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誰があなたを救うのか

2014年4月27日

ルカによる福音書第18章18-34節
川﨑 公平

主日礼拝

既に、主イエスの地上のご生涯の終わりに近い頃の出来事であります。ひとりの金持ちの男が、まことに幸いなことに、主イエスに直接お目にかかることができました。そして、永遠のいのちを得る道について語り合うことができました。たいへん印象深い物語です。しかし、何が印象深いのでしょうか。

福音書の中には、この金持ちの議員のように、主イエスに直接お目にかかることのできた人びとがたくさん出てきます。けれども私どもがこの物語を読みますときに、たいへん印象深く思いますことは、この金持ちの男には、はっきりとした例外的な特徴があった。言うまでもなく、主イエスに従うことができなかったということです。悲しみながら、呆然と立ち尽くすほかなかったのです。もちろん、ほかにも、主イエスに出会っていながら弟子になりそこなった人というのは、実際にはたくさんいたと思いますけれども、その経緯がこのように詳しく記録されてしまっている人というのは、ほかにいないのです。その意味で、とても悲しい物語だと言えます。なぜそういうことになったのでしょうか。

この人は、「非常に悲しんだ」と記されています。23節にも、24節にも繰り返して、「非常に悲しんだ」、「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て」と言われます。この「非常に悲しんだ」と訳されている言葉は、他の福音書と比べても、ルカが特に強調して書いている言葉で、もう少し原文のニュアンスを生かして訳し直すと、「悲しみに取り囲まれた」という言葉です。新約聖書の中に、それほど多く出てくる言葉ではありません。その数少ない用例のひとつは、主イエスが十字架につけられる前の晩、ゲツセマネという場所で、血のように汗を流しながら徹夜の祈りをなさった。その時に、主イエスが弟子たちに言われた言葉が、「わたしは死ぬばかりに悲しい」。そこでも同じ言葉が使われています。「悲しみに取り囲まれて、わたしは死にそうだ」と主ご自身が言われたのです。

ここでは、主イエスではなくて、ひとりの金持ちが悲しみに取り囲まれています。しかしその悲しむ男を、じっと見つめてくださった主イエスご自身が、この出来事ののち、ほどなくして――何年も先というのではない、ほんの数週間後のことであったと思います――「悲しみに取り囲まれて死にそうだ」とおっしゃった。そのことを思うだけでも、もういろんなことを考えさせられます。いや、むしろ私はこう思います。既に主イエスが、24節で「議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは難しい』」。そう言われたときに既に、主イエスご自身が、深い悲しみに取り囲まれておられたのではないか。悲しみのまなざしで、この男を見つめられたのではないか。私にはそう思えてなりません。しかし、繰り返し問わざるを得ない。どうして、そういうことになったのでしょうか。

この金持ちの議員であった男は、しかし、もともとどちらかと言えば、あまり悲しみと縁のない人であったとも言えます。たくさんの財産もあった。しかも、その財産におぼれることなく、きちんと神を信じて生きていました。子どもの時から、神の掟をきちんと守り、ユダヤ人として、模範的な生活をしていたのです。マタイによる福音書を読むと、この金持ちの男が、青年であった、若者であったと書いてあることを覚えておいでの方もあると思います。そうすると、この人は、まだ若いのに資産家であり、しかも社会的な地位も手に入れた、その上模範的な信仰者であったという、おかしな言い方かもしれませんが、多くの人が、こういう人になりたいと思うような種類の人であったと思います。こういう若い長老がひとりでもいたら、教会はどんなに助かるかな、などと不謹慎なことをふと考えてしまいます。

しかし、この人には、永遠のいのちについての確信がありませんでした。今の自分の財産と地位があれば、老後も安泰だと思ったかもしれない。けれども、それでも、ひとつだけ不安なことがありました。それで主イエスに尋ねたのです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。そうしたら、主イエスはまったく誤解の余地のない答えをなさった。あなたの財産を全部、貧しい人への施しとしなさい、そしてわたしに従って来なさいと言われました。そこに、それこそ死んでしまいそうな悲しみが生まれました。

私どもの多くは、おそらく、この男に同情するところがあると思います。いくら何でも厳しすぎる、という感想があり得ると思いますし、何よりも、自分自身のことを問わないわけにはいかないと思います。私どもも、「大変な金持ちだったからである」とは言いにくいかもしれませんが、やはり自分の持っているものにこだわっているからです。なかなか全財産から手を放すというわけにはいかないと思っています。この私どもが捨てるべき財産というのは、たとえば預金通帳の残高がいくら、というようなものに限りません。29節で主イエスは、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも」と言われます。家族もまた捨てるべき財産のひとつです。そういう地上の宝を全部手放しなさい、そうでなければ永遠のいのちを得ることはできないなんて、いったい誰が、こういう主イエスの言葉に耐えられるでしょうか。

4月6日の礼拝でも、既にこの金持ちの男の記事を読み、説教しました。その時も申しましたが、私が15年前、まだ神学生であったころ、夏期伝道実習というのを横浜指路教会でいたしました。その時に、このルカによる福音書の記事を説教したのです。なぜこの記事を選んだかというと、わりとはっきりとした理由があって、その夏期伝の少し前に、こういうことがあったのです。

私のおりました教会の青年会、つまり若い人たちの集まりで、よく聖書の学びをしました。神学生になり、私は青年会の会長などというものをしておりましたが、その青年会で、この金持ちの男の物語を一緒に読んだことがあったのです。会長である私が司会をしていたのですが、今思うと、明らかに司会者である私自身が、確信を持ってこの聖書の言葉を読めていなかったようなところがありました。「いや~、本当に厳しい聖書の言葉で、どうしたものか」などとぶつぶつ言いながら、司会をしておりましたら、その席にいた後輩の神学生が(後輩と言っても私より年上なのですが)、こんなことを言いました。今思えば、だらしない先輩をたしなめるようなつもりだったかなと思わないでもないのですが、「いや、ぼくはこの物語、大好きだよ」と言うのです。「イエスさまに従うことが、どんなにうれしいことか、この物語を読むと本当によく分かる」。そうしたら、もうひとりやはり神学校の先輩がいて、「うん、わたしもそう思う」。青年会長の私は完全に面目を失ったような形になったわけですが、忘れることができない言葉になりました。「この金持ちの男の物語を読むと、うれしくなる」。「うん、わたしもそう思う」。そういう感想があり得る、ということが既に私にとって、ひとつの驚きでありました。しかし、どこにその喜びが見えてくるのでしょうか。その喜びを見つけたいと思って、その夏、自分で説教してみたというところもあったのです。

先ほど読みました29節を、もう一度読んでみます。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも」。どうして財産を捨て、家族を捨てるのか。「神の国のために」と主イエスは言われます。捨てるのにはきちんとした理由がある。神の国です。神の支配です。それが財産を捨てる理由です。

それでは、神の国、神の支配とは何か。そのことを考えようとすると、やはりどうしても、4月6日の説教でしたように、その前の15節以下の段落も読まなければなりません。人びとが、主イエスのもとに、乳飲み子を連れて来たというのです。ルカによる福音書が、特に心を込めて、「乳飲み子」という言葉を使ったということも、その時の説教で申しました。まだ自分の足で立つこともできない赤ちゃんです。その赤ん坊を見た弟子たちが、「こら、ここは子どもの来る場所じゃない」と追い払おうとしたら、主イエスは「邪魔するな」と言われました。「神の国は、この赤ちゃんたちのものなのだ」と言われました。この赤ちゃんを見るがよい。この赤ちゃんのように神の国を受け入れるのでなければ、誰も神の国に入ることはできない。

この主イエスの言葉は、多くの人にとって謎の言葉になりました。いったいどういう意味だろう。神の国は子どものもの。まだ歩くこともできない、赤ちゃんのもの。残念ながら、聖書はその点で少々不親切なところがあって、あまり丁寧な注釈をしてくれません。主イエスご自身が、多くの言葉を重ねてはおられません。……しかし私は、見れば分かるだろう、という思いがあったのではないかと思います。他の福音書を読みますと、主イエスがこの子どもたちを抱き上げてくださったという記述があります。そういう姿を想像してくださってもよいと思います。見れば分かるだろう。言葉なんかいらないだろう。わたしは、この赤ちゃんのことがかわいくてたまらないんだ。これが、神の国だ。分かるか。

神の国、神の支配です。その神の支配とは、言うまでもなく、愛の支配です。イエスさまに抱っこされている赤ちゃんの姿を見れば、その神の愛が見えてくる。その神の愛に慰められて、財産から手を放すのです。その意味では、歯を食いしばって、超人的な禁欲をして、いやいやながら財産と家族を捨てても、それは何の意味もない。牧師がうるさく説教するから、人に何か言われるかもしれないから、しかたなく手放す財産は、ますます未練が残るだけであって、少しも喜びの献げ物にはならない。……「この金持ちの男の物語を読むと、うれしくなる」。「うん、わたしもそう思う」。神の愛がうれしくてたまらないから、その神の愛以外に頼るべきものを持たないから、ほかのものにしがみつき、それにより頼むことを断念するのです。そのために主イエスは既に、乳飲み子という、まことに鮮やかなイメージで、神の国の姿を見せてくださったのです。わたしが今、この赤ちゃんを抱いているだろう。これが神の国だ。これが、神に愛されているあなたの姿なのだ。分かるか。そう言われたのです。

だからこそ、私どもはやはりここで、ひとつの決断をしなければならないと思う。もう神さま以外のものには頼らないという、明確な決断です。自分は神さまに抱かれ、守られている存在なんだということを、改めて深く心に刻まなければなりません。だから私どもは、もう財産という偶像を拝まない。自分の家族にも、その意味では信頼を寄せない。ただひたすらに、このわたしを愛してくださるお方を、私どもも愛し、信頼するということです。その意味では、この財産というのは、神の愛を見えなくしてしまう、すべてのもののことでしょう。神さまよりも、お金に頼ってしまう。自分の能力に頼ってしまう。地上の人間関係に頼ってしまう。そこから手を放すのです。なぜか。「神の国のために」。このわたしも、神の愛の支配のもとに、守られている。それが理由です。

ここまで一気に話してまいりましたけれども、「しかし、それにしても」と、既にそういう思いになっている方がいらっしゃると思います。私も当然、そのことを予想しております。全財産を捨てなさいというのは、やはり私どもの心をひるませる言葉だと思います。そして、実は主イエスご自身もまた、全財産を捨てるなんて簡単じゃないか、とは言っておられないのです。24節で、こう言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。ちょっと変わった譬え方ですが、もちろん、まったく不可能だと言っておられるのです。それなら、金持ちでなかったら難しくないのか。そんなことはないでしょう。貧しければ貧しいほど、それだけかえって、自分のなけなしの貯金にしがみつくということもあると思います。そうでなくても、「家、妻、兄弟、両親、子供」。誰もが、何かにしがみついているものです。そういう人が神の国に入るのは難しい。誰にとっても難しいのだと、そう言われるのです。

けれどもその上で、主はこうも言われました。27節。「人間にはできないことも、神にはできる」。人間には難しい、それどころか不可能だと言われた。けれども、神には何でもできる。その神に、一切をゆだねようと言われたのです。この金持ちが分からなかったのは、まさにそのことでした。この男は、最初に何と言ったか。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。「わたしは何をすればよいか」と尋ねたのです。わたしが、何かをするのです。けれども主イエスは言われる。自分が何かできると思うな。神がなさるのだ。神が、あなたを救う。神には何でもできるのだ。だからもう、神さま以外のものに頼るな。財産にも頼るな。全部捨てて、わたしに従いなさい。しかし、まさにそれが難しいから、われわれは困っているのです。どうも話が堂々巡りになって来たようです。

少し視点を変えてみます。こういうふうに考えることもできると思います。「財産のある者が神の国に入るのは難しい」。そう言われると私どもも、そうだなあ、ちょっと難しいなあ、と思うかもしれない。けれども一方で、「神にはできる」と言われました。そうすると、そうか、神さまには何でもできるんだから、神さまにおまかせしよう。そう考えることもできるかもしれない。しかしそうすると、なぜ最初に主イエスはわざわざ、「難しい」と言われたのでしょうか。本当は難しくもなんともない、神さまには何でもできるんだから、それなら最初から、ややこしいこと言わずに、神さまが愛してくださるから大丈夫だよ、と言ってくれてもよさそうなものです。何が難しいのか。

しかしそこで私は思うのです。「財産のある者が神の国に入るのは難しい」。その難しさにいちばん深く悩んでおられたのは、主イエスご自身だったのではないでしょうか。本当は、主イエスは、この金持ちの男のことも、あの乳飲み子と同じようにしっかりと抱きしめて、神さまが愛してくださるからだいじょうぶだよ、と言ってあげたかったのではないでしょうか。けれども相手は赤ちゃんではありません。そんな甘っちょろい言葉が通用するような相手ではありません。自分を救うのは財産だ。神の愛なんて、そんな甘ったれたことで、世の中生きていけるかと思い込んでいます。もちろん、今私は、私自身の話、そして皆さんの話をしているつもりです。神の愛とか、神の救いとか、世の中はそんな生易しいものじゃない。自分の命を守るのは、なんだかんだ言っても、結局、自分だ。だからやっぱり家族が大事、お金も大事。……そういう私どもに、主イエスは言われたのです。「本当に難しいなあ。あなたのような人を救うのは」。地上の富にしがみついた、あなたのような人を神の国に入れるのは、わたしにとっても難しい。けれども、神にはできる。神は、必ず、あなたを救う。神は、何をしてくださったのでしょうか。

ある人がこういうことを言いました。「なぜわれわれは、いろんなものから手を放すことができないのか。死を恐れているからだ」。本当にその通りだと思いました。もともとこの議員も、死を恐れたから、主イエスのところに来たのです。永遠のいのちについて尋ねたのです。そして、死を恐れたから、財産を捨てそこなったのです。私どもも、この死の恐れから逃げ惑うようにして、この世の財産にしがみつく。この世の人間関係にしがみつくのです。神さまとの関係だけでは頼りない。この世の家族の関係がないと、自分のいのちが保証できないように思う。そこにも死の恐れがあります。主イエスが私どもをじっと見つめながら、何としてもこの人を救わなければと思われたときに、主イエスが見ておられたのは、まさにこの死の恐れであったと私は思います。この死の恐れからの救いこそ、人間にはできない。神にしかできないことであったのです。

この金持ちの議員を取り囲んだ悲しみの背後にあったのも、死の恐れであったと言うことができるでしょう。けれどもそこで私どもが心を打たれるのは、この金持ちの悲しみをそのまま身に負うようにして、主イエスご自身が、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われたことです。その死ぬばかりの悲しみに取り囲まれながら、「父よ、どうしてもこの死の杯を飲まなければなりませんか」と、血の滴りのように汗を流しながら、徹夜の祈りをなさったということです。私どもの死の恐れを取り除くため、私どもを取り囲んでいる死の恐れの悲しみを癒すための、主の悲しみであります。

その主の悲しみが、この金持ちの議員との対話の中にも溢れていると私は思います。この議員が悲しむのを見ながら、「あなたのような人が神の国に入るのは、本当に難しい」と言われたとき、それは決して、さげすみの言葉ではなかったと私は信じています。この悲しみから私どもを救うために、なお深い悲しみを主が担ってくださる、その決意を含む言葉です。32節以下の、「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」。この言葉もまた、この主イエスの決意を表した言葉です。いやむしろ、主イエスを私どもに遣わしてくださった父なる神の決意であります。私どもを死の恐れから解き放つための、主のみわざであります。

それならば、主イエスは死ぬことなんか怖くなかったのだろうか。とんでもない、主イエスこそ、誰よりも怖がっておられたのです。ゲツセマネの園で、主イエスが、「わたしは死ぬほどに悲しい」と言われたのも、それはつまり、「神よ、わたしは死にたくありません」という祈りでしかなかったのです。このお方の悲しみによって、私どもの悲しみは贖われているのです。今なお財産にしがみついている私どもであるかもしれません。今なお地上の家族にしがみついている私どもであるかもしれません。けれども、そうであったとしても、この主の悲しみの姿を忘れることはできません。恐れ悶えるほどの祈りをなさった主の思いを、忘れることはできません。それはどうしたってできません。

ルカによる福音書は、この金持ちの男が議員であったと言います。実は、この「議員」という翻訳にもいろいろと議論があって、たとえば以前の口語訳聖書では「役人」と訳されました。基本的な意味は、支配する者、人の上に立つ者、というような言葉です。その言葉を「議員」と解釈した新共同訳の理解は、もちろん適切であると思いますし、またたいへん興味深いと思います。議員というのは、つまり、主イエスを死刑に定めたユダヤの最高法院の構成メンバーです。この出来事が起こってから、何年もあとというのとではない、おそらく数週間後のことだと思います。まさにこの議会に主イエスが連れて来られます。あのゲツセマネの祈りののち、その夜が明けた早朝のことであります。

そこでこの金持ちの議員は、思いがけず、主イエスと再会を果たすのです。私はそこで想像する。この金持ちの議員は、どういう思いで、ちょっと品のない言葉で言えば、どの面下げて、議会に出席したのであろうか。少なくとも主イエスは、この金持ちのことを忘れてはおられなかったと思います。そこでこの最高法院の議員たちは、主イエスを裁く。死刑に定める。この金持ちの男も、少なくとも反対はしなかったと思われる。その時、主イエスは、この金持ちの議員のことを、どういうまなざしで見つめておられたかと思うのです。そこにも深い悲しみがあったのではないでしょうか。この金持ちが、なお悲しんでいたかどうかは分かりません。むしろ、死刑にされるような男に永遠のいのちを乞うたことを後悔していたかもしれません。

けれども私はさらに、想像の翼を広げてみたいと思う。その日のうちに主イエスは十字架に付けられ殺される。ところが、この金持ちの議員のところにも、妙なうわさが聞こえてくる。どうもあのイエスという死刑囚の遺体を、アリマタヤのヨセフという議員が引き取ったらしい。興味のある方は後で読んでいただければよいと思いますが、ルカによる福音書第23章の最後のところにその記事があり、「ヨセフという議員」という言葉が出てきます。この金持ちの議員の、言わば同僚です。そのヨセフが、何とイエスの葬りを自ら引き受けた。あいつ、何やっているんだろう、と思ったかもしれません。けれども、その数日後、もっと驚くべき知らせが聞こえてくる。そのヨセフの墓が空っぽになった。イエスは甦ったと、その弟子たちが告げ始めている。議員という責任ある職にあったこの男が、その知らせを耳にしなかったとは、むしろ考えにくいと私は思います。そこで何を思ったであろうか。そこで初めて悔い改めて、教会に行って洗礼を受けたのだろうか。しかし、これ以上は想像を広げすぎない方がよいかもしれません。問題は、私ども自身だからです。

キリストの教会は、この主のお甦りによって、その歴史を始めました。死の恐れを取り除いていただいたのです。「人間にはできないことも、神にはできる」。神にしかできないことであったのです、死の恐れを取り除くということは。この慰めのなかで、私どもはやはり、最も深いところで、財産からも家族からも手を放しているべきであると、私は信じています。

この福音書を書いたルカは、その続編として使徒言行録を書きました。キリストのお甦りによって始まった教会の歴史の最初の様子を伝えるものです。まさに神の家族として生き始めました。その人たちが皆、家族を捨て、育児を放棄し、親の面倒を見なくなったなんてことはどこにも書いていない。しかし最も深いところで、解き放たれているのです。互いに持ち物を分かち合い、そのためにその群れの中には貧しい人は一人もいなかったと、使徒言行録ははっきりそう伝えています。そういうことを体験しながらも、弟子たちは、あの主の言葉は本当だったと思ったに違いない。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。たいへん贅沢なことです。死んだ後に、ようやく永遠のいのちが与えられるというだけではないのです。今既に、この地上の生活において、豪華な報いが約束されています。兄弟、姉妹が与えられます。何十倍もの家族が与えられます。貧しい者はいなくなります。教会においてこそ、知る幸いであります。あの主イエスの言葉は本当だったと、そのことを証しするのが使徒言行録であると、私はそう思います。

もとより、私どもはそこで、まだ教会に来ていないような家族を軽んじることはありません。もしまだ教会に来ることを知らない家族がいるならば、私どもはその家族にも告げることができるはずです。「ここに本当の家族がある。永遠の命に支えられた家族がある。あなたもここにいらっしゃい」。

今日はこのあと、教会総会をいたします。ですから今日の説教は短めにしなければならなかったのに、既に予定の時間を過ぎております。けれども最後になおひと言だけ申します。この鎌倉雪ノ下教会は、神の家族、主イエスが約束してくださった、「この世ではその何倍もの報いを受け」るという家族です。主イエスに抱いていただいている、神の子たちの集まりです。そして、この神の家族の、何と言っても最大の特色は、死の恐れを取り除いていただいたということです。そのような家族がここに造られているという事実が、既にどんなに大きな証しになることかと思います。この祝福の事実を神に感謝しつつ、新しい思いでこの教会を神にささげたいと心から願う。お祈りをいたします。

あなたの愛を見えなくしてしまうような、財産、また人間関係を、どうぞあなたの愛のゆえに、喜んで手離すことができますように。偶像から自由にさせてください。ただひたすらに、神を神とする歩みを、この教会が造ることができますように。神よ、この教会をあなたにささげます。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン