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なぜ、姦淫してはならないのか?

2013年7月14日

出エジプト記20章14節
大澤 正芳

主日礼拝

今日与えられました御言葉において、神が私たちに与えて下さる幸せに私たちが生きるために、神が私たちに禁じられる「姦淫」とは、不正な性交渉、不正な肉体関係の事を言うのであります。広辞苑を調べて「姦淫罪」、「姦淫の罪」と調べれば、そこには「強制猥褻罪・強姦罪・淫行勧誘罪などの総称を言う」 という言葉が出てきますが、十戒が「姦淫してはならない」 というときの、不正な性交渉、その第一に念頭に置いているのは、そのような合意の伴わぬ性暴力をさしているのではありません。十戒が禁じているのは、不倫のことであります。結婚している男女が、結婚外で異性と関係を持つことを禁じる戒めであります。

出だしからあからさまな語りかたをして面食らっておられる方がいるかもしれません。私たちは教会に限らず、公の場で性的な事柄について話題にするのを好みません。それは人と話題として共有すべきではない、最もプライベートな事柄だと、そうであるからこのことを公に話すことを嫌う、避ける傾向にある。それと共に、それを特に教会で語ることを忌避するような心があるとするならば、それは、性的な事柄ということが教会にふさわしい聖い話題ではないと、どこかで思っているからかもしれません。けれども、この後半部分に関して言えば、これは明らかに誤った考え方であります。私たちの神さまは、天地創造の神さまであり、私たちの魂だけではなく私たちの体をも造られたたお方でありますから、私たちの性衝動もまた、神さまの創造に由来するものなのであります。創世記が「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と、結婚の基礎となる御言葉を語るとき、それは単に精神的な事柄のみを言っているのではなくて、夫婦となった男女の体をも含めた人間の全存在の一体・一致を語っているのであります。使徒パウロもまたコリントの信徒への手紙Ⅰ第7章5節で夫婦に向かって「互いに相手を拒んではいけません」と語るとき、それは夫婦の性愛について語っているのであります。

聖書は性衝動と性行為を汚れたものと見ているのではなく、神が夫婦に与えられた一体のしるし、神の創造に属するものであると語ります。けれども、この世における性の問題は、確かに私たちが語ることを躊躇し、話題とするのを避けたい、そしてそれを神が造られた聖いものであると感じることのできない痛みを思い起こさせるものでもあります。どんなに性行為に開放的で肯定的な評価を与える人であっても、それが誤って用いられるときにどんな悲惨なことが起こるか、そこでもたらされる破壊がどんなに深刻で恐ろしいものであるのか。そのことを否定することはできないと思います。

神が人間に与えられた良きものを、人間が誤って使用することによって、いかに恐ろしいことが起きてしまうか、そういう人間の罪がもっとも明らかになってくる場所、それが何よりも性の問題であるかもしれません。それゆえに神さまは、私たちがこの問題で躓き、不幸になってしまわないように私たちにルールを与えて下さいました。私たちが神さまが下さる自由から落ちて行ってしまわないように、神さまが与えて下さる防護策、それが第七の戒めである「姦淫してはならない」とのお言葉であります。性交渉は結婚に与えられた神の賜物であります。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」のです。私たち教会に生きる者にとって、このことは心から同意できることだと思います。けれども私たちを取り巻く社会に、この言葉は届き同意を得られることができるでしょうか。現代人の性に関する価値観とは一体どういうものでしょうか。それは、男女の合意の上であれば、結婚外であっても性的関係を持つことは他人の関与すべきことではないと考える風潮があるのではないでしょうか。誰も傷つけず、本人たちが合意していれば、性的欲求を満たすことは不当なことではないと考えているのではないでしょうか。そしてその線上には、契約によって結ばれた夫婦であっても愛が冷えてしまったら、配偶者の間で偽りの生活を続けるよりも、心から愛を分かち合うことができる新しいパートナーを見つけてお互い新しい生活を始めたほうが、ずっと自然ではないかと考えられる節さえあるのではないでしょうか。

