滅びに勝つ神の言葉
ルカによる福音書第21章5―19節
川﨑 公平
主日礼拝
「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、……」(5節)。当時のエルサレム神殿は、ユダヤの歴史の中でも最も豪華な姿を見せていたそうです。クリスマス物語でよく知られるヘロデ大王という人が、のべ何10万人という人手を用いて、エルサレム神殿の大改築を行いました。その工事は、ヘロデ王が死んでもなお続けられ、ここで主イエスがエルサレムにおいでになった時も、なお工事中であった。その姿を見ながら、人びとはそのすばらしさについて語り合っていたのです。主イエスにも語りかけたかもしれません。先生、すばらしい神殿じゃないですか。
しかし、主イエスは言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)。要するに、「この神殿は徹底的に崩れる」と言われたのです。
この主イエスの言葉は、それから約40年後、紀元70年に歴史上の出来事となりました。ユダヤの人びとがローマ帝国に反乱を起こし、激しく抵抗を続けましたが、ついに敗れ、エルサレムの神殿も、ほとんど跡形もなく破壊されました。その壁の一部が今なお残っているのが、有名な「嘆きの壁」と呼ばれるものです。
この神殿の崩壊を、主イエスは何十年も前に見事に予言なさった。さすがイエスさま、と言ってもよいのかもしれませんが、他方から言えば、主イエスは当たり前のことをおっしゃっただけです。人間の造ったものは、必ず崩れるのです。それどころか、第21章33節には「天地は滅びる」という言葉さえ出てくるのです。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが」と主イエスは言われました。「見とれている」というのは、なかなか工夫された訳だと思います。原文では、「よく見る」というくらいの意味です。英語のシアター(劇場)という言葉の語源にもなりました。ぼんやり眺めているわけではない。映画を観賞するように、熱心に見ているのです。だからこそ、危ないのです。「あなたがたはずいぶん熱心に見とれているが……」。そんなものは、ぜんぶ崩れて行くよ。ごく当たり前のことを言われたのです。
しかし、当時のユダヤの人びとにとって、神殿が壊れるということは、決定的な、また象徴的な意味を持つことでした。ただひとつの建物が崩れるということにとどまらない。自分たちの信仰、文化、社会の崩壊を象徴するようなことでした。世界の終わりを予感させるようなことであったと思います。
そこで人びとは主イエスに尋ねます。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」(7節)。ところが主イエスは、直接には彼らの問いにお答えになりません。ただ、「惑わされないように気をつけなさい」と言われました。ここには、偽キリストについて、戦争や暴動について語られます。どうもこういう恐ろしい言葉が続くと、私どもはうっかり、なるほど、こういう恐ろしいことが世の終わり、終末のしるしだと言われているのだと思ってしまうかもしれません。しかし主イエスが言われたことはむしろ逆です。「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」(9節)。
私どもも、エルサレム神殿の崩壊などはどうでもいいと思うかもしれませんが、そのくらい大きなことが身近で起こったら、やはり大騒ぎすると思います。戦争とか、暴動とか、さらに11節以下に語られる、地震とか、飢饉とか、疫病とか。本当に自分に関係あることとして、これらのことがひとつでも起こったら、私どもはおびえると思います。
なぜ惑わされるのでしょうか。人のわざに目を奪われるからです。人のわざを積み重ねて、もうこれで安心だと言えるものを探し求めて、それにすがる。けれども、神殿が崩れます。戦争が起こります。大きな地震が起こり、想定外の事故が起こります。そうすると、営々と積み重ねてきた人のわざが一瞬にして崩れます。すべてが無駄であったのではないかと思います。主イエスは、ここで、そういう目に見えることに「惑わされるな」と言っておられる。
主イエスは、この世界が滅びることはないから安心しろと言われたわけではありません。「天地は滅びる」。けれども、滅びないものがたったひとつだけある。33節をもう一度、最後まで読みます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。「わたしの言葉」、主イエスの言葉によって、私どもは立ちます。
けれども、もう一度申します。そのことと深く結びつくのは、「天地は滅びる」ということです。神殿の崩壊は、当たり前のことだと申しましたけれども、他方から言えば、「天地は滅びる」という、私どもにとっては頭がくらくらするほどの事実を予感させるような出来事でもあったと思います。天地は、滅びるのです。
「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない」という言葉がありました。いくら何でも日本が戦争を始めることはないから心配するな、という意味ではありません。「こういうことがまず起こるに決まっている」と言われました。戦争も暴動も、地震も飢饉も疫病も、人災・天災の別を問わず、こういう悲しいことは、いやでも、避けがたく、起こらざるを得ないのです。その意味では、主イエスは非常に冷静な現実主義者です。もちろん私どもは、戦争が起こらないように努力すべきです。けれども、主イエスははっきりと、戦争がやむことはないと言われます。けれども、だからこそ、「惑わされないように気をつけなさい」と言われるのです。何をどう気をつけるのでしょうか。
およそ3年半前に、この国で大きな地震が起こりました。それこそ、「天地は滅びる」という事実を、はっきりと予感させるような出来事であったかもしれない。そこで多くの人が、なぜこんな悲しいことが起こるのかと問いました。しかし、主イエスは既にこう言っておられたのです。こういうことは、「起こるに決まっている」。「天地は滅びる」のです。しかし、「わたしの言葉は決して滅びない!」 そのことを知るとき、私どもは、それらの苦しみとの向き合い方が変わってくると思います。
最近はもうそういうこともなくなりましたが、その地震のあと、時々知らない人から〈神を問う〉電話がかかってくることがありました。たいてい内容は単純です。神が生きておられるのなら、なぜこんな悲しいことが起こるのか。説明がつかないではないか。もちろん、いいかげんな気持ちでそういう電話をかける人はいません。もし説明できる人がいるならば、その説明を聞きたい、という誠実な思いであったと思います。
そういう電話の中に、「マタイによる福音書第10章29節以下に、こう書いてあるじゃないですか」とおっしゃる方がいました。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」。
なぜあんなにたくさんの人が死にましたか。神がお許しになったのですか。父なる神のお許しがなければ、雀の一羽も地に落ちることがないと書いてあるじゃないですか。わたしは、神さまに文句を言いたい。神さまには、説明責任があるはずだ。そう言うのです。そこで私は、「その直前の28節も読みましたか」と申しました。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。
これは決定的な言葉です。津波や原発事故で、体を殺されることがあっても、恐れることはない。そう読むことさえできる言葉です。その方も、私の言いたいことをすぐに理解したのでしょう。「いや、この28節は読みたくない。29節以下だけを読みたい。その上で神さまに文句を言いたい」と言って譲らないので、少し困りました。そこで私が、「いやいや、あなたの聖書の読み方はむちゃくちゃですよ」などと言っても問題の解決にならないことは、誰にでも分かることです。事実、理屈では納得できない悲しみがあり、苦しみがあるのです。
もしも、本当に納得する道があるとすれば、それはただひとつだと思います。実際に、神に髪の毛一本までも数えられている人に出会うことです。「たくさんの雀よりもはるかにまさって」神に愛されている私どもの存在、皆さんの存在が、このような問いに対する答えになるのだと、私は思うのです。
今日私どもが読みましたルカによる福音書第21章18節にもこういう言葉がありました。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。33節に、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と記されるその前に、既に18節にこのような言葉があったのです。だからある聖書学者は、5節から19節までを、「神殿の石の、ひとつの石も他の石に積み残ることがない」という言葉から始まって、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という言葉で締めくくられる区切りとして捉えます。神殿の石がひとつ残らず崩されても、原発事故で町中が滅びても、決して損なわれないものがある。それは、あなたがたの髪の毛だと言われるのです。
聖書学者の中には、ここに大きな矛盾を見る人もいるようです。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」(16節)。髪の毛どころじゃない。命さえ取られる。それなのに「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」というのはおかしい、と言うのです。しかし皆さんの多くは、まさにこれが私どもの現実だとお読みになると思います。たとえ殺されたとしても、なお髪の毛の一本までも、神が数え、守ってくださる。皆さんのことです。
そのことと重ね合わせるようにして、「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉が語られていることに、私は深くこころを動かされるのです。それほどまでに、私どもの存在が、決して滅びない主イエス・キリストの言葉と一体化しているということです。主イエスの言葉が滅びないから、私どもも滅びない。髪の毛のひとすじさえも。そのような私どもの存在が、確かな証しになるのです。
12節以下には、こういう言葉がありました。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
もしかすると、この「機会」という言葉は余計であったかもしれません。「結果として、証しになる」という意味の言葉です。「あなたがたが迫害に耐えているという事実が、結果として証しになる」ということです。だから、こういう言葉が続くのです。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
私が体験した電話でのやり取りを紹介するまでもなく、理屈で神の愛を説明し、相手を論破しても、それが証しになることはありません。主イエスが授けてくださる言葉と知恵というのは、本当に証しになる言葉と知恵です。それは、その人の存在としっかりと結びついているような言葉でなければならないでしょう。「あなたがたの髪の毛の一本もなくならない」という主イエスの言葉が、私どもの存在を作る。そこから生まれてくる証しの言葉というのは、前もって準備し、勉強して獲得することができるものではありません。神の愛が、このわたしの存在を作る。その存在から出てくる言葉です。
考えてみれば、私どもが主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたのも、たくみな議論によって説得され、論破されたからではなかったと思うのです。私どもが信じたのは、このお方が十字架につけられたからです。神が、このお方を甦らせてくださったからです。まさしく神は、主イエスの髪の毛一本も損なわれることのないように守ってくださったのです。このお方の存在に触れて、私どもも、神の愛を知ったのです。
神殿の石がひとつも積み残されることなく崩れる時にも、主のお甦りにおいて示された神の愛に揺らぐところはありません。その神の愛に生かされている私どもの髪の毛一本といえども、失われることはないのです。その意味で、主イエス・キリストと、私どもの存在が深く重なってまいります。私どもが生きているということが、神の愛の証しになるのです。驚くべきことです。まさにここに、私ども教会の、伝道の使命が見えてくると、私は信じます。