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主イエスと共に働こう

2013年4月7日

ルカによる福音書第11章14-28節
川﨑 公平

主日礼拝

一昨日、つまり先週の金曜日ということになりますが、この教会堂を会場にして、少し変わった集会をいたしました。鎌倉市の、一種のカルチャーセンターのようなところだと思いますが、その責任者の方からしばらく前に電話があって、実は三浦綾子さんの『氷点』という作品について学ぶのだけれども、ただ自分たちだけで読むのではなくて、できれば教会を会場としてお借りして、牧師の話を聞きたいと言われました。私もこの話には興味を持ちまして、喜んで引き受けました。一昨日には地階ホールに30人近い人たちが集まって、まず1時間近く私が話し、またそのあとも出席の方たちと語り合いをし、質問に答えたりいたしました。当日確かめたのですが、そのグループの中には、教会に行っている人はひとりもいらっしゃいませんでした。少しでも興味を持っていただければと思いましたけれども、そこは私の腕次第というところで、さあ、いったいどういうことになるか。ひとりでも教会に来てくれればいいな、と思っておりますけれども、少なくとも私自身はとても楽しい時間を過ごしたつもりです。主イエス・キリストの救い、私どもが主イエス・キリストによって救われるとはどういうことか。特に教会に通う気もない人たちに、そういうことを分かってもらうということは、一方ではそんなに簡単ではないとも思いましたけれども、やはり伝道というのは楽しいものだと思いました。

この三浦綾子さんという信仰者の書いた『氷点』という小説は、もう50年近く前に発表されたものです。読む人が読めば、キリスト教会の信仰に裏付けられた物語ということになるのでしょうが、かなり多くの日本人に読まれました。テレビドラマや映画にまでなりましたから、原作を読んだことがなくても、映像では見たことがあるという方も少なくないと思います。決して難解なものではない。私自身も高校生の時にこの小説を読み、このたびこういう機会を与えられ、20年ぶりに読み直すことになったわけです。

ある夫婦、しかもどこからどう見ても幸せそうな、恵まれた夫婦に、3歳の女の子がいた。けれどもこの娘が思いがけず、家の近所の河原で殺されるところから物語は始まる。そこで深刻な問題になったことは、なぜ3歳の女の子がひとりで出歩いたか。母親が、夫ではない別の男に言い寄られていて、しかもそれがまんざらでもなく、娘がちょっと邪魔だったので、「いい子だからお外で遊んでいらっしゃい」と娘を外に追い出したら、その間に事件が起こった。その夫は、娘を殺した犯人も憎いけれども、その時自分の妻が何をしていたかということにも勘付いて、妻のことも赦すことができず、そこで復讐を図ります。すぐに捕まった殺人犯の子ども、けれども既に自殺してしまった殺人犯の子どもが、どうやら孤児院にいるらしい。その子を、妻にはそのことは伏せて、引き取って育てさせるのです。いつか、この子が殺人犯の娘だと知ったら、妻は苦しむであろう、という形で復讐を図るのです。考えてみれば恐ろしい話です。しかも、その心の動きは複雑であって、この夫である人間が何を考えたかというと、どこかで聞き覚えた、「汝の敵を愛せよ」という主イエス・キリストの教えを、ひとつ自分も実行してみようかという思いもそこに重なります。妻への復讐と、愛の実践と、どこがどう重なるのか、ここはちょっと複雑なところですけれども、これは原作を読んでいただくほかはない。そのようにして引き取られた女の子が、陽子と名付けられます。これが主人公です。同じ名前の知り合いが、私の周りに割とたくさんいますので、もしかしたら『氷点』ブームのようなものが影響しているのかなと思いますけれども……。この複雑な、難しい人間関係の中で、結局、すべての人の罪深さが明らかになっていく。そういう物語です。

こういう物語を、たいへん多くの日本人が関心を持って読んだということに、既に私は深い関心を持ちました。一昨日も、そのグループの人たちと語り合いながら、たとえば、皆さんがうなずきながら聞いてくださったひとつのことは、「人間は罪深い」ということです。何となくではあっても分かるのです。一見品行方正に見える人であっても、たとえ法に触れるような悪事を働くようなことがなくても、憎んだり妬んだり、自分の利をむさぼったり、自分の正しさに固執したり。そしてもうひとつ、これはよく分かってもらえたと手ごたえを感じたことは、そういう人間の罪深さのことを、教会はまた〈みじめさ〉と表現してきたのだ、ということです。特にカルヴァンという人にさかのぼるわれわれ改革派教会は、この〈みじめさ〉という表現を大事にしてきたというような、少し難しい話をしましたけれども、皆さん、よくうなずいて聴いてくださったと思う。小説ひとつ読むだけでも、そのことは痛いほどによく分かるのです。なるほど、人間というのは罪深い。そして罪深いということは、みじめということなのだ。それはよく分かる。

たとえば、この『氷点』においてひとつの隠れた主題になっているのが、先ほども申しました、「汝の敵を愛しなさい」という主イエスの教えです。なるほど、罪というのは、敵を愛し得ないことなのだ。この主イエスの教えは、一方では、こんな無茶苦茶な教えがあるかと退けられることもありますけれども、しかし小説一冊読むだけでもすぐに誰もが気づくことは、ああ、自分は敵を愛し得ないから、こんなにみじめなところに落ち込んでしまっているのだ、ということです。こういうことは、おかしな言い方かもしれませんが、牧師である私が予想した以上に多くの人が理解してくれることなのです。

このような、人間の持っている罪のこと、みじめさのことを、教会は〈原罪〉と呼ぶ。人間として生まれた以上、誰もが持っている罪、根源的な罪です。日本人が〈原罪〉という言葉を知るようになったのは、この三浦綾子さんの『氷点』という小説があったからだと言ってもよいと思います。作者自身が、わたしはこの小説で〈原罪〉をテーマにしているのだと明確におっしゃったこともあるのです。〈原罪〉などと言われるとちょっと難しい気がするけれども、何となくであっても分かるのです。人間は罪深い。ある意味では分かる。誰もが分かるのです。

そして、そういう人たちが、今日読みましたような聖書の記事を読んだ時に、これもある意味では分かると思うのです。悪霊に取りつかれている人がいる。そして神の救いとは、この悪霊の支配から解き放たれることである。なるほど、そうかもしれない。悪霊などと言いますと、どうも現代人にはこんなものの言い方は通用しないのではないかと思い込んでしまうふしがあるかもしれませんが、そんなことはない。私どもが、自分自身のことを考えてみても、あるいは新聞を読もうが、小説を読もうが、人間というものが本当に自由に生きているのか、悪霊の力から本当に解き放たれて生きているか、そんなことはないのです。自分でもどうしようもない力に捕えられているのです。この小説の登場人物も、それぞれに、そのことに気づきます。だから、たとえば、陽子を引き取って父親になった人が悩み苦しみながら、ひとつ聖書でも読んでみるか、などと長続きしない決心をしてみたり、教会にでも行ってみようかと、その入り口の前をうろうろしたりする。自分ではどうしようもない力に翻弄されながら、途方に暮れることは、誰もが知っているのです。けれども、本当に解き放たれることはできません。自分の力では。

もう少し『氷点』の話をさせてください。今日読みましたルカによる福音書の説き明かしのことを忘れて、世間話をしているつもりはまったくありませんので、そのつもりでお聞きいただければと思います。この小説の結末ですが、主人公の陽子が、どうももらわれてきた子どもらしい、しかも殺人犯の娘らしいということが、次第に明らかになっていく。人の口には戸が立てられない。遂に陽子本人がそのことを知るに至って、遺書を残して自ら死ぬ決断をします。そして、これは私も最近知ったことですが、三浦綾子さんがこの小説を書いた時、まずこの陽子の遺書の部分から書き始めたそうです。ここにいちばん伝えたいことがあるということでしょう。

この陽子という少女は、ひとつの読み方からすれば、この陽子だけは、他の登場人物とは違って、例外的に、罪のない存在として描かれます。「罪のない」という言葉も、説教の中で用いますとなかなか微妙な問題を含むわけですが、とにかく多くの人がそういう印象を持つと思います。ですから、実際に一昨日、参加者の方からも質問が出たのですが、結局よく分からないのは、なぜこの陽子が自殺したか、ということです。全体的に、とてもわかりやすい小説だと思うけれども、この最後の部分だけはしっくりこない。共感できない。そういう感想がありました。「自分の体には、殺人者の血が流れている」。そのことを知って、生きる力を失ったと、そう陽子に言わせるのですが、だからって、別に死ななくてもいいんじゃないか。そんなに深刻に考えなくても。もちろんそういう立場に自分が立たされたらよく分からないけれども、そこがよくわからない、という感想が多かったと思います。それは言い換えれば、どうもこの小説の書き方からすると、非常に稀な、明るく善良な性格の、悪意というものを知らず、また他人のどんな悪意にも負けないような、陽子という存在の、罪とは何か。陽子の原罪とは何か。そういう問いにもなると思うのです。なぜ陽子が死ななければならないのか。どこからどう見ても一番罪のない存在ではないか。

一昨日の集まりで、私は敢えてこういう言い方をいたしました。三浦綾子さんが見ていた陽子の罪というのは、自分の体に殺人者の血が流れているというようなことではない。そんなこととは次元が違う。もっと根源的な罪が、陽子にはあったのだ。その陽子の存在に巣食う根源的な罪が、自ら死を選ばせたのだ。

この陽子の遺書の中にこういう言葉がある。自分の血に殺人者の血が流れていることを知って、自分の心にも氷点があることに気づいた。これまでどんな悪意にも負けず、明るく生きてきたけれども、やっぱり自分の心にも氷点があったのだ。自分の心は凍えてしまった。生きる力を失った。そう言いながら、「どうか、ゆるしてください」。わたしを赦してほしい。わたしの父を赦してほしい。……そう言うのです。

今、「ゆるし」がほしいのです。……私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。

わたしがほしいのは赦しである。それ以外何もいらない、と言うのです。わたしの罪を、はっきりと「ゆるす」と言ってくれる、権威ある方に出会うことができれば、他に何もいらない。もちろんここで三浦綾子さんは、隠れた形で神を紹介しているのです。どうかあなたも、この権威ある方に出会ってほしい。「あなたの罪を赦す」と権威ある言葉を語ってくださる神が、おられるのだ。あなたの存在を受け入れてくださる方がおられるのだ。その権威ある方の前にどうか立ってほしい。逆に言えば、陽子は遂にそういう存在を見いだすことができず、自ら死を選びます。ただし、この小説には、読者の希望もあったということだと思いますが、続編として『続・氷点』というのがあります。そこではこの陽子が一命をとりとめ、しかも本当は、どうも自分は殺人者の娘ではなかったらしいということを知らされ、なーんだ、そうかそれならと、再び以前の明るさを取り戻すかというとそうではなくて、ますますむなしい思いに取りつかれていく。けれどもその続編の最後のところで、思いがけない仕方で陽子は、まさに権威ある方の存在を信じて、それこそ、生きる力を与えられていきます。「あなたの存在を受け入れてくださる方がおられるのだ。その権威ある方の前にどうか立ってほしい」。どうぞあなたも、神の権威の前に立ってほしい。そうすれば、あなたは生きることができる。

罪とは、たとえばこの小説の主人公の陽子の罪とは、ただどういう悪事を働いたかとか、そういうこととは次元が異なります。罪とは、神を失うことです。わたしのことを、はっきりと「ゆるす」と言ってくださるお方、このわたしを権威をもって受け入れてくださるお方を、見失うこと、それが罪であり、みじめさなのです。このみじめさから解き放たれるために、神の御子イエスが、私どものところに来られたのです。

そして、その主イエスが、今日読みましたルカによる福音書第11章の20節で、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われたのも、同じことです。わたしがここにいるではないか。わたしが、あなたのために今、神のわざを行っているではないか。それをそのまま受け入れればよい。あなたの目の前で、現実になっている神の働きを信じればよい。

それに続く21節、22節の言葉は少し分かりにくかったかもしれません。

強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。

これは面白い言葉で、皆さんはこのたとえの意味が分かりましたでしょうか。ここで主イエスは、ご自分のことを、屋敷を乗っ取る、言ってみれば押し入り強盗のような存在にたとえておられるのです。悪霊の頭、ベルゼブルが武装して、自分の屋敷を守っている。この屋敷というのは、このわたしという人間の心のことです。いや、私ども人間の存在そのもののことです。けれども、もっと強い方、主イエスが襲ってきて、まさにそこに、私どもの自由解放の出来事が起こるのです。

しかし、話はそこで終わらない。新共同訳は24節以下を新しい段落として書いていますけれども、明らかに主イエスの言葉は切れ目なく続いています。

汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出て来たわが家に戻ろう」と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。

先ほど申しましたように、このわたしという人間が、屋敷にたとえられている。一軒の家にたとえられている。この24節以下においては、その家は、少なくとも一度はきれいになったのです。「家は掃除をして、整えられていた」。「整えられていた」という言葉は、以前用いられていた口語訳聖書では、「飾りつけがしてあった」と訳されました。たいへん美しい装いをしていたのです。けれども問題は、その家の主人は誰かということです。そのきれいな心、完璧に整えられた心、誰が見ても善人ではないかというその心こそ、悪霊の住みかとなるのだ、最も悪い罪を犯す心になるのだと、主イエスは言われるのです。

三浦綾子さんというキリスト者が、その小説の中で、これは『氷点』だけに限らないでしょうけれども、ひたすらに問い続けたことがあると思います。それは、「掃除をして、整えられていた」、きれいな、美しい心にこそ、悪霊が宿るということです。そういう困った心の代表は、たとえば、聖書に出てくるファリサイ派と呼ばれる人びとのことを考えればよいと思います。まことに潔癖に、自らを清めた。自分自身の生活を、完璧に整えようとしたのです。けれどもそれは、人を生かす清さとはならず、自分自身を生かす清さともなりませんでした。このルカによる福音書第11章を読んでいきますと、46節にこういう言葉が出てくる。主イエスが、ファリサイ派、律法学者を批判して語られた言葉であります。

あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

『氷点』の続編、『続・氷点』にこういう言葉が出てきます。この続編で、くだんの殺人者の本当の娘が順子という名前で登場し、思いがけず陽子の友達になります。しかも、キリスト者として登場します。この順子が、実は自分が殺人者の娘であるということを知って、たいへんな衝撃を受けますけれども、なお立ち直って、しかもこの順子が陽子の友だちになって、そこでふとしたことで、このキリスト者である順子が、自分の好きな言葉にこういうのがあると言って、陽子に教えるのです。「包帯を巻いてやれないなら他人の傷に触れてはならない」。包帯を巻いてやる気がないなら、他人の傷に触れるな。ファリサイ派というのは、私どもにとって遠い存在ではありません。私どもも直ぐに、きれいな心、整えられた心で、あの人のあそこが悪い、ここが悪いと、包帯を巻いてやる気もないのに他人の傷に触れます。心がきれいであればあるほど、そういう誘惑に会うのです。

けれどもそのような私どものところに、主イエスというお方が来てくださったということは、何を意味するのか。「もっと強い者が襲って来て」、私どものこころの内にさえ、住んでいてくださいます。主イエスを受け入れるために、掃除をし、飾りつけをする必要はありません。汚いままでよいのです。すべてはそこから始まるのです。私どもは、わたしの罪の償いのために、主イエスが十字架につけられ、死んでくださったと信じます。その時に、主イエスが私どもの心の中をごらんになって、よし、なかなかきれいに掃除がしてあるな。合格だ、お前のために死んでやろう、などとおっしゃったことは、一度もないのです。私どもが汚れていたから主イエスは来られたのです。当たり前のことですけれども、その当たり前のことを何度忘れることか。掃除をして整えられたその家に悪霊が戻って来てしまうということを主イエスが語られた時に、問いかけておられることは、そういうことだと思います。主イエスは私どもの心の中に住んでくださる。それをそのままに受け入れればよいのです。

けれども、そこから始まった汚い心が、そのまま汚いままであっていいわけではありません。27節以下には、こういう主イエスの言葉が記されています。

むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。

私どもの心の中に主イエスが住み着いてくださる。それはなお具体的に言えば、神の言葉を聞き、それを守るということです。ただ、ここで「守る」と訳されている言葉については、少し丁寧な考察をした方がよいかもしれません。興味深いことに、新約聖書が書かれたギリシア語でも、日本語でも、この「守る」という言葉には、似たような意味の広がりがあります。つまり、日本語で一口に「守る」と言っても、外敵の攻撃から守る、というだけでなくて、「約束を守る」、「決まりを守る」、そういう時にも「守る」という言葉が用いられます。新約聖書の原文のギリシア語も、そういう意味に取ることが可能です。「神の言葉を聞いて、聞きっぱなしではだめだよ。ちゃんと言いつけは守らないと」。そう読むことも可能でしょう。けれども、今日読んでまいりました、その文脈から考えると、そういう理解だけでは不十分です。神の言葉を聞いて、神の言葉がわたしの心の内に宿る時、なおそれを、しっかりと抱きしめるように守るのです。家を掃除して、どんなにきれいに飾りつけをしても、けれどもそこが空っぽであっては困ります。悪霊が喜んで飛び込んで来る温床にしかなりません。しかし今、私どもは神のみ言葉を聞きます。それを守る。しっかりと、自分の心の中に。わたしイエスが、もうあなたの心の内に住んでいるではないか。それを離すな、と言うのであります。

先ほど既に読みましたが、22節の最後にこういう言葉がありました。「頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。ずいぶん激しい言葉であります。この言葉の背後には、あのイザヤ書第53章があると言われます。主イエスの十字架のみ苦しみを最も鮮やかに預言していると言われるあのイザヤ書第53章、その12節に、こういう言葉があるのです。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

このわたしが主のものとなるために。主の分捕り品となるために。そのために、主イエスの血が流されました。そして、この主のみわざがあるからこそ、このわたしの存在の奥深くに、神の言葉が宿るのです。その神の言葉がどのような言葉であるかを知るときに、私どもはもはや、死を願うこともなくなります。わたしは主の所有とされたのだ。主が喜んでこのわたしを受け入れてくださるのだ。分捕り品として。そう語られた主のお言葉の中に、どんなに深い慰めが込められていることでしょうか。そのことを心から感謝しつつ、なおひとりでも多くの人がこの幸いにあずかれるようにと願います。

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている(23節)。

私どもは主の味方です。主と共に働くのです。神に愛された存在として、神に赦された存在として、あなたも一緒に働こう。この主の呼びかけの中に、どんなに確かな赦しの言葉が込められていることでしょうか。ここに私どものさいわいは極まるのであります。お祈りをいたします。

既に主のものとされ、あなたに受け入れられ、生かされている私どもであることを、心から感謝して、今聖餐の食卓にあずかります。今あなたの前に生かされているという、何ものにも換えがたいこの事実を、私どもも大切に受け入れることができますように。神の言葉を聞き、これをしっかりと握りしめ、守る者とさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン