偽善を捨てるために
ルカによる福音書第11章37-44節
川﨑 公平
主日礼拝
今日は、皆さんのお手元の週報の表紙がいつもと違っていることにお気づきになった方があると思います。いつもは旧約聖書の詩編の言葉を印刷しているところに、今日だけ特別に、ハイデルベルク信仰問答という私どもの教会が大切にしております書物の、その最初の言葉を印刷しておきました。今年2013年になってから、私がいろいろなところで、この信仰問答の話をするようになっていることにお気づきの方もあると思います。なぜ急にハイデルベルク信仰問答なのか。ひとつの理由は単純なことで、1563年にこの信仰問答が作られて、今年はそれから450年の記念の年になります。教会の宝とも言うべきこの信仰問答を、それぞれの教会でももう一度読み直してみたらいかがですか、という親しい先輩牧師の勧めになるほどと思い、たとえば今年度私が担当しているふたつの地区集会でも、それぞれに違ったやり方ですけれども、この信仰問答を読み始めています。ぜひ皆さんにも、読み直していただきたいと思っています。繰り返しますけれども、私どもの教会に与えられた宝であると私は信じております。その全部を読むことがなくても、その最初の言葉だけでも、できれば暗唱するほどに読んでいただければ、それだけで既に皆さんの人生が変わってしまうほどの、力ある言葉だと思います。
週報の表紙に印刷しましたのは、既に絶版となり、本屋さんでは手に入らなくなりました、竹森満佐一先生の訳されたものであります。
問 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。……
これが、ハイデルベルク信仰問答の最初の言葉。そこでこの信仰問答は、私どもの存在の所有権を問うています。あなたは誰のものですか。わたしはもう、わたしのものではない。自分は自分のものだと思っていたけれども、そうではない。わたしは、その体も魂も、生きている間もそれどころか死ぬ時にも、他の誰のものでもない。キリストの所有である。そのことが、何にも代えることのできないわたしの慰めです。そして信仰問答は、その慰めが事実となるために、主イエス・キリストが何をしてくださったかということを語っていくのです。「主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり……」、そう言うのです。そしてこの信仰問答は、129の問いと答えから成り立つ文書ですけれども、この「ただひとつの慰め」という主題に、何度でも帰っていきます。わたしはキリストのもの。たとえば、先ほど唱えました使徒信条について学ぶ時にも、ただ「身体のよみがえり」ということについて何を信じますか、というにとどまらず、この信仰は、どのようにあなたを慰めますかと問うて、それは要するに、わたしが体も魂もキリストのものであるということである、と言うのです。
たとえば、こういうことを考えてくださってもよいと思います。先月、私の前任の教会である松本東教会で、牧師就任式が行われました。この教会からも何人かの方が出かけてくださり、その礼拝にも出席なさいました。鎌倉に帰って来て、私にその松本での教会の礼拝の感想を述べてくださって、ひとつ、複数の方からいただいた感想は、「献金のお祈りがよかった」ということでした。私がその松本の教会におりました時に、教会の人たちと相談しながら、ひとつの決断をした。献金の祈りを、たとえばこの教会では、長老が5分とか、長いときには10分にも及ぶような長い祈りを自由にしていただいていますけれども、その松本の教会では、ある時から、祈りの文章を定めて、それを当番の人に唱えてもらうようにしました。その祈りの言葉は、私が作成したものですが、その祈りを毎週の礼拝で聞き続けながら、自分自身、その祈りに生かされてきたようなところがあります。今でも暗唱しています。
主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです。その恵みに感謝して、いま献身のしるしとして献金をおささげいたします。どうぞわたしたちのすべてをきよめて受けいれ、みこころのままにお用いください。わたしたちはあなたのものです。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
もちろん、鎌倉雪ノ下教会と松本東教会と、礼拝の順序も違いますし、献金の祈りが礼拝の中で担う意味もずいぶん違いますから、この祈りをそのまま鎌倉雪ノ下教会で使うわけにはいきません。けれども、その心はご理解いただけると思います。お聞きになっても分かりますように、ハイデルベルク信仰問答の最初の文章をなぞるように祈りの言葉が作られています。「わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべて、神よ、あなたのものです」。献金とは、献身のしるしであるとよく言われます。われわれはここで、別にお金をささげているのではない。献身している。神さま、わたしをささげます。どうぞお受けください。けれども、献身とは何でしょうか。どれだけ熱心に教会のために働いたら、献身したと言えるのでしょうか。献身とは、私どもの熱心さに左右されるような曖昧なものではありません。私どもの熱心が生まれるよりも何よりも先に、もうわたしの体も魂もイエス・キリストの所有である。改めて献げるまでもなく、事実としてそうだ。その事実に慰められて、その事実を受け入れて生きること。しかしその生き方はやはり違ったものになるでしょう。それが献身です。
礼拝の中でルカによる福音書を読み続け、今日は、その第11章37節以下を読みました。ファリサイ派と呼ばれる人びとに対して、主イエスがずいぶん厳しい批判をなさった。その言葉の一部です。今日は読みませんでしたが、さらに45節以下では、律法の専門家と呼ばれる人たちに対する批判が始まります。それは来週読みます。いずれにしても、厳しい言葉です。けれども私は、この主イエスのいささか厳しい批判の言葉を理解するために、最も適切な道であると信じて、まずこの450年前に書かれた信仰問答の最初の言葉を、皆さんと一緒に読みたいと思いました。ここで批判されているファリサイ派というのは、要するに、ただひとつの慰めを見失っている人たちであった。だからこそ、別の慰めを求めて、そのために主イエスの批判を受けなければならなくなったのです。
このファリサイ派の人びとの問題はどこにあったのか。なぜ主イエスの批判を受けなければならなかったのか。私は今日の説教の題を、「偽善を捨てるために」といたしました。この説教題については少し反省しているところがあって、つまり、今日読んだ聖書の部分には、偽善という言葉はひとつも出てこない。そのことに、先週になって初めて気づきました。しかしこの部分のひとつの主題が、「偽善」と呼び得るものであることは、理解していただけると思います。そんなに難しいことではありません。たとえば39節にこういう言葉がありました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。なるほど、本当にそうです。他人事ではないのです。外面だけきれいに取り繕ってもだめだ。内側は汚れたままではないか。あなたの中身はどうか。心の底まできれいかと、お尋ねになっている。
43節では、「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とも言われます。簡単に言えば、人によく思われたいということです。そのことを、自分の慰めとするということです。けれども腹の中は、「人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。日本にもそういう考え方があると思いますが、当時も、墓を汚れたものと考える考え方がありました。特に当時は火葬をいたしませんで、死んだ肉体をそのまま土葬にいたしましたから、墓の中というのは、どうもわれわれが考える以上に不気味で汚いところだという考え方があったのだと思います。だから、うっかりその上を歩いて、自分の身が汚されないように気をつけたのです。私どもの教会も、立派な教会墓地を持っていて、たまたま昨日もその墓地に集まって、4人の方の納骨のための祈りをいたしました。ご存じの方も多いと思いますけれども、納骨堂の真上に私が立って司式をするわけで、もちろん主イエスはそれをご覧になって、あなたは汚れているね、なんておっしゃったわけではない。ただ、当時の人びとの考え方に乗っかるようにしてお話しになっただけのことであります。外側からでは分からないけれども、内側は汚れている。というよりも、死んでいる。滅びの臭いがしている。そう言われるのです。
こういうことは、こんなに私が丁寧に話さなくても、誰もがよく分かっているのです。なるほど、偽善はよくない。外面だけ繕ってもしょうがない、内側が汚かったらだめだ。けれども、こういう意味において、本当に自由になっている人というのは稀ではないかと思います。よし、今日から偽善はやめようと思い立ってやめられるようなものではありません。
ところで、そういうことを考えておりました時に、40節の言葉はとても興味深い言葉ではないかと、ふと気づきました。「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」。おもしろい言葉ではないでしょうか。「外面だけ取り繕ってもだめだよ、神さまは心の内側までちゃんと見ておられるよ」と、先ほど私が申しましたことは、もしかしたらふさわしくなかったかもしれません。そうではなくて、ここで主イエスがおっしゃったことは、「外側を造られた神は、内側もお造りになった」。あなたの外側も、内側も、神の作品ではないか。そのことに気づけ。この外側、内側という言葉を、たとえば、「わたしの身も魂も」と言い換えることも許されると思います。
なぜ主イエス・キリストというお方が、私どものところに来られたのか。それはひとつの言い方をすれば、神に造られた私どもの外側も内側も、もう一度神のものとして取り返すためです。自分は自分のものだ、わたしはわたしのものだと思っていたところに、主イエスがやって来られて、何とおっしゃるかというと、「違うよ」。あなたの外側も内側も神が造られたもの、神の作品ではないか。あなたはあなた自身の所有物ではない。所有権を持っておられるのは神だ。その慰めに気づけと言われるのであります。
42節には、「十分の一」という言葉が二度でてまいりました。「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが……」。当時の考え方として、収入の十分の一を神にささげた。たとえばお金だけではなくて、農業を営んでいれば、その収穫の十分の一を神にささげるのです。けれどもファリサイ派の人びとは、これを特に厳格に考えて、たとえば自分の庭で、みょうがでもしそでもいいのです、ちょっとした薬味がとれた。それを収穫した。そうしたら、その十分の一をきれいに取り分けて、これは神さまのものと、そこまで神経質になったのだと言われます。この七味唐辛子の十分の一も、神の所有物。この考え方自体は、間違ったことではありません。ほめられるべきことです。しかし問題は、「正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」。
この「正義の実行と神への愛」と訳されている言葉は、もう少し広い理解ができる言葉で、少し言葉の説明を丁寧にするようで恐縮ですけれども、たとえば「正義の実行」と訳されている言葉は、「裁き」と訳されることの方が多いと思います。あなたは「裁き」をないがしろにしている。それから「神への愛」と訳されている言葉も、原文は「神の愛」という言葉で、日本語で「神の愛」と言ったら、それは神さまが誰かを愛してくださることであろうと思います。しかしたとえば英語でも、love of Godと言えば、神さまがわれわれを愛してくださるのか、われわれが神を愛するのか、これは文脈によって決定するほかない。ギリシア語にもそういう事情があります。「神の愛」ととるか、「神への愛」ととるか。その関連で言えば、先の「正義の実行」つまり「裁き」という言葉も、「神がわれわれを裁かれる」ということを考えるのか、その神を恐れつつ、われわれ自身が正義に生きるということを考えるのか、そこでも解釈が分かれます。少々複雑な話をいたしましたが、基本的な意味は明らかだと思います。「あなたがたは、神をおろそかにしているではないか」。私どもファリサイ派にとって大切なことは、神に愛されることよりも、人に愛されることです。私どもファリサイ派にとって神に裁かれるなんていうことは、実はどうでもいいことであって、もっと切実なことがある。それは人に裁かれることです。人に何か言われることです。悪口を言われることです。それに比べれば、神に裁かれるなんてことは、痛くもかゆくもないのです。違うでしょうか。
「あなたにとって、生きる時も死ぬ時も変わることのない慰めは何ですか」。「わたしの慰めは、何と言っても、人に認められることです」。「それでは、あなたにとってつらいことは何ですか」。「わたしにとってつらいことは、やはり、人に悪口を言われることです。理由もなく悪い噂を立てられ、いわれなき差別を受けることです。やっぱりつらいです」。
けれどもハイデルベルク信仰問答は、そのような私どものこころに語りかける。いや、既に主イエスが語りかけてくださる。それはうそだ。あなたの本当の慰めはそこにはない。あなたは、まだ慰められていないではないか。なぜか。神の裁きと、神の愛をおろそかにしてしまっているからだ。「おろそかにしている」という言葉も、今日は言葉の説明をたくさんして恐縮ですが、「通り過ぎる」「傍らを素通りする」というのが基本的な意味です。あなたは神の裁きと神の愛の傍らを素通りして、人の裁きを恐れ、人の歓心を買うことを求めているではないか。それが本当にあなたの慰めですか。
たいへん興味深いことに、これに続く43節で、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」。そこで「好む」と訳されている言葉は、原文を読むと、42節に出てくる「神への愛」の、「愛」と同じ言葉が用いられています。少し聖書の世界に親しむようになると、聖書の中で愛という言葉が出てくる時、特にそれが神の愛、キリストの愛である時、原文のギリシア語では、「アガペー」という言葉であるということを聞き覚えます。しかしここ43節では、そのアガペーという言葉がどう用いられているかというと、「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを」愛している。神の愛を素通りしながら。そう言われるのです。こういうことについて、もうこれ以上言葉を費やす必要もないと思います。皆、身に覚えがあるのです。会社で働いていても、教会で奉仕をしていても、家庭で生きていても、この自分の行為を誰が認めてくれるのか、あるいは誰が自分の悪口を言っているのか。私どもにとって切実なことは、そういうことでしょう。私どもは、つまらないことだと思いながらも、結局、そういうことで疲れ果てるのです。そこに、偽善が生まれます。けれども、偽善者として生き続けることは、やっぱり疲れることです。裏表を使い分けて生きるということは、やっぱり幸せな生き方ではないのです。そこで開き直って、ようし、もう偽善者にはならないぞ、人のことなんか気にしないぞと言ってみても、それが本当の解決になるわけではありません。神の愛を素通りしていることに変わりはないのです。
そのような私どもに、主イエスが語りかけてくださることは、もう一度申します。「あなたの外側も内側も、神に造られたものではないか」。「あなたの体も魂も、神のもの、キリストのものではないか」。その慰めを忘れるな。その慰めの傍らを素通りするな。私どもの慰めそのものであるお方が、そうおっしゃるのです。その意味では、この主イエスのお言葉は、ファリサイ派の人びとにとっても、招きの言葉でしかなかったのだと私は信じます。「あなたもこの慰めを知ってほしい。わたしのもとに来なさい」。だからこそ主イエスは、このファリサイ人のためにも、その食事の招待に応えてくださったのであります。
もともと、今日お読みしました聖書の記事は、主イエスが「ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」。そこから始まっています。けれどもひとつの発端になったことは、「イエスが食事の前にまず身を清められなかった」ということでした。「身を清める」というのは、これは少し解釈の上で議論があって、手を洗うことなのか、それとも本格的に身を清める、いわゆる沐浴をすることなのか、これはちょっとよく分かりません。いずれにしても、これは衛生上の問題ではなくて、宗教上の清めが問題になっている。こういうことは世界中で行われていることで、日本でも神社に行くと、手を洗い、口を漱ぎ、ということをいたします。それと同じことです。それを主イエスはしておられない。なぜか。こういう主イエスのお姿を読みますと、私どもはうっかり、「そうだ、形だけ清めの儀式をして見せても意味はないのだ」と考えます。「主イエスはそういう、ファリサイ派の形式主義を乗り越えてくださったのだ」と考えます。けれどもここで主イエスは、「手なんか洗わなくてもだいじょうぶだ」と言われたのではありません。「あなたの存在そのものが汚れているではないか。外側だけきれいにしても、内側は汚れたままではないか。そのあなたの汚れをどうするつもりか」と言われたのです。しかし、どうすればいいのでしょうか。
主イエスはここで、その私どもの内側の汚れを具体的に説明するように、39節で、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と言われました。「強欲」というのは、そう訳してもよいのかもしれませんけれども、ただ欲しいなあとぼんやり思うだけでなくて、たとえばある翻訳でははっきりと「略奪」「強奪」と訳します。盗みと関係のある言葉です。そのような「悪意」で満ちている。けれどもそういう言葉の説明を聞いても、ぴんとこないかもしれません。あなたは盗みを働いているね、それがあなたの汚れの正体だと言われても、ちょっと身に覚えがない。いやあ、イエスさま、わたしは何も盗んでいませんよ。ファリサイ派の人びとはなおさらピンと来なかったと思います。当時の人びとも、この主イエスの言葉を聞いて誰もが驚いたと思います。ファリサイ派が盗みを働いているって、そんなばかな。誰からも何も盗んでおりません。むしろ、清貧に生きたのがファリサイ派であったと言われます。自分の収入の十分の一を神にささげ、ついでに言えば、貧しい人たちのための施しも熱心にしたのがファリサイ派だったと言われます。われわれ金持ちが恥じ入るような清い貧しさに生きたのがファリサイ派です。けれども主イエスのご覧になるところ、ファリサイ派の心の中は略奪の心でいっぱい。何を盗んでいるのか。誰から盗んだのか。
ある人は簡潔にこう申しました。これは他人事ではない。ファリサイ派は、神さまから神のものを奪い取っている。何を盗んだのか。自分自身だ、というのです。私どもは、本来神のものであった。外側も内側も神に造られたものであった。それなのに、それを神のものにしないで、自分のものにしてしまう。そこにファリサイ派の強欲があり、悪意があり、またそこに、どういう偽善が生まれるかということについては、もうくどくどと説明する必要もないと思います。その盗みの罪、自分を神から盗む罪というのは、言い換えれば、最初に申しましたように、唯一の慰めの傍らを通り過ぎるところに生まれるものでしかないのです。主イエスが私どものところに来られたのは、それを取り返すためでした。そうではない。あなたはわたしのものだ。返しなさい。そこに私どもの生きる時も死ぬ時も決して変わることのない、ただひとつの慰めがあるのです。
あとで報告の時に紹介することになると思いますが、今日はこの礼拝に私の弟と、その家族が出席しています。そこで私が自然と思い出したことがある。以前にも、礼拝の中でお話したことがあることで、繰り返しになりますが、弟が今日ここに来るということを思い出しながら、どうしても話したいと思ったことがありました。私の両親は、結婚して9年たって、ようやく最初の子を得ました。それが私です。自分で言うなと言われそうですが、私が生まれた時、やはり両親は嬉しかったと思います。その私が、ほとんど自然の成り行きで幼児洗礼を受けることになった時に、けれども母はまだ洗礼を受けておりませんでした。そういう時に、私が母よりも先に洗礼を受けた。その時に母は、一種の衝撃を受けたそうです。わが子を神さまに奪われたと思ったそうです。「あっ、公平を神さまに取られた。もうこの子は自分のものではない。神さまのものになっちゃった」。まだ洗礼を受けていなかった母が、そう思ったと言うのです。けれども、その衝撃がただの悲しみに終わらず、むしろそのことに慰められて自分は公平を育てたのだという話を、しかし母は私にしてくれませんでした。私が結婚の準備をしておりました時に、なぜか私の妻にだけその話をした。その話を私も伝え聞いて、少しは感動いたしましたけれども、驚きはしませんでした。ああ、確かに。そう言えば、そういう母親だったな、と思いました。
私が洗礼を受けた翌年だったか、同じ教会で母も洗礼を受けました。「わたしも、もうわたしのものではない。神さまのものだ」。そのことに慰められながら、洗礼を受けたのではないかと思う。私が大人になってから、ふとしたことで気づいたことがあります。実家の本棚に、竹森満佐一先生の翻訳の、ハイデルベルク信仰問答がありました。それが実は、母の洗礼の記念に、教会の牧師がくださったものでした。そこで母が知った慰めもまた、「わたしはわたしのものではない。キリストのものだ」。「わたしの子どもも、わたしの所有ではない。わたしの真実なる救い主、主イエス・キリストのものである」。生きる時も死ぬ時も、体も魂も。その慰めを受け入れさせていただく時に、私どもはもう、自分自身を神から盗まずに生きることができるのです。神の愛の中で解き放たれて、偽善からも解き放たれて、正義の実行と神への愛に生きることができるのであります。どうぞ皆さまおひとりおひとりが、この慰めを真実に皆さまの慰めとすることができますように。この慰めに慰められて、この教会が教会としての歩みを造ることができますように。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、もう一度すべてをあなたにお返しいたします。体も魂も、すべてをあなたにささげます。どうぞお受けください。その慰めに慰められて、私どもの歩みが強欲と貪欲と、また偽善によって作られるものではなく、ただあなたに愛されていることを大事にし、それゆえにまた、隣人を愛する、すこやかな歩みとして整えられますように。そのためにどうぞ、いつも新しく、ただひとつの慰めを聴き続けることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン