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神のいのちの御手を信じて

2015年4月5日

ルカによる福音書第23章44―49節
川﨑 公平

復活主日礼拝

今朝、主の復活を祝うための礼拝で、しかしいつも通り、ルカによる福音書の続きを読み進めます。主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、最後にこういう祈りをなさいました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。「父よ、どうかお受けください、わたしの全存在を」。この祈りが聞かれたところに、主の復活が起こりました。その意味では、既にここに、甦りの光が見え始めています。イースターの礼拝に最もふさわしいみ言葉を神が与えてくださったと信じます。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。これは主イエス独自の祈りではなく、旧約聖書の詩編第31篇6節です。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」。興味深いことに、この言葉は既に当時のユダヤの人びとが、眠りにつく前の祈りとして用いていたそうです。主イエスも幼い頃から、〈おやすみのお祈り〉としてこの言葉を覚えたに違いないのです。物心つく前から、母マリアに寝かしつけてもらいながら、「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という祈りを耳になさったのです。幼い頃から習い覚えた詩編の言葉が、主のご生涯の最後の言葉になりました。それがさらに、後に生まれたキリスト教会においても、これが一日の終わりの祈りとして用いられるようになりました。

私は大学生の頃、カトリックの教会音楽の研究所のようなところに入り浸ったことがありました。声楽やオルガンやグレゴリオ聖歌などを学びました。毎年夏に行われる泊まりがけの研修会で、〈寝る前の祈り〉というのがありました。そこで、この詩編の言葉をグレゴリオ聖歌で覚えました。「主よ、あなたの御手にわたしの霊をゆだねます」。ああ、こんな詩編の言葉があったんだ……。新鮮でした。

私がそのようなカトリック教会との関わりで知った、こういう祈りがあります。これも寝る前の祈りです。

イエス、マリア、ヨセフ、
心も体もみ手にゆだねます。
イエス、マリア、ヨセフ、
臨終の苦しみの時に
わたしを助けてください。
イエス、マリア、ヨセフ、
永遠の憩いを迎える恵みを
お与えください。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

私どもには馴染まない言葉も出てきますが、こういう祈りを、決まった言葉で祈る人たちがいるということは、ちょっとした驚きでした。

カトリックの人が、プロテスタントの人を見てしばしばびっくりなさることは、自分の言葉で自由に祈るということです。「そんなこと、われわれにはなかなかできない」とおっしゃるカトリックの方も多いようです。しかし私どもプロテスタントの人間が、自分の言葉で自由に祈るときに、たとえば寝る前に、

こういう祈りをしたことがあるか。「心も体もみ手にゆだねます。臨終の苦しみの時にわたしを助けてください」。毎日、毎晩、死ぬ準備をしているのです。

既に旧約聖書の信仰に生きた人びとが、このことを重んじました。眠りにつくたびに、自分の死を思う。しかしそこで、「主よ、あなたの御手にわたしの霊をゆだねます」と祈るのです。それだけに、もし新しい朝を迎えることができたら、神さま、ありがとうございます、新しい命をあなたが与えてくださいました、ということになるでしょう。神を信じて生きる人間は、このように祈ることができるのです。だがしかし、いつか必ず、朝を迎えられない日が来ます。

私の祖父は46歳で死んでいます。心臓が原因でした。当時、長崎の佐世保の牧師でした。いつも通り夜眠りにつき、しかし朝を迎えることはありませんでした。このようなことはしかし、案外私どもの回りにもときどき起こっていると思います。私の妻の兄は、生後80日で死んでいます。私は冗談でも何でもなく、私と、妻と、一歳になる息子と、三人家族の中で最初に死ぬのは誰だろうかと思うことがあります。そこでいったい、どうするかということです。

悟りの境地で、「神よ、あなたにゆだねます」と祈れるかどうか。そんな話ではないと思います。今は落ち着きはらって説教してみせていますが、いざとなったら私だってどうなるか、正直言って自信はありません。そして主イエスも、決して落ち着きはらっておられたわけではないのです。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』」。叫びとしか言いようのない祈りであったのです。私は、主イエスほど立派に叫ぶことさえできないかもしれません。けれども大切なことは、私どもがどういう祈りをするか、ということではないと思います。もっと大切なことは、主イエスがこのように叫ばれたという事実です。そしてこの主イエスの叫びを受け止めてくださった父なる神が、生きておられるということです。「神は生きておられる」。主の甦りは、その事実の、神ご自身による証明にほかなりません。そして私どもも、その事実を、たとえば毎晩寝る前の祈りにおいて学び続けていくのです。

先日、明治学院大学で説教してほしいという依頼がありました。年に一回程度、私のような者にもお呼びがかかります。ただ、今回ひとつ珍しかったのは、「この週のテーマは〈人生設計〉です」と言われたことでした。大学生を相手に〈人生設計〉。そんなたいそうな話、できるかな、などと思いながら、この言葉を思い出しておりました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。最後にこう言える人生を造ることができるか、今造っているか、ということです。

ルカによる福音書は、既に第12章16節以下に、〈愚かな金持ちの譬え〉と呼ばれる主の言葉を伝えています。ある金持ちの畑がたいへんな豊作で、これで何年かは遊んで暮らせるか、と思ったところで、この金持ちは独り言を言うのです。「わたしの魂よ、ゆっくり休め。好きなだけ飲み食いして楽しめ」。この金持ちの気持ちはよく分かります。自分もこう言えればな、と思わないでもありません。人生、何の心配もない。老後のための備えも万端。

ところが思いがけず、その金持ちに神が声をかけられる。「お前はばかだ。今夜、お前は死ぬ。朝を迎えることはない」。

主イエスは私どもに、賢く生きることを求めておられます。明らかに、私どものこころの中、〈人生設計〉の中にも、この金持ちのこころに通じるような愚かさがあるのです。

それなら、賢くなるとはどういうことでしょうか。人生ははかない、などということを悟ってみせることではないと思います。自分の全存在を神にゆだねきるのです。死の間際にだけすることではありません。私どもの人生のすべてを、神にゆだねながら設計していくのです。

英国にウェスレーという牧師がおりました。ある教会員から「明日死ぬとしたら、どうしますか」と尋ねられて、「今日予定していたとおりのことをします」と答えたそうです。考えてみれば当たり前です。本当に明日死ぬかもしれませんから。けれどもこれは、悟りを開くとか、そういう次元の話ではない。ウェスレーも単純に、自分自身を神にゆだねていたのだと思います。それは言い換えれば、神を信頼し、神を愛して生きるということです。しかもそれは、どんな悲しいことがあっても涙ひとつ流さない、冷静沈着な生き方というのとも違います。

主イエスは、「大声で叫ばれた」のです。それは本当に、激しい叫びだったと思います。「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた」と記されていることも、忘れることはできません。世界が最も暗くなった場所で、その闇を突き破るような叫びであったのです。むしろ私どもは、主イエスほどには、大きな声で叫んでいないかもしれません。

ときどき、ルカが伝える主イエスの最後の言葉について、批判的に論じる人がいます。マタイ、マルコ福音書は、少し趣きの異なる言葉を伝えています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このようなすさまじい叫びを、ルカはすっかり骨抜きにしてしまった、宗教的な決まり文句にしてしまったと批判する人がいるのです。けれども私は、ルカは決してそんなことをしてはいないと思います。

「わたしの神よ、わたしを見捨てないでください」。「わたしの霊を、あなたの手で受け取ってください」。いずれも大声の叫びです。このふたつの祈りは、何の矛盾もなく、むしろお互いに通じ合うものがあると信じています。いずれも、死の闇の中から、その闇を破るような叫びであったのです。

「明日死ぬとしたら」などと申しました。本当は、軽々しく口にしてはならない言葉です。そういうときこそ、私どもも闇の中から大声で叫ばないわけにはいかなくなると思います。いや、今既に、闇の中から叫ぶような祈りを続けておられる方もあるかもしれない。もう叫ぶ力さえ失われたという方もあるかもしれない。けれども、もう一度申します。主イエスこそが、闇の中から大声で叫んでくださったのです。しかも主イエスは、それでも父なる神に対する信頼を失うことはなかったのです。

少し細かいことですが、主イエスは、詩編第31篇の言葉を文字通りには引用なさいませんでした。「父よ、わたしの霊をゆだねます」。詩編には「父よ」という言葉はありません。「まことの神、主よ」という詩編の呼びかけを、あえて主イエスは「父よ」と言い換えられました。主イエスは最後まで、神を「わたしのお父さん」として信頼し、それゆえに、そのみこころに従い抜かれたのです。

特にルカによる福音書の受難物語の中で、忘れることのできない場面があります。第22章39節以下で、主イエスはオリーブ山で徹夜の祈りをなさいました。血の滴りのような汗を流しながら、こう祈られました。「父よ、御心なら、どうかこの杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」。まことに激しい祈りでした。そのときも大声で叫ばれたのでしょうか。そこでも主はご自身を父なる神にゆだねておられます。「わたしの願いではなく、御心のままに」とは、そういうことでしょう。

主イエスはそこで、弟子たちにも呼び掛けられました。「誘惑に陥らぬよう、あなたがたも、起きて祈りなさい」。誘惑とは、神のみこころを無視し、自分の願いに固執するところに始まります。神にゆだねるなんていやだ。自分のことは自分で決める。自分の財産は自分で守る。自分のいのちも自分で守る。私どもの愚かさは、まさにそういうところに現れてきます。あの愚かな金持ちと同じです。それは、神がわたしの父でいてくださるという事実を忘れた愚かさでしかないのです。

主イエスがその短いご生涯で、心を込めて私どもに教えてくださったことは、まさに、神が私どもの父でいてくださるということです。ルカによる福音書第15章で主が集中して語ってくださった、〈いなくなった羊の譬え〉、〈いなくなった息子の譬え〉が鮮やかに示しているように、私どもには帰るべき父の家があるのだということを、主は語ってくださいました。

そのためにしかし、主は私どもの愚かさと戦わなければなりませんでした。その愚かさの中で、主イエスはののしられながら十字架につけられたとも言えるのです。「神の子なら、自分を救ってみたらどうだ。何だ、そのざまは。悔しかったら、十字架から降りて来い」。そのようなののしりに囲まれながら、主イエスは第23章34節で、もう一度父の名を呼びながら、「父よ、彼らをお赦しください」。「父よ、この人たちも、あなたの子ではありませんか。どうか、この人たちを見捨てないでください」。私どもを、神の子としてかばい続けてくださいました。そして最後に、もう一度父の名を呼びながら、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んでくださいました。まさに、闇を破る叫びでした。

私どもは、この主の叫びに贖われているのです。父なる神は、このお方を死者の中から甦らせてくださいました。主の叫びが、確かに聞かれたのです。イースターとは、その確証が与えられた記念の日です。だからこそ私どもも、父なる神を心から信頼しきって、主イエスと同じ祈りに生きることができます。まさにここに、主の復活の恵みがあるのです。

この主イエスの叫びを聞いたひとりの人が、このように言いました。「本当に、この人は正しい人だった」。倫理的な正しさ、あるいは刑法上の正しさを意味する言葉ではありません。あえて思い切った意訳をすれば、「本物の人間」ということです。「この人こそ、本物だ」。

創世記第2章7節は、人間の根源的な性質について、このように語っています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。この「命の息」とは、明らかに神ご自身の霊です。わたしが今、人間として生きているのは、神の命の息が吹き入れられているから。そのわたしの霊を、他の誰にゆだねるのでもない。あの愚かな金持ちのように、自分で守ろうとするのでもない。「父よ、あなたの手にゆだねます」。ここに人間の〈正しい〉生き方があります。〈本物の〉生き方があるのです。

この福音書を書いたルカは、続編として使徒言行録を書きました。その第7章に、殉教者ステファノの物語があります。「父よ、彼らをお赦しください」という主イエスの十字架上の祈りとほとんど同じ祈りをしながら、石に打たれて息絶えました。そのとき、ステファノがもうひとつした祈りがありました。「主イエスよ、どうかわたしの霊をお受けください」。明らかに、主イエスがなさった最後の祈りを、自分自身の祈りとして叫んだのです。

ステファノは、「わたしのいのちの支配者は、神である」という事実を信じることができました。自分を殺そうとする人びとが本当の支配者ではないということを、よく知っておりました。自分で自分のいのちを守る必要もないことをも、よく知っていたのです。わたしのいのちの支配者は、わたしの父以外にない。御子キリスト以外にない。その御手に、わたしの霊をゆだねると言ったのです。

ルカは、決して特別な英雄の姿を書いたつもりはなかったと思います。ここに、私どもすべてが模範とすべき〈正しい人〉、〈本物の人間〉の姿があるのです。自分のいのちを、父の御手にゆだねることができる。これにまさる幸せはありません。