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幸いへの招き

2015年11月1日

ペトロの手紙Ⅰ第3章8―17節
川﨑 公平

伝道開始98年記念聖餐礼拝

「幸いへの招き」。この教会の伝道開始98年の記念礼拝の説教題をこのように決めたときから、私が思っていたことは、この教会は98年間、この町にあって「幸いへの招き」を語り続けてきたということです。先週、教会堂の前に立派な墨字で「幸いへの招き」と説教題が掲げられているのを見ながら、今も神が、この町に語り出しておられると思いました。「あなたもここにおいで。あなたには、幸せになってほしいのだ」。

そのようなことを思いながら、改めて私が深い感動をもって読んだ言葉が、ペトロの手紙Ⅰ第3章10節です。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」。ここでペトロは詩編第34篇を引用しながら、「幸いへの招き」を語るのです。素朴ですが、慰めに満ちた言葉です。「どうか、自分の命を愛してほしい。幸せな日々を生きてほしい」。神の深い願いが込められた言葉です。

神を信じて生きるということは、決して特別なことではありません。自分の命を愛し、幸せな日々を過ごしたいと願うのです。何よりも、神が私どもの幸せを願っていてくださることを信じて生きるのです。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(9節)。あなたがたが神に招かれたのは、祝福という財産を相続するためだと言います。それをもっと素朴な言葉で言い換えると、「命を愛し、幸せな日々を過ごす」ということになるのです。そのために私どもは召されたのです。

98年間、この教会が続けてきたことは礼拝であります。その礼拝の最後に、必ず牧師が祝福を告げます。鎌倉雪ノ下教会98年の歴史は、祝福を聴き続ける歴史であったとも言えるのです。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。今日も私は、その祝福を皆さんに告げます。

かつて私が礼拝について学んだときに、この礼拝の最後の祝福のことを、日本の多くの教会では「祝祷」と呼び、祝福を求める祈りであると理解することがあるが、適切ではないと厳しく教えられたことがあります。ですから私は祝福のとき、手を組んで目を閉じて、神よ、わたしたちを祝福してくださいと祈ることはありません。手を上げて、皆さんの顔をしっかり見つめながら、主の祝福を告げます。そのようなときにも改めて気づかされるのは、神ご自身が、私どもの幸せを心から願っていてくださるということです。

明後日、この場所で結婚式が行われます。結婚式もひとつの礼拝であると考えますから、最後に牧師が祝福を告げます。それはいったい何を意味するのだろうか。多くの人にとって、結婚式のプログラムの中でいちばん感動的だと思われているのは、新郎新婦の誓約と、その記念としての指輪の交換ではないかと思います。しかし教会の結婚式は、ふたりの誓約によって完結することはなく、神の祝福をもって完成する。それは何を意味するのでしょうか。

結婚式を明後日に控えている方には失礼な言い方になるかもしれませんが、私どもの誓約には、いつもどこか欠けがあります。どんなに仲のいいふたりであっても、「ぼくが必ず、君を幸せにしてみせる」などと約束することは、本当にはできません。そうではなくて、神の祝福を聴くのです。「あなたを幸せにするのは、このわたしだ。どうか、わたしの祝福の中に立ってほしい」。もちろん結婚式だけの話ではありません。私どもは、礼拝のたびに、このような神の祝福に気づくのです。そのようにしてこの教会の歴史は作られてまいりました。

5年前に私がこの教会に赴任して、新鮮な思いで気づいたことがあります。今このように説教しながら、私は皆さんの顔を見ています。いろんなことを語りながら、皆さんの表情の変化を読み取ることがあります。けれども実は、説教のとき以上に皆さんの顔がよく見えるのは、祝福のときなのです。なぜかと言うと、この礼拝堂で祝福をするときには、右を向き、正面を向き、左を向き、そしてまた正面に向き直って、というように祝福を告げるからです。私の真横の方向に座っている人の表情は、説教中はなかなか見えません。祝福のときに初めて、ああ、この人も礼拝に出ていたかと気づくことさえあります。祝福を告げながら、つい涙腺が緩むことがあります。皆さんひとりひとりの生活を考えるとき、必ずしも全員が、毎日幸せいっぱいに生きているとは言えないからです。神の祝福を告げながら、しかし自然な人間の感情として、そんなこと言ったって……という思いが生まれるのは当然かもしれないのです。そのようなところで、私どもは神の祝福をどのように聴くのでしょうか。

そこで、改めて10節以下の詩編の引用を読んでみます。

命を愛し、
幸せな日々を過ごしたい人は
舌を制して、悪を言わず、
唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。

難解なことは何も書いてありません。単純すぎて、かえって困るほどです。あなたの幸せはあなたの語る言葉にかかっていると言っているようです。そうするとここで、どうも川﨑牧師に騙されたという感想があり得るかもしれません。「幸いへの招き」などと、ありがたそうな題の話かと思ったら、とんでもない。よほど言葉に神経を使っていないと、神の祝福から締め出されてしまうのか。しかしここは、そうは読めないのです。

そこでもう一度、9節に戻ってみます。

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

詩編の引用の「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」というのは、この9節に深く関わります。誰かに悪口を言われ、侮辱されたときに、舌を制して、唇を閉じて、悪口で対抗せず、むしろその人を心から祝福してあげる。それが幸せの秘訣だと言います。こんなに難しいことはないということを、私どもはよく知っているのです。

人から悪口を言われる。もっとも、私どもは多くの場合、人の悪口はまず陰で言います。だから、自分の悪口がひとつでも聞こえてきたら、自分の知らないところで十も二十も言われていると覚悟した方がよい。そういうとき私どもは、面と向かって悪口を言い返すこともあるかもしれませんが、もしかしたらもっと多いのは、陰口でやり返すということかもしれません。あの人はあんな顔をしているけれども実はこうで……。しかしそれは、本当に疲れることです。

ペトロの手紙は、悪口を言われても泣き寝入りしなさいとは言いません。心を鍛えて、悪口を言われても平常心でいなさい、ということでもないのです。侮辱に対して祝福を返せと言うのです。その人の幸せを心から願って、何よりも神がその人の幸せを願っていてくださることを、心を込めて語ってあげるということでしょう。これは、実に堂々たる発言です。

なぜ私どもは、悪口には悪口で応じたくなるのでしょうか。そこで自分が不幸になると思い込むからです。侮辱された。わたしは傷ついた。わたしは不幸だ。そのことにこだわり始めると、神の祝福なんかどうでもよくなります。こっちも少しくらいやり返さないと、どうしてもつり合いが取れないと考えます。

けれども、ペトロは言うのです。悪口を言い返しても、あなたは決して幸せにはなれない。そして、あなたがどんな悪口を言われても、あなたに与えられた神の祝福は決して揺るがない。その揺るぎない幸せに支えられて、あなたもまた、祝福を受け継ぎ、祝福を語り継ぐことができるのだ。そこに立て。これが、ペトロの語る「幸いへの招き」なのです。

このように読んできて初めて、13節以下の言葉も理解できます。

もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。

この言葉のつながりは少し分かりにくいかもしれません。善いことに励んでいれば誰もあなたがたを攻撃することはないとペトロ先生は言ったけれども、とんでもない、今日も悪口を言われ、散々な一日だった。そんなところで、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」などと言われて誰が納得できるか。けれども話はそういうことではありません。あなたの祝福を揺るがし得る悪は存在しないということです。だから、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」と続くのです。

私どもにとっていちばん恐ろしいのは、何と言っても、目の前の人間だと思います。その人間から、自分に対する悪口や侮辱が飛んでくると、私どもは夜も眠れないほど心を乱します。そういう私どもだからこそ、11節の「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」という言葉は、とてつもなく難しく感じるのです。

ある説教者が、11節を説き明かしてこういうことを言いました。「人間は、平和を求めながら、やわらぎを求めながら、自分からやわらぐことは嫌なのです」。私はこの言葉を読んで、本当に恥ずかしくなりました。まさに私自身の罪が言い当てられていると思ったからです。この説教者はさらにこう続けます。よほど熱心に「平和を願って、これを追い求め」なければ、やわらぐことなどできるものではない。親と子、夫と妻、兄弟同士、友人同士、隣人同士の間でも、どんなに平和が必要なことか。それがないのは、私どもが平和を求めようとしないからだ。そう言うのです。本当にその通りだと私は思いました。そして、私どもが平和を求めようとしないのはなぜなのかと、改めて思いました。皆さんも、どうしてもあの人とは平和に生きることができないという人がひとりでもいるならば、真剣に考えていただきたいと思います。なぜ私どもは、平和を求めながら、自分から平和を作り出すのは嫌なのでしょうか。根本的なところで、人間を恐れているからではないでしょうか。その恐れを克服するためには、自分で努力してもだめです。人を恐れる以上に、神を畏れることを知らなければなりません。

主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。

人を恐れるのではなく、神のまなざしの前に生きる。しかも私どもは、このお方に愛されていることを知るのです。そのために私どもは、他のどんな人間の言葉を差し置いてでも、神の祝福を聞き続けるのです。

15節にはこうありました。「心の中でキリストを主とあがめなさい」。悪口を言われながら、人びとを恐れず、心を乱すことなく生きるために、「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言うのです。何気ない言葉ですが、私はこの言葉が好きです。私どもの心の中に、キリストが私の主として住んでいてくださる。そのことと深く重なるのが、15節の後半の「あなたがたの抱いている希望」です。この希望は、私どもの中にある。キリストが、私どもの希望として、私どもの中に住みついていてくださるのです。

その希望について、説明を要求する人がいる。私どもを見て、周りの人は説明を求めずにおれなくなるのです。いったいあなたは何者なのですか。悪口を言われても祝福をもって応える。あなたを生かしている希望とは、いったい何なのですか。「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言われます。

伝道開始98年の記念の日にこのようなみ言葉が与えられたことは、やはり神のみ心であると信じます。私どもは、教会の歴史を数えるときに、「伝道開始98年」という数え方をします。私どもの教会がしてきたことは伝道です。私どもの抱いている希望について、説明を求められればいつでも語ることができる。それは言い換えれば、いつもその希望に生きているということでしょう。いざ説明を求められたときに慌てることはありません。私どもが抱いている希望を、いつも抱いている通りに語ればよい。何よりも、私どもの心の中に住んでいてくださるキリストのことを語ればよいのです。それが私どものする伝道です。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」。これは明らかに第2章23節の繰り返しです。主イエスのお姿について、既にこう語っていたのです。

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

このお方の愛によって赦されて、今ここに生かしていただいている私どもです。その確かな祝福を、何よりも鮮やかに指し示すのが、これから私どもがあずかる聖餐です。まず主イエスが、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、ただ私どもを赦して、神の子として受け入れてくださいました。神がそれほどまでに、私どもの幸せを願ってくださるという祝福の事実を、私どもはここで知り続けます。そしてすべての人に語り続けます。そのようにして作られる、この教会の歴史なのです。

(11月1日伝道開始98年記念聖餐礼拝説教より)