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すべての人は、神によって生きる

2014年8月3日

ルカによる福音書第20章27―40節
川﨑 公平

主日礼拝

ここに、「復活があることを否定するサドカイ派」という人たちが登場いたします。この人たちも、聖書を読み、神を信じていると、自分たちではそう思っていた人たちですけれども、福音書にしばしば出てくるファリサイ派とは対立していたと言われます。ひとつの争点は、ここに書いてある通り、「復活があることを否定」したということです。死んだら、それですべておしまい。そう考えたのです。

私どもすべての人間の、実はいちばん気にかかっている問題が取り上げられています。それは、私どもが死ぬということです。そして、死んだらどうなるかということです。これは、信仰のあるなしにかかわらず、すべての人にとって最大の問題であるはずです。ですから私どもは、死んだらどうなるかということについて、実は何の根拠もないのに、ずいぶん多くのことを妄想するものです。

私どもは、例外なく死にます。一見幸せそうな死に方をするにしても、どうも不幸な死に方をしたと思うようなことがあったとしても、私どもは必ず死にます。問題はそのあとです。死んだらどうなるか。そのことについて不確かな思いがあると、今一所懸命生きていることも、実はまったく空しいということになりかねないと思います。

このサドカイ派の人たちは、復活などない、死んだらそれで終わりだ、と考えました。しかしこれは、復活なんて非科学的なことは信じない、ということとは違います。サドカイ派もまた、聖書を神の言葉と信じていたのです。特にこのサドカイ派は、旧約聖書の最初の5つの文書、つまり創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを正しい〈聖書〉として重んじました。そして、少なくとも彼らの読み方によれば、そこには復活の信仰は教えられていないと考えたのです。

私どもの多くは、そう考えないかもしれません。信仰を持っていない多くの日本人も、このサドカイ派の考え方には反対するのではないかとも思います。死んだらそれっきりなんて、それはちょっと寂しすぎる。確かに肉体は滅びる。では、魂はどうなるのか。洋の東西を問わず、霊魂だけが死後の世界に行くと多くの人が考えました。だから日本でも、葬儀の時には「ご霊前」などと書いてお金を包んだりするのです。

しかし、少し話がややこしくなるようですが、当時のユダヤの人びとは、そういう考え方はしなかったようです。肉体も魂もひっくるめた、人間の全存在が死によって滅びてしまうと考えました。けれども、その肉体と魂をひっくるめた存在が、やがていつか甦る。そう信じたのがファリサイ派です。しかし、ファリサイ派が復活を信じたのは、聖書以外の教えをも大切にしたからです。それに対してサドカイ派が復活を否定したのは、聖書に書いていないからです。これは私どもが旧約聖書を読むときにも大切なことで、死んだ人間が甦るという信仰が語られている箇所は、あったとしてもごく僅かです。

そこで、そのサドカイ派が、自分たちの主張の正しさを支えるために考え出したのが、七人の男たちと次々と結婚しなければならなかった女性の話です。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(28節)。これは、それこそサドカイ派が聖書として重んじた、申命記第25章5節以下に記されている掟です。子が与えられないまま、夫が死んでしまう。そのままでは、家系が断たれることになる。当時のユダヤ人にとってはたいへんなことです。そこで一種の救済措置として設けられたのがこの掟です。死んだ夫の兄弟がこの女と結婚して、子どもを残さないといけない、というのです。

けれども、その弟も子を残すことなく死んでしまったらどうするか。さらにその弟があとを引き継ぐ。そのようにして、7人も夫を取り換えたけれども、結局跡継ぎは与えられない。そしてやがて、この妻も死ぬ。もしファリサイ派の言う通り、彼らが甦るのだとすると、この女の前に7人の夫がずらりと並ぶことになる。困るではないか。もともと聖書は、死後の世界などあり得ないという前提のもとに書かれているのだ、と言うのです。

これはずいぶん極端な話のようですが、それなら私どもは何を、どう信じているのでしょうか。きちんと問い詰めようとすると、よく分からなくなってきます。すべての人が、ひとりの人と結婚するわけではありません。離婚せざるを得なかった人。配偶者と死別しなければならなかった人。しかし幸いにして、新しい配偶者を得て、今は幸せになっている人もあるかもしれない。けれども、死後の世界で、最初の奥さんと新しい奥さんと、どっちと一緒にいればいいのだろうか、などと考え始めると、複雑な気持ちになる人もあるかもしれません。

こういう、復活をめぐる問いというのは、いくらでも挙げることができます。私どもの信仰は、「身体の甦り」です。霊魂不滅ではありません。では、何歳くらいの肉体で復活するのでしょうか。たとえば、重い病気で苦しみながら死んだ人が復活したとき、死ぬ寸前の、病気がいちばん苦しい状態で復活するとしたら、それはさすがに神さまに文句を言いたい。できれば若くて元気な頃に戻りたい。と言っても、あまり若すぎても、生まれたばかりの赤ちゃんに戻ってしまって、今さらおむつを替えてもらわないといけない、食べる物もミルクだけというのも、何だかちょっとさびしいなあ、できれば天国ではいろいろおいしいものを食べたいなあ、などと妄想はいくらでも膨らみます。皆さんは、何歳の時に戻りたいですか? そうすると、やはり復活というのはあちこちに差支えが生じるので、せいぜい霊魂不滅くらいの教えが分かりやすいのではないか、という気分になってまいります。

しかし大切なことは、私どもの気分などではなくて、主がどうお答えになったか、ということです。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(34―35節)。これはずいぶん厳しい言葉です。私が今日の説教でいちばん悩んだのはこの言葉です。趣旨は明快です。地上では、めとったり嫁いだりするけれども、甦ったあとの世界では、もう地上の婚姻関係は問題にならない、というのです。この女性は、誰の妻にもならない。だから、7人の夫が目の前にずらりと並んでも、何も困ることはない。余計な心配をするな。主はそう言われたのです。

この主イエスの言葉を聞いて、たいへん悲しい思いになる方も多いと思います。しかしまた逆に、これはすばらしい解放の言葉だとお聞きになる方も、きっといると思います。

20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトという人について、よく知られた逸話があります。ある人がバルト先生に尋ねました。「先生、わたしが死んだら、天国で愛する人たちに会えますね」。バルト先生は答えました。「ええ、必ず会えます」。けれども、それにひと言付け加えたそうです。「しかし、ほかの人たちにも会いますよ」。ほかの人たちというのは、つまり、二度と会いたくないと思っている人のことでしょう。

比較的若手の日本の牧師が、書物の中で、こういうことを書いていました。数十年ぶりに小学校の同窓会に出かけたら、自分がいじめていた友達に会った、というのです。自分はいじめっ子だった。ずいぶんひどいことをしてしまった。それが心の黒い沁みになっていたというのです。そこで、その友達に近づいて、勇気を出して言ってみたそうです。「昔、けっこうひどいことしちゃったよね。覚えてる?」 その友達は、真面目な顔で答えたそうです。「忘れてないよ」。その友達は、赦してくれなかったそうです。そしてこの牧師は、こう言います。自分は結局、「なんだ、そんなこと、もう忘れたよ」というような答えを聞きたかっただけなんだ。

いつの日か私どもが甦るときには、きっと、いろんな人に会うでしょう。そのことを考えるだけでも、いろんなことに気づかされます。死んだあとの世界のことを考えるときにも、私どもは、ずいぶん自分勝手になります。いや、私どもが地上で作っている生活だって、そうとう自分勝手なものだと思います。その自分勝手を究極まで追求したのが〈天国〉だと思いたがっています。「天国ってどういう場所だろう。こういう場所であってほしい。こういう食べ物を食べたい。こういう音楽を聴きたい。この人にもあの人にも会いたい。死んだペットにも会いたいな。しかし、あの人にだけは合わせる顔がない……」。自分勝手な妄想は、いくらでも膨らみます。

そのときに、私どもが忘れていることがあると思います。主イエスは最後に、「すべての人は、神によって生きているからである」(38節)と言われました。あなたは、神によって生きているのだ。そのことが分かるか、と言われるのです。

この地上の生活において、私どもには、いろんな人との出会いが与えられます。親との出会いが与えられ、妻が与えられ、夫が与えられ、子が与えられ、友が与えられ……それは皆、神が与えてくださるものです。それが天国では赤の他人になるなんてことはない。そんなことは主イエスも言っておられないと思います。

けれども、主イエスが最後に言われたことは、「すべての人は、神によって生きる」。もし、そのことを忘れると、神以外の誰かによって、わたしは生きる、ということになるでしょう。「この妻がいるから、この夫がいるから、わたしは生きていける」。けれども、その夫が先に死んでしまうということが起こります。仲がよければよいほど、それは大きな衝撃になるでしょう。「神よ、なぜわたしだけが残されるのですか。天国に行ったら、死んだ夫に会えますか」。「ええ、必ず会えます」。けれども主イエスは、私どもにひとつの警告を発しておられると思います。「すべての人は、神によって生きる」。神こそ、あなたの父。そのことを忘れるなと、主は言われるのです。

その神のみ前で、もちろん、私どもは、既に召された愛する者たちにも会うでしょう。地上では愛することも赦すこともできなかった人たちにも、会わなければならないでしょう。その赦せなかった人というのが、もしかしたら自分の夫であったりするかもしれない。だいたい、夫の方が天国でも妻に会いたいと思っていても、妻の方はまっぴらごめんだと思っているかもしれないのです。そういう夫婦が復活の日にはたちまち赤の他人になるなんてことは、主イエスは言っておられません。まったく逆です。どんなに仲のいい夫婦であっても、どんなに問題を抱えた夫婦であっても、いや、地上のどんな人間関係も、復活の日には、神のみ前で初めて完全な解決を見るのです。そこでは、たとえば離婚せざるを得なかったとか、その後再婚したという地上でのさまざまな事情も、問題になりません。「すべての人は、神によって生きている」からです。

特に、ここで私どもが忘れてはならないことは、主イエスがほんの数日後には、十字架につけられて殺されたということです。主イエスには、妻も子もいませんでした。それどころか、すべての人に憎まれ、捨てられるようにして殺されたのです。けれどもその主イエスを、神は3日目に甦らせてくださいました。この出来事を目前にしながら、そのいのちを注ぐようにして語られた言葉です。「すべての人は、神によって生きる!」わたしを見れば、あなたを生かす神の愛が見えてくるはずだ。主イエスはそう言われるのです。

37節では、こうも言われました。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」。なぜこの表現が、復活信仰を支える言葉になるのでしょうか。そこで大切なのは、これに続く38節です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。そうすると、アブラハムもイサクもヤコブも生きている、ということになります。なぜそんなことが言えるのでしょうか。言うまでもなく、皆とうの昔に死んだのです。けれども、神は生きておられます。その神が、アブラハムの神になってくださったとき、アブラハムも生きるのです。その神が、わたしの神になってくださったとき、わたしも生きる。皆さんも生きるのです。

すべての人を生かす、この神の愛を信じる人間は、死んだらどうなるか、そんなことで思い煩うことはありません。今既に与えられている主の甦りのいのちが、死を突き抜けてこのわたしをも支える。そのことを信じるだけです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。生きている者、それは私どものことなのです。