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死ぬはずの体をも

2013年11月10日

出エジプト記20章17節
大澤 正芳

主日礼拝

今まで、私の担当の時に共に聞いてまいりました、十戒。この十戒は私たちが幸せに生きるために神が与えてくださった戒めであります。じっくり読めば読むほど、深く考えれば考えるほど、難しい戒めであります。けれども、この戒めに生きることが私たちの幸せとなるように、私たちの喜びとなるように、神は、私たちの人生に介入してくださいます。私たちの歩むべき道をその言葉によって示してくださる神は、イスラエルの人々に対してそうであったように、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記第20章2節)と、まず、戒めに従うことのできる自由を与えたのだと宣言してくださる神であられるからです。

だから、どんなに私たちの生活と、私たちの心が鎖に縛られたようであり、神の戒めを前に、己の弱さゆえに、そのがんじがらめのような状況のゆえに、神の言葉に従いたくても従いえないと、そう思い込んでいるとしても、神は私たちを奴隷の家から導き出してくださったのであり、自由にされた私たちは、喜んでこの健やかな道を生きることができるようになるはずです。九回にわたる十戒の説教において私は、そのことを説いてきたつもりであります。これは神に自由にされた者たちが歩む本当の喜びの道だ。他では決して味わうことのできない本当の喜びの道だ。そう聞いてきたのであります。

しかし、それにもかかわらず、一つ一つの戒めを解き、聞きながら、説教後に「でも、先生、やっぱり厳しい戒めですね。」そういう感想をちょくちょく聞きました。一つ一つの戒めを聞き、心に思い巡らしながら、やはり、これは厳しい言葉だ。とてもじゃないけど、こんな自分には守りきれない。どこかで私たちが、そのように思ってしまっているとしたら、今日与えられました十番目の戒めは、その印象を決定的なものにしてしまうほどに厳しいものであります。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」私たちが礼拝で告白している昔の翻訳では、「汝その隣の家をむさぼるなかれ」と神は語られています。

この言葉は、ある説教者によると、このむさぼるという言葉ですけれども、元々の意味では、「激しく動くもの、空気の激しい動き、湯が激しく沸騰する動き、あるいは地が震えること、煮えたぎること、興奮すること」そういうことを意味する言葉だと言いました。つまり、ただ単純に欲するということではなくて、発作的に、衝動的に湧き起ってくる欲求のことを言っているのです。改革者カルヴァンはこの十番目の戒めが禁じていることを、それだから次のように説明しました。「むさぼり」というのは、「熟考も容認もなしに、心がむなしくよこしまな対象によってただ刺激されくすぐられただけで成り立ち得るものである」と。深く考えもしないし、自分がその心に湧き起ってきた思いに同意するわけでもないけれども、しかし既にそのようなよこしまな思いが湧きおこってきたこと、そのこと自体を問題としているというのです。既に、「姦淫してはならない」と教えられました。既に「盗んではならない」と教えられてきました。隣人の家を欲してはならない。むさぼるな。そういう風に戒める第十番目の言葉はこれらの戒めとも重なる部分があるように思います。

しかし、十番目の戒めでは、こうしようと心に堅く決め、実行に移すことが問題となっているわけではないのです。熟考されることも、実行されることもない。けれども、いくら制御しようとしてもどうしようもなく沸き起こってくる、私たちの心を捕える、私たちの自由にはできない最初の罪の誘惑、衝動、そういうものに光を当てているのです。創世記第3章の堕罪物語においても、同じ言葉が使われています。蛇の誘惑により、エバは、神が食べてはならないと禁じられていたその善悪を知る果実を見ることになるわけですけれども、エバが蛇が指し示す果実を見ると、それが、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創世記第3章6節)とあります。ここで「目を引き付け」と訳された言葉が、実は、この十の戒めにおいて、欲する、むさぼると訳されたのと同じ言葉であります。神が食べることを禁じられたその実を見て、自然とエバは「おいしそうだ」と思った。しかし、それが、すでに、むさぼりの罪なのであります。これは、たいへん厳しい戒めです。私たちの行為の前の衝動を問うている戒めだからです。この第十の戒めこそ、どんなに他の戒めは、守っているように見せかけることができ、他人から正直公正な人間と呼ばれる者であっても、そういう者の内にも、また目を背けることのできない私たち人間共有の根っ子の部分からの腐れがある。そういうことを指摘する戒めであると、改革者ルターは申しました。

日本の法律はここまで厳しくはありません。思想の自由を認めます。何を考えても、別にいい。何を考えても実行に移さなければ罪とはなりません。だから、神の戒めは厳しいと思う。けれども考えてみれば、日本の法律だって、実際に犯罪行為があった後には、それが故意であるのか、過失であるのか、そのことを厳しく問いますし、過失ではなく、わざと他人に危害を加えた者には、相応の償いが求められるのであります。そして、私たち自身の心を顧みてみればよくわかることですが、実際に犯罪行為に走ってしまった人と、私たちは、結局そんなに違わないと思うのです。心に湧き上がった衝動を、実行に移さないのは、私たちが良い人間で、道徳的な人間だからではなくて、むしろその後に待っていることを想像してめんどうくさかったり、怖ろしかったりするだけで、私たちが実際に犯罪に走った人々と比べてましな人間であるとは言えないと思うのです。

そういう私たちの根っ子を明らかにするのが、十番目の戒めです。ですから、これは最後の戒めとして誠にふさわしい戒めです。隣人との正しい関係を形づくるために、語られてきました十戒の後半部でありますが、この最後の戒めはそれらに並列するような戒めであるというよりも、それらを総括するような戒めにみえます。私たちは罪を犯すから、罪人になるのではなくて、そもそも罪人であるから罪を犯すのだということに気付かせてくれる戒めです。

この第十の戒めを重んじる重んじ方は、実は、既に、新約聖書の中でも見られることです。パウロは、ローマの信徒への手紙第7章7節において、神の戒めの代表として、この第十の戒めを思い起こしました。そして、このむさぼりの罪の危険性を同じくパウロはコロサイの信徒への手紙第3章5節で、はっきりと語っています。すなわち、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と、言うのです。私は、十戒の第一の戒めと、第十の戒めが密接不可分、イコールで結ばれるのだと理解するこの新約聖書の言葉を読むと、第一の戒めを説いたルターの印象的な言葉を思い起こします。一体偶像礼拝とは何なのか。それは、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」偶像礼拝とは刻んだ像を拝むことだけではありません。私たちが心を寄せ、心をつなぎ信頼しているもの、そこに究極的な安心を求めようとするもの、究極的な慰めを見出そうとするもの、それが真の神ではないのであれば、それは既に偶像崇拝なのであります。第一の戒めと密接不可分とパウロが語る第十の戒めは、実に私たちがどこに顔を向けているのかということを結局のところは問うている戒めであるということに気付かされます。

なぜ、私たちは隣人のものが欲しくなるのか? なぜ、私たちは隣人をむさぼろうとするのか? それは、そもそも神を見ていないからです。真の飼い主なる神を見ずに、その方が、私たちが生きるに必要なものをすべて備えてくださるのだということを期待もせず、信頼もせずに、世界と隣人を見る時に、自分が持っていないものがやたら目に付くのであります。神を見ずに世界を見るときに、自分が幸せに生きるために必要なものが欠けていると思ってしまうのです。隣人のものを奪って得られる幸せなどないと、神は言われます。しかし、私たちの心は、神ではなく人を見て、いつも人を見ていますから、衝動的に、隣人のものが欲しくなります。人が持っているものを自分のものにできたら、どんなに幸福だろうか、それを持たない自分は不幸だと考えます。しかし、それは、神を見ず、神ならぬものを神とする偶像崇拝に他ならないのです。求めるべきでない所に求めているのです。

私たちの心を本当に満たすことができるのは神のみです。今日共に、読み交わしました詩編第42篇には、「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く」と歌われておりました。聖霊の助けを受けたこの詩編の詩人は知っているのです。私たちの渇きは、ただ神が癒してくださるということを。

また、「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」と歌い始める有名な詩編第19篇は、その第8節以下で、主の律法に言及しながら、それが実に本当に慕わしいものであると語っています。

「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。/主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え./主の戒めは清らかで、目に光を与える。/主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。/金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」

主の定め、主の掟、主の裁き、主の真が、純金にまさって望ましいと、このように神の言葉を、神の律法を慕い求める、この詩人の純金にまさって望ましいと語るその言葉はまさに「欲する」という言葉です。これらの聖書箇所は私たちの衝動が、欲求が、とにかく禁じられているということではなくて、神に向かう正しい衝動、欲求があるということを語っています。衝動の全てが否定されているのではありません。欲求が否定されているのではありません。神は私たちが何も求めず、何も望まず、無感動に悟りを開いて生きよと求めているのではありません。問われているのは、私たちの心の渇望が、正しい方向に向かっているのか、それとも誤った方向に向かっているのかということです。欲求は神が造られたものです。生きるために何かを欲するということは必要です。しかもそれは、私たちが何かを欲して生きているということは、私たちが自分の殻に閉じこもって、一人で完結して生きていくことはできず、私たちが生きるためには、隣人を助け、隣人に助けられながら、補い合って生きて行くほかない、そういうふうに造られているのだ、ということを思い起こさせると共に、しかしそれでも、なお私たちは、隣人を越えて、何かを求める気持ちがあるということは、どうしても神の助けを必要としているものである。そういうことをも暗示することであります。

けれども、私たちが隣人の家を妬み、うらやみ、それを欲しがる時、その欲求が、必然的に隣人を害し、最終的に食いつぶすように働く時、その欲求は、いかに小さな芽生えであっても、既に誤った方向に向いていると、神は指摘されるのです。けれども残念なことに、私たちの歪みは、指摘されただけでは直るものではありません。ローマの信徒への手紙第7章7節でパウロは、むさぼりを指摘されると、ますますむさぼりたくなってしまう私たち人間の現実を鋭く読み解いています。駄目と言われれば言われるほど、そのことをしたくなってしまう私たちです。それゆえパウロは、続けて神の掟を良いものと認め、それを実行したいという思いが私たちの心をとらえる以上に、私たちの心の中には、どうしようもなく、罪と悪を慕い求める強い衝動があるということを告白します。

近代の深層心理学や、哲学が、難しい名前を付けまして人間の心の内側には、人間には制御することのできないリビドーといわれる強い衝動がある。あるいは、決して他人とはうまくやっていけない、自己中心、自己実現の本能、力への意志というものがあると指摘し、発見する前に、あるいは、現代の生物学者が、そもそも生物というものは、遺伝子レベルで、他者の利益ではなくて、自己の利益を求めるものだという恐ろしい学説を提唱するずっと前に、聖書はどうしようもない罪の心が私たちの内に巣食っていることをはっきりと明るみに出すのであります。

私たちが、神の掟に向き合い、それを深く深く聞き、その掟が実に私たちが幸せに生きるために必要な掟であること、自分の利益を求めず、隣人のために尽くすことこそが最も良いことである、そう説得され、納得したとしても、しかし、私たちはそれを選ぶことができません。パウロは同じローマの信徒への手紙第7章で「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と、その葛藤を語っています。私たちキリスト者は、このような人間の現実理解をパウロと共に持ち続けて参りました。神の掟を前にして、それを全部、完全に守ることができるか? と問われる時、私たち生まれながらにねじ曲がり、神と隣人を憎まずにはおれない自分であることを率直に認めざるを得ないと語ってきました。

それゆえ、神の律法は、神の律法を慕い求めることのできない人間にとっては、その悲惨と惨めさをあばき、自らの救いがたさを認めさせるために機能してきたと言えます。あたかも、泥水の中に住むナマズが、いくら、光の世界を憧れ、自分の穴倉から這い出て、陽の光と清浄な空気が満ち溢れる地上に出たいと願っても、その汚水から出てくるならば、暫くのたうちまわった後に、しかしやがては、乾いて死んでしまうように、神の掟にどうしても生きられない自分の本性を見出すのであります。私たちは惨めな存在です。神の戒めが見たくないこの惨めさがあばき出されます。しかし、主なる神は、私たちが滅びに定められた存在であることを、知らせるためだけに、律法を与えられたのではありません。いろいろな聖書箇所をひいて恐縮でありますけれども、ガラテヤの信徒への手紙第3章24節、またローマの信徒への手紙第3章20節。私たちも何度も聞いています。開く必要もないかもしれません。律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係であるとパウロは教えています。

私たちは、神の律法の光に照らし出されることにより、自分は人と比べてましな人間だ。だから自分は良い人間に違いないという誤った判断から目を覚まさせられるのです。私たちは、神の律法によらなければ、何が正しいのかさえ分かりません。自分のことを、甘く見てしまいます。自分の生き方に違和感を覚えていても、だましだまし先延ばしにしてしまうものです。早く健康診断に行けば良いのに、真実を知るのが怖くて、痛みや不調を気のせいにしてしまいたくなるのが私たちであります。それゆえに神の言葉は、鋭い剣となり、私たちの五臓六腑を腑分けいたします。そして、私たちが病の中に安住しないように、私たちが自分ではどうしようもない病にかかっていることを明らかにしてくれます。そのようにして、私たちの悲惨を、み言葉によって自覚させてくださる神さまは、それによって私たちの魂の医者であるイエス・キリストのもとに行くようにと、私たちを促してくださるのです。神の戒めを前に、それを守ることのできない惨めな自分を見つけ、イエス・キリストのもとに逃れるようにと神は促してくださるのです。いや、神はそれ以上のことをしてくださった。罪がもたらす病のために、その致命傷のために、傷つき、倒れ、たった一歩すら神に近づくことのできない私たちのもとに、イエス・キリストが来てくださったのです。

私たちが自分の罪の病を自覚し、主イエスのもとに行ったのではありません。もう動けない私たちのもとにイエス・キリストが来てくださったのです。何の良いことも出来ない私たちのためにイエス・キリストが来てくださったのです。キリストは、私たちが、罪の中に滅んでいくことを良しとされなかったのです。人の心をよくご存知であるこのお方は、私たちのもとに来て、私たちの心の底から湧きあがってくる腐った欲望を生み出す、私たちをがんじがらめに捕えている罪をはっきりと見分けられ、その敵を捕まえ、縛り上げてしまったのです。キリストは激しく戦ってくださいました。ご自身の血を流して戦ってくださいました。私たちの罪の威力はこのお方の命を飲み尽くし、消してしまうほどに、大きなものでありました。けれども、キリストは罪のもたらす死に打ち勝ち、よみがえってくださいました。

私たちは十戒を通して、神を愛し、隣人を愛するようにと神に迫られています。難しい戒めです。神の掟を喜べない私たちの反逆は、神に逆らう私たちの罪が贖われるためには、神の独り子が、十字架で一度死ななければならなかったほどに、とことん根深いものであります。率直に言って神の戒めは、生まれながらの私たちがどんなに力を注ごうとも、行うことが出来るものではありません。出来ません。しかし、神の戒めの実行不可能性を語ったパウロは、惨めな自分を語ったパウロは、今日与えられました新約聖書(ローマの信徒への手紙)第8章11節において、次のようにも語っているのです。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」と。

どうしたら、私たちは十の戒めを、神の戒めを、実に人間が真実に生きるための真っ当なこの道を、心から慕い、現実に生きることができるようになるのでしょうか? ここに答えがあります。すなわち、不可能を可能としてくださる神が、私たちの本性にまでべっとりとこびりついた、神と隣人を愛することのできない自己中心の私たちをして、神を愛し、隣人を愛する者へと造り変えてくださることによるのです。それは、はっきりと知らなければなりませんが、パウロは、キリストの復活に比べられる奇跡なのだと言いました。もう一度強調して言いますが、私たちが、神を愛し、隣人を愛することができるようになるのはキリストの復活と比べられる奇跡なのです。

「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

この奇跡はキリスト者がこの世界に生まれて以来、進行中であります。洗礼を受けて、既に私たちは、罪に死に、イエス・キリストの復活の命に与っています。私たちの命は、既に新しくされた奇跡の命となっています。

復活に比すべきこの奇跡は、心から喜んで神を愛し、隣人を愛することができるようになるというこの奇跡は、私たち一人一人において、現在進行中であります。私たちは、人を憎まないで生きられるようになります。私たちは、私たちを愛してくれなかった親や配偶者を愛することができます。私たちは、盗まれても、盗まずに生きることができます。隣人を妬み、羨む心から自由になれます。そのような奇跡の歩みを歩みます。復活の命に生きます。主なる神が私たちを自由にしてくださったのです。もう、奴隷ではないのです。この中にまだ洗礼を受けていない方がいたら、是非、このような喜ばしい生活に飛び込んできてほしい。私たちと一緒に主イエスがくださる、この復活の命に生きて頂きたい。

確かに今なお、戦いは続いています。私たちは、神を愛し、隣人を愛することに失敗し、時には、後戻りしてしまうようなこともあります。私たちは、十の戒めのうちのどれ一つをとってもそれを完璧に守りきることはできず、生涯にわたって自分の罪を認め続けなければなりません。キリストと赦しと義に目を注ぎ続けます。けれども、勝敗は決しているのです。既に、私たちの戦いは、キリストが戦い、勝利してくださった戦いなのであります。キリストは私たちのもとに来て、私たちの内に来て、私たちの代わりに戦い、勝ってくださったのです。だから、決して負けてしまうことがありません。私たちが罪に押しつぶされて、滅びてしまうことはありません。神は言われます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記第20章2節)私たちは自由になりました。私たちは復活したのであります。どうぞ、このことをしっかりと信じてください。本当に愛すべきものを愛することに死んでいた、この私たちを復活させてくださる神に感謝の祈りを捧げましょう。

主イエス・キリストの父なる神さま、私たちはあなたの言葉を喜べませんでした。どんなにそれが、人間が生きるために必要なまっとうな道だと思っても、あなたが語られる掟を窮屈に思っていました。しかし、今は分かります。イエス・キリストが私たちの内に生きて働いてくださるゆえに、私達が神の掟を喜べるものとなっていることを知ります。どうぞ、生涯、この神の定めを、神の律法を私たちの旅の唄とし続けることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によってお捧げします。アーメン。