私は今放映中の朝の連続ドラマ小説「あまちゃん」が大好きなのでありますが、しかしそこでも主人公の両親が共にそういう価値観で行動しているという姿を見ることになります。愛が冷えてしまって離婚してしまった主人公の両親が、二人とも新たに心動かされる新しいパートナーを見つけようとしている。そこには肉体関係もあることがほのめかされたりするわけでありますが、それはもはや、肯定的にも否定的にも描かれておらず、まるで当たり前の自然のことのようにそういう描かれ方がされている。私は、このことを語ることによって現代の性道徳が地に落ちて嘆かわしいと言いたいのではなくて、そこには、一つの価値観、心の奥底の問題という意味で、私たちとは違った、しかしそれもまた宗教的と言えるほどの信念があるのではないかと思います。それは「心に湧き上がる愛に忠実であれ!!」という価値観であります。けれども、もう一歩踏み込んで尋ねてみたいのです。現代の男女関係において、心に湧き上がる愛の声に忠実であろうとする価値観と生き方、そこには、かなり自由に考えられている合意の上の結婚外の性交渉も含まれ、そしてそれによって、恋愛や自己表現、自己実現の自由を謳歌しているようには見えますが、しかし実は驚くほどの不自由の中にあるのではないかと見えてきます。すなわち、自分の心の満たされない何かを肉体的交わりをも含む異性との関係によって埋めようとはしていないか? 自分のどうにもならない心の空洞を埋めるためになされる行為ではないか? そしてそれは、宗教的な意味すら持つようなそういう価値観ではないか? 真実の愛を求めて、肉体関係も含めた異性との関係を繰り返すのは、自分が孤独である、どうしようもない愛の不在の中に生きている。そのことへの渇き、その渇きを何とか癒そうとする心の叫び、心の傷の表現でしかないのではないだろうかと思われます。

ミッション系の高校の授業とその授業に対する生徒の感想をまとめた『キリガイ』という面白い本がありますが、その本の中で、授業で「性」の問題をテーマとしてとりあげたときの学生の感想を記録している章があり、そこにはハッとさせられる的確な言葉がありました。それは、「性欲を愛のないセックスで満たすのは、喉が渇いたときに海水を飲むようなものであると私は思う」という高校生の感想です。これをある実践神学者のより整った言葉遣いで言い換えれば、「孤独で深い人間関係をしたことがないと、相手の情熱を愛と取り違え、単なる約束を誠実さの証拠と見做したがるようになるかもしれない。」孤独で深い人間関係を経験していないと、簡単に相手の情熱と愛を取り違えてしまう。そして何が起こるのか。「飽くことを知らず、ありとあらゆる肉体的な表現を試み、情欲を燃やす場合もあるが、愛を知ることは絶対にない。」孤独を癒し、紛らわすために、肉体的な関係を異性と持つ。しかし、それは決して孤独を癒すものではない。真実の愛を知ることは絶対にない、と言われるのです。

現代に生きる人々を突き動かす価値観というものが、理想の愛を求めて、理想の愛が得られるまで相手を探し求め続ける。そのためには、肉体関係をすら持っても構わない。しかし、そういう価値観というのは、飲めば飲むほど渇いてしまう海水ではないでしょうか。そのような愛の衝動は、的をはずした人間を不幸せにする愛ではないでしょうか。既に引用しました創世記第2章24節の御言葉「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」ここに、私たちが真に立つべき男女のあり方。そして、神が定められた結婚というものがどういうものかを教える神の言葉があります。神が世界をお造りになったとき造られたたものは極めて良かったと語られています。けれども、皆さんお気づきでしょうか? 一つだけ良くないことがありました。創世記第2章18節で主なる神はおっしゃいました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」そして、主なる神さまは人を深い眠りに落とされ、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げた。そのように続きます。自分の助け手として造られた女を見た男は、こう言うのです。

「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。」

この記述から明らかなことは、人間の孤独を癒すのは、人間の努力ではなく主なる神さまであるということです。人は深い眠りに陥り傷を負わされ、ただ横たわっていただけなのです。神が生涯の愛を分かち合う結婚相手を創造され、結婚を制定して下さったのです。そして、神は結婚を二人が一体になることだ。そのように定めて下さったのです。

男性と女性の違いを語る書物が世には無数に出版されています。少し古い本ですけれども、『話を聞かない男、地図が読めない女』という本が爆発的に売れたことがありました。こういう似たようなタイトルの本は沢山出版されて、それなりに売上を伸ばしています。人間の男女よりも、男性と動物の雄の方が、女性と動物の雌の方が、生物学的に似ているという人もいる位です。男性と女性、それ位違った存在です。けれども聖書はそのような二人が一体となるように造られたと語ります。こんなにも違う存在、違う人格を前にして、「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と、言える関係が結婚において与えられるのだとそのように語るのです。「わたしの骨の骨」である、「わたしの肉の肉」である配偶者との関係において、その全存在の交わりの一つの重要な営みとして、性交渉が与えられているのです。それは神の語られる結婚の定めに含まれる事柄であります。それゆえに、旧約聖書の最初のほうを開いて、父祖の時代がどんなに一夫多妻を当然のこととして見ているように見えたとしても、それは神の言葉を真剣に受け止めることのできない人間の罪の現実を示しているにすぎないのです。聖書に示される神の御心は一夫一妻であり、性交渉もまた夫婦の一体のしるしとしてのみ、排他的に夫婦間に与えられたものなのであります。神が「姦淫してはならない」、そのようにお命じになるとき、それは夫婦の絆を壊してはならないと言うことです。夫婦の一体を引き裂いてはならないと命じられているのです。心も体もその全存在をもって、まるで一人の人のように、結び合わされ生きるようにされた夫婦の関係を引き裂く行為、それが姦淫であります。

十戒のうちで、「殺してはならない」という戒めの直後に、この戒めが置かれているということは、偶然ではありません。結婚外の性交渉は成人の男女間の合意があれば、日本の法律によっては裁かれないかもしれません。だから、この戒めよりも次の「盗むな」という戒めの方が重要な戒めであると思うかもしれません。けれども聖書は結婚を二人の人が一人の人のようになって生きることだと語るゆえに、その関係を引き裂く姦淫は一人の人を引き裂き、殺すようなものであると考えるのです。それゆえ、「殺すな」という基本的な戒めの次に「姦淫するな」と命じられるのです。

キリスト者は結婚を神からの賜物として受け取ります。それは、自分の力と才覚で自由に獲得した報酬ではありません。だから、神が与えて下さった配偶者を裏切る者は、自分を殺し、神を裏切る者なのであります。旧約聖書マラキ書第2章13節以下では、神への愛と配偶者への愛がいかに一体のものであるかが語られています。そこで神は、妻を裏切る者の捧げる捧げ物は見向きもされない。そのように語られます。神の御前で神が与えて下さった生涯の伴侶だと誓いながら、その配偶者を裏切り姦淫する者は、神を信じると口先では言いながら裏切っている。そのような礼拝は、その人の心の内で実はすでに真の神を礼拝する礼拝ではなくなっているというのです。

このマラキ書に限らず、旧約預言書において、神への裏切り行為である偶像礼拝と姦淫の罪は深い関係にあることが語られています。偶像礼拝はしばしば姦淫の罪に譬えられるのです。偶像礼拝と姦淫はとてもよく似ています。愛すべきものを愛さず、頼るべきものに頼らない。そして、偽りの対象に恋い焦がれ、慕い求める。このことが、姦淫であり、偶像礼拝であるからです。自分たちを救うのは主なる神ではなく、エジプトの軍隊、アッシリアの軍隊、あるいは、他の国の神々だ、と神ならぬものに頼るあなたがたは姦淫の罪を犯す者だと神は預言者を通して言われたのです。旧約聖書に預言者ホセアという人物が登場しますが、ホセアは自分の生活をかけてこのことを語った預言者です。姦淫の女を娶り、姦淫の結果生まれてくる子供を受け入れた人です。神はホセアを通して、その民の実情を語ります。

「彼女は言う。
「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油をくれるのは彼らだ。」
それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り
道を見出せないようにする。
彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。
そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。
彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。」(ホセア書第2章7~10節)

偶像礼拝とは、神ならぬ的外れな所に救いを求めていくことに他なりません。そして、それは、結婚のパートナーを放り出して、別の異性と親密な愛情関係を築くことができると勘違いすることに他なりません。そしてこのような姦淫はただ肉体関係によらず、心の内で既に自分のパートナーを諦め、別の異性の内に理想の相手を見出そうとするとき既に、姦淫の状態に一歩を踏み込んでいることになるのです。

主イエスはマタイによる福音書で言われました。

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイによる福音書第5章27節)

先週逗葉集会で、今日の説教の準備を手伝っていただくために、ヨハネによる福音書第8章1節以下を黙想しました。そのときある方が、このマタイに記された主イエスの言葉を引用しながら、男性ならば皆、この罪を一度ならず犯していると正直に語って下さいました。主のお言葉に照らせば、男性は皆姦淫の罪を犯している、そうおっしゃったのです。けれども私は、男性だけではないと、その後思いました。他人の配偶者を羨ましがる。自分の配偶者と他人の配偶者を比べて、もしもこの人が自分の妻であったら、あるいはもしもこの人が自分の夫であったら、今よりも幸せな生活が送れていたのに違いないと心の中で思うならば、それは姦淫の罪の延長線上にあるのではないでしょうか。

単に肉欲を満たそうと言うのが、問題なのではありません。心と体を含めた愛し愛される愛の関係を築くことを、今与えられている夫婦関係以外に求めることが問題なのです。第六戒が私たちと遠い戒めではなかったのと同様に、この第七戒もまた男であろうが女であろうが、自分と遠く離れた戒めではないのです。自分の夫はなんでこういう人じゃないんだろう。自分の妻はどうしてこういう妻じゃないんだろう。他人の配偶者をうらやむことはないでしょうか? 配偶者ではない別の人の方が、もっと自分に理解があり、心を込めて自分と向き合ってくれ、もっと自分を幸せにしてくれるのではなかという幻想をいだくことはないでしょうか? 残念ながら、我々は完成された人格者ではないのであり、自分の配偶者を失望させる以外はないでしょう。それはしかし、相手も同様です。相手もまた完全な人格者ではないので、私たちは失望することになるでしょう。ですから、ある神学者は第七戒を暗示しながら、主イエスの語られた心の、心に犯す姦淫の罪、これを思い巡らしながら、我々が完全な人間ではないゆえに、完全な結婚というのは存在せず、「破れることなしに終わる結婚はない」とはっきりと言いました。

結婚生活が理想とかけ離れていくのは、相手が悪いのではありません。間違った相手を選択してしまったのではありません。我々が罪人だからです。だからいくら理想の相手を探し求め、完全な愛の関係を築こうとしても、満足するはずはないのです。現代人の心をとらえて離さない、「本当のパートナーに出会うまで、自分の思いに正直に誠実に真実の愛を追い求め続けていくことは、悪いことではない。むしろ真実の在り方なのではないか」という生き方は、到底満たされることのない幻なのであります。それゆえ、姦淫の心というのは、結局の所、自分の力に頼っている、自分の力で幸せをつかみうる、選択をやり直せば自分は自分の幸せをつかみ取ることができる、そう思っている罪の心に他ならないのであります。

今日礼拝で聞く新約聖書の言葉として取り上げました、ヨハネによる福音書第8章1節~11節。そこには、心にとどまらず実際に姦淫の罪を犯してしまった女性の姿が描かれています。この聖書の言葉は第七戒を考えるとき、必ず思い浮かんでくる聖書の言葉ではないしょうか。ある女性が、姦淫の現場を捕えられ、律法学者、ファリサイ人に引き渡され、そしてそれらの人々がその女性を主イエスのもとに引きずりだすのです。彼らは主イエスの前にこの人を引きだすと、

「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

と問います。
私は最初この聖書のお言葉を思い巡らしているとき、真ん中に立たされたこの女性は、どんなに恥ずかしい思いをしただろう。どんなに恥ずかしい思いになってそこに立っているだろう。そう、思いました。けれども、皆で黙想する中で、彼女はもっと深い絶望に捕らわれていたのではないかと思うようになりました。ヨハネによる福音書には、この女の夫の姿はどこにも出てきません。けれども、私たちの教会の法律家が、姦通はだいたい配偶者が見つけるものだと、教えて下さいました。カメラもビデオもない時代です。姦通の現場はその配偶者が見つけるのでしょう。だから、姦通の現場を捕え、ファリサイ人や律法学者たちに引き渡したのは常識に従って考えるならば、彼女の夫であった。そして、自分の夫に引き渡されたということは、この世で最も深い愛を育むべきと神が定めて下さった相手から、わたしの配偶者は石で打たれても構わない。もう、死んでもらって構わない。死んで欲しいと、宣告されたことであるのではないでしょうか。健やかなときも、病むときも、愛し合い、敬い合い、慰め合い、助け合い、命の限り、互いに対する忠誠を誓いあった相手に、もう死んで欲しいと思われているのです。最も善いはずの人間関係が最も悪いものになってしまっています。神が定めて下さった関係が破壊されてしまっています。

主イエスは告発する人々と、告発される女性を前に、身を屈め、一生懸命大地に何かを書いておられました。ある教会員は、この主の行為が文脈から浮き上がってしまっている。何でこの姿が記録されたのかわからないと言いました。けれども、まさにここで起きていることはそういうことなのだと思います。神さまは地にある私たちに一生懸命何かを語ろうとされておられます。言葉を語りかけておられる。けれども、罪ある私たちにはそれが聞こえてこないのです。そこには、神の言葉を聴くことができない人間の姿があります。結婚が神によって与えられた賜物であることを忘れてしまっている人間の姿があります。けれども、私たちにわかることが一つあります。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われると、人々は年長のものから始め、年若いものに至るまでみんな去ってしまったのです。

誰が一体自分の配偶者に対して、もう少しこうでいてくれたら良いのに、という思いから自由であるでしょうか。他人の妻、他人の夫を見て、できることならこういう人と結婚したかったと夢想しなかったことがあるでしょうか。しかしそれは既に、結婚の誓いの裏切りでなくて、何でしょうか。「罪のない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この主イエスの言葉を前に、自分の正しさを主張できる人はいなかったのです。主イエスの言葉の前に留まり続けることはできなかったのです。主イエスの言葉から逃げ出し、その場から去ってしまったのです。すべての者が姦淫の罪を犯しているからです。しかし主イエスが来られたのは、実にそのような者たちのためではなかったでしょうか。主は一人残った女にこう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」それは、姦淫を犯す私たちにも語られる主の赦しの宣言です。

主は私たちの罪をご存知です。そして、主だけは結婚を与えて下さった方として、それを台無しにしてしまう私たちに石を投げつけることができる唯一のお方です。けれども主は、私たちの罪を赦して下さいました。私たちに代わって、死の罰を受けて下さり、私たちを赦して下さいました。ですから、罪を犯すとき、私たちは主イエスの元から去る者になるのではなくて、主の元に、だからこそ、留まり続けたいと、そのように願います。姦淫の罪を犯す私たちです。だからこそ、主の元から去ることのないように、そこで、主の元に罪を認め、赦しの言葉をいただきたいと願います。愛すべき者を満足に愛することのできない私たちです。また配偶者から愛されるにふさわしくない私たちです。死んだって構わない。そう思い、思わせてしまう私たちです。しかし、そんな私たちをなお捨てないお方がおられます。私たちを愛して下さるお方がいます。死すべき私たちに代わって、死んで下さるお方がいます。この方に赦された夫として、妻に向き合いたいと思います。この方に愛された妻として、夫に向き合いたいと思います。赦された男性として、赦された女性として、異性に向き合いたいと思います。私たちの心の空洞を埋めて下さるのは、神お一人の他はおられません。私たちは移り気で誤りやすい存在です。そのような私たちの結婚生活を、私たちの人生を、毎日毎秒、それを聖めて下さる神さまのみ手から、受け取り直したいと願います。神の恵みに包まれたお互いに、「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」 と言い合える関係とされることを感謝し、祈りたいと思います。祈りをお捧げいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま、あなたを満足に愛することのできない私たちです。あなたが下さる配偶者を満足に愛することのできない私たちです。あなたが下さる人生を満足に愛することのできない私たちです。しかしそのような者たちを赦し、十字架と復活の命によって聖め、あらためて、あなたへの愛と隣人への愛を受け取り直すことが許された者であることを感謝いたします。どうぞあなたに信頼して、あなたと隣人を愛する冒険へと常に歩み出すことができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン