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自由な人として生きよ

2015年9月20日

ペトロの手紙Ⅰ第2章11―17節
川﨑 公平

主日礼拝

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります(11―12節)。

ペトロの手紙一は、ここからキリスト者の生活の姿を具体的に語り始めながら、「立派」という言葉を繰り返します。「異教徒の間で立派に生活しなさい」。「あなたがたの立派な行いをよく見て……」。この手紙を書いたペトロが、すべてのキリスト者に対して心から願ったこと、それは「立派に生きてほしい」ということでした。

「立派」と訳される言葉は、私がいつも使っているギリシア語の辞書では、最初に「beautiful」という訳が出てきます。目に見える美しさです。他の人には理解されなくても、立派な生き方をしなさい、ということではありません。人びとが、あなたがたの美しい生活を見る。しかもそのことによって、異教徒が神をあがめるようになるとまで言います。

このような具体的な生活の姿についての教えは、第3章7節まで続きます。第2章18節以下では、召し使いが主人に対してどう振舞うべきか。第3章に入りますと、妻の生活、夫の生活についての教えが語られます。美しい妻の生き方、美しい夫の生き方、それが具体的に語られていくのです。

来週の日曜日には、伝道礼拝をします。もちろんそういうところで責任重大なのは私の説教でしょうけれども、問題は説教で私が何を語るかということです。もちろん聖書を語ります。しかし、私が説教を語り続けながら教えられてきたことは、説教とは、聖書を語ると共に、教会を語る言葉でもあるということです。「どうかこの鎌倉雪ノ下教会を見てください。この美しい人たちを見てください。この人たちの美しさをよく見て、神をあがめてください」。皆さんの美しさが問われる。これは、避けることができません。

そのようなときに、私どもがうっかり忘れてしまっているかもしれないことは、国の政治に対して私どもがどういう姿勢を取るかということです。

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい(13―14節)。

立派に、美しく生きるということは、具体的にはまず、人間的なこの世の制度に従うことだと言います。意外なことではないでしょうか。

ある牧師がこの聖書の言葉を説き明かしながら、こういうことを書いています。

東京都の公立学校の卒業式や入学式には都教育委員会の職員が派遣されていて、君が代を起立して歌っているかどうかを見張っている。もし不行き届きなことがあれば、しかるべき処分が下される。そこにも「皇帝が派遣した総督」がいると考察するのです。そういう人にも「服従しなさい」とは、いったい何たることか。こういう話を聞きながら、特に年配の方たちの中に、私のような者には想像もできないほどのつらい経験を思い起こしておられる方も多いと思います。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」。なぜなのでしょうか。

ところで、13節に「統治者としての皇帝」という言葉があります。今の日本にそういう人はいません。天皇家は存在しますが、統治者ではありません。口語訳聖書は「主権者としての王」と訳しました。現在の日本では、主権者は国民です。そうするとこの言葉は、「主権者である国民の声に従いなさい」という意味になりそうです。それなら納得できるという人もあるかもしれません。その主権者たる国民によって選挙された代表者たちが、国の法律を定める。それに従え、という意味にもなるかもしれません。だんだん納得する人が減ってくるかもしれませんし、しかしまた、「そうだ、多数決で決まったことにはおとなしく服従しろ」という声も大きくなってくるかもしれません。とにかく、複雑な反応を呼び起こす聖書の言葉です。

しかも既に申しましたように、ことは政治の問題に限らないのであって、この手紙は「人間の立てた制度に従いなさい」ということを言い換えていくように、第2章18節では「召し使いは主人に従え」、第3章1節では「妻は夫に従え」と、かなり抵抗のある言葉を続けます。しかもこの手紙は、そのような人間の制度を決して理想化したわけではないのです。ローマ皇帝はしばしば自らを神格化し、皇帝礼拝を拒否するキリスト者たちを迫害しました。そういう人たちのことを念頭に置きながら、15節では「愚かな者たちの無知な発言を封じる」と言うのです。神を信じない者たちを「愚かな者」と断じています。これもずいぶん激しい発言です。

第2章18節で、召し使いが服従を命じられているのも、「無慈悲な主人」です。第3章1節で妻が従うのも、「御言葉を信じない」夫です。こういう人たちが、小さな権力、大きな権力を握ってしまう。特に「愚かな者たち」がひとたび権力を手に入れてしまうと、たいへん困ったことになるという現実を冷静に見つめながら、その人たちに対しても説得力を持つ、美しい生き方をしなさいと言うのです。「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの美しい行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」。

16節では、「自由な人として生活しなさい」と言います。神に救われるということは、自由にされるということです。まさにそこに私どもの美しさがあります。18節以下に出てくる召し使いたちに対しても、「自由な人たちよ」と呼びかけられています。神に救われた人間は、神以外のものに屈従することはありません。具体的な生活の状況が何ひとつ変わらなくても、最も深いところで自由にされています。

しかしそこで問題が生じます。その自由にされた人間が、たとえば「御言葉を信じない夫」と共に生活します。テレビをつけると、国の政治家たちの姿が映し出され、その発言が聞こえてきます。神に救われた人間として、だからこそ、周りの人の愚かさが見えてくるということが起こらないでしょうか。下手をすると、「まあ、聖書がそう言っているから、み言葉を信じない夫にも黙って従ってやろう」と、心の中で他人を軽蔑しながら、うやうやしく隣人に仕えるということさえ、起こりかねないのです。それは本当に自由な人間の姿ではないし、美しい生き方でもないでしょう。既に16節に、「しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」と言われているのです。

17節では続けてこう言うのです。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。自由な人の美しさとは、すべての人を敬う人の美しさです。神が私どもに与えてくださった自由は、人を見下す自由ではありません。神が与えてくださった自由のゆえに、すべての人を敬うのです。

皆さんの周りにも、尊敬に値する立派な人と、尊敬しにくい人がいると思います。尊敬できる政治家と、尊敬できない政治家がいるかもしれません。人生において尊敬できる人にたくさん出会えれば、それだけその人は幸せだと思います。もし、自分には尊敬できる人なんかひとりもいないという人がいれば、その人はいちばん偉い人ではなくて、むしろいちばん悲惨な人でしょう。人を軽蔑しながら生きるということほど惨めなことはないのです。しかし考えてみると、私どもの最も深い問題は、人を敬うことができないことにあるのではないでしょうか。誰かを軽蔑する。攻撃する。陰口を言う。誰のためにもなりません。自分も幸せになりません。「すべての人を敬いなさい」。もしそれができたら、どんなに幸せでしょうか。それがかなわないのは、他人のせいではないのです。

そのような私どもに与えられた唯一の望みが、主イエス・キリストです。このお方に軽蔑された人はひとりもおりません。ひとりの例外もなく、主イエスは私どもを重んじてくださいます。私どもに欠点がないからではありません。私どもが誰かの欠点に気づくとき、主イエスは私ども以上に、その人のいやらしさをよくご存じです。私どもが国の政治の欠点に気づくとき、もちろん主イエスは、私ども以上に、この国の愚かさをよくご存じなのです。けれども主イエスは、誰よりも自由なお方として、私どもに仕えてくださいました。この国のためにも命を捨ててくださったのです。だからこそ13節では、「主のために」地上の制度に従いなさいと言われるのです。

主イエス・キリストご自身、国家権力の裁きによって殺されました。十字架につけられたのです。それがどんなに愚かな裁きであったか、主イエスは誰よりもよく承知しておられました。けれどもこのお方は、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」(23―24節)。まさにここに、真実に自由な人間の姿があります。人を愛する自由です。

主イエスが裁きを受けておられたとき、群衆は大声で叫び続けました。「イエスを十字架につけろ、十字架につけろ」。けれども主イエスは、その人びとのことを決して軽んじられなかった。もしそうでなかったら、私どもも立つ瀬がないのです。このお方が十字架につけられたとき、周りの人びとはこのお方を罵り続けました。けれども主は十字架の上で、その人びとのために祈っておられました。「父よ、どうかこの人たちを赦してください」。もしも主イエスが、そうではなくて、この人びとを軽蔑なさったのだとしたら、私どもも、今ここに立つことさえできないのです。この主のゆえに、私どもは、すべての人を敬うのです。

私どもの国は、国民主権という大原則を定めています。独裁制よりはよほどましでしょう。あくまで私の個人的な意見ですが、民主主義という政治形態は、今のところ最も優れたものだと思います。しかし主イエスが十字架につけられたのは、ローマ皇帝によってではありません。ローマ皇帝の派遣した総督ピラトが主イエスを殺したがったのでもないのです。むしろピラトは、大多数の人びとの声に押されて主イエスを殺さざるを得なくなっただけです。その意味では、主イエスは民主主義の力によって殺されたのだということを、私どもは忘れてはならないと思うのです。

その上で聖書は言うのです。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」。その制度が実は欠陥だらけだということは、誰よりも神ご自身がよくご存じでした。けれども、「主のために」その欠陥だらけの制度に従いなさいと言われるのです。国家の批判をするなという意味ではありません。悪を黙認せよということではありません。「主のために」。主イエスほど激しく人びとを批判なさった方もないのです。けれどもこのお方は、人びとの間違った判断によって殺されることを、神のみ旨と受け入れられたのです。

この日本が、どんなに欠陥だらけの国だとしても、主イエスは決して、この国を軽蔑なさっていないと私どもは信じます。主イエスに愛され、人間として重んじられていることを知っている私どもが、その主の愛の証し人として、すべての人を敬うのです。この日本を愛するのです。それは、国家を神聖視することとはまったく違います。

12節には、まさにこの国にも与えられている望みが明確に語られています。

また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

キリスト者であるというだけで「悪人呼ばわり」されるということは、私どももどこかで経験していることです。けれども、教会を悪く言う人が、遂に神をあがめるようになる日が来る。それが「訪れの日」、神が彼らを訪れてくださる日です。その人たちが神の愛に気づく日です。私どもの〈美しい〉生き方が、その証しとして用いられると言うのです。

この望みを抱いている人間は、どんな人も軽蔑することはありません。神よ、どうぞこの人を、この国を、あなたが訪れてください。祈りつつ、すべての人を敬うのです。教会はその歴史の最初の300年間、人びとの侮辱に耐えながら、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬う」生活を続けました。遂にローマ皇帝がキリストを信じるようになるという奇跡さえ起こったのです。神が訪れてくださったのです。私どもの隣人にも、この日本にも、訪れの日が与えられると信じます。この望みを知るがゆえの、私どもの美しい生き方なのであります。

(9月20日 礼拝説教より)