・ヤシュブ」「それでも残り者は帰ってくる」と名づけました。彼は信じたのです。聖なる種子を信じ、期待したのです。そして神の子としてこの地上に来られたイエス・キリストは、そのイザヤの祈りとイザヤの預言を余すことなく成就された神ご自身でありました。

今日も私達を取り囲む状況は、イザヤの時代と同じように心を頑なにする民が居るように見えます。いくら伝道しても誰も聞いてくれない。以前、一緒に教会に来ていたあの家族も長い間、礼拝に出なくなった。しかし、今朝、私たちがイザヤと同じように「主よ、いつまででしょうか」と聞くならば、私たちは「聖なる種子、その切り株があなたに与えられているだろう? あなたに起こったキリストの血が流された十字架がそれだ。あなたは今、罪に死んで、今新しく生かされたその救いが、あなたのうちにはっきりと根付いている。そこに今日もみ言葉の種が植えられ、そこから若枝のように芽生えていくキリストの救いがある。そして今このキリストの救いは、あなたからあなたの家族へと届いていくのだ。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」と答えられる神の声を聞くのです。

「私のようなものが救われたのだからこそ、神はあの人にも救いを与えて下さる」という信仰を、約束を私達は神様から今朝はっきりと受け取りたい。そして「ここに私がおります。私を遣わしてください」。主に静かにお答えしようではありませんか。