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誘惑に勝つ道

2013年3月3日

ルカによる福音書第11章4節b
川﨑 公平

主日礼拝

ルカによる福音書に従って、主イエスが教えてくださった祈り、私どもが〈主の祈り〉と呼んでおります祈りの言葉を、この礼拝の中でご一緒に読んでまいりました。今日は、その最後の言葉を読みました。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」というのであります。

主イエスがこの祈りを私どもに教えてくださった時、既に主は、私どもが誘惑に遭いやすい存在であることをよくご存じでありました。私どもを誘惑する力の正体を、よくご存じであったのです。「あなたは誘惑されているね。わたしはよく知っているよ。だから、あなたはこう祈りなさい」。そこで、私どもも祈るのです。「神よ、あなたはよくご存じだと思います。わたしは、誘惑されています。そこから救い出してください」。そのような祈りは、なおどのような深みを持つのでしょうか。

このところしばらくルカによる福音書に従って皆さんと共に主の祈りを学んでまいりまして、私が改めて心に刻みましたことは、主の祈りを学ぶということは、主の祈りを教えてくださる主イエスというお方と出会い直すことだということです。私は、主の祈りを説教しながら、ずっとひとつのことを祈ってきたと言うことができます。それは、皆さんが、それぞれの具体的な生活の中で、もう一度新しい思いで、この主の祈りという祈り慣れた祈りを祈り直してほしいということであります。それは言い換えれば、毎日の生活の中で、この祈りを教えてくださる主イエスと新しく向かい合っていただきたい、ということです。日用の糧を与えてくださいと祈りながら、私どもは、一日一日、私どもを生かしてくださる神の前に立つのです。われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえと祈りながら、私どもは、罪人として神の前に立つ。罪を赦してくださる神に出会い直すのです。

そして今日は、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りについて学ぶ。毎日。毎朝。毎晩。私どもの全生活を神の前にさらけ出すようにして、この祈りにおいて神の前に立つのです。「神よ、わたしは誘惑されています。あなたもよくご存じです。そこから救い出してください」。それはまた、そのようにして、私どもを誘惑する力の前に改めて直面させられるということでもあると思います。しかし、誘惑とは何でしょうか。皆さんは毎日の生活の中で、この祈りをどのように祈っておいででしょうか。

ところで、普段私どもは主の祈りを祈る時、「誘惑」という言葉ではなくて、「われらを〈試み〉にあわせず」と言います。それを新共同訳聖書は「〈誘惑〉に遭わせないで」と訳したのです。もともと新約聖書が書かれた言葉では同じ言葉であったのが、〈試み〉と訳されたり、〈誘惑〉と訳されたり、また別の文脈では〈試練〉と訳されることもあります。試みとか試練とか言いますと、たとえば、神によって試みられ、試練・鍛錬を受けて、そのようにしてわれわれの信仰が鍛えられる、というようなことが考えられるかもしれませんが、新共同訳が「誘惑」と訳したのには、やはりそれなりの理由があり、意味があるわけで、ここははっきりと、「悪の誘惑」である。神からのものではない。だからこそマタイによる福音書が伝える主の祈り、私どもが普段祈る主の祈りにおいては、「われらを試みに遭わせず、〈悪〉より救い出したまえ」と言うのです。悪の誘惑、罪への誘惑です。そして、これは私がくどくどと申し述べるまでもなく、誰にとっても身に覚えのあることです。

ある説教者がこういうことを言っておりました。「誘惑に勝つことは難しい。だからこそ誘惑なのだ。そして、誘惑に遭ったとか、誘惑に負けたとかいうことは、めったなことでは人に言うわけにいかない」。それは確かにそうです。わたしと神さまだけの秘密です。「だから、人の助けを受けることもできない。自分ひとりで戦うほかないのです」。……私は、この言葉を読んだ時、たいへん厳しい思いにさせられました。こういう祈りの戦いを、私は本当の意味でなし得ているであろうかと思ったのです。

新約聖書の終わりの方に、ヤコブの手紙というのがあります。あまり教会の中で親しまれているとは言いにくいかもしれませんが、私は昔からこのヤコブの手紙というものに深い関心を抱いてまいりました。興味深い聖書の言葉だと思っています。このヤコブの手紙の第1章13節以下に、こういう言葉があるのです。

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

先ほど申しましたように、神が人間を誘惑なさるなどということはない。それは、このヤコブの手紙をも典拠として挙げることができると思います。神さまのせいにするな。誰のせいでもない。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」。ただそれだけだ。分かりきったようなことですけれども、それをヤコブの手紙ははっきり言うのです。あなたが自分の欲望に引きずられているだけだ。

そこでです。そこで、私どもがこの主の祈りの最後の祈りをどう祈るか、ということです。難しいことを考える必要はありません。私どもは皆ひとりひとり、「自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」。そして、主の祈りを祈る時に大切なことは、私を誘惑する具体的な内容、具体的な自分の欲望を、具体的に言葉に出して祈ってみることだと、私は思います。たとえばその前の、「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」という祈りにおいても、具体的に、わたしに罪を犯す者のことを、その人の顔と名前を具体的に思い起こすことが大切でしょう。言うまでもなく、これもたいへんな祈りの戦いであります。それと同じように、「神よ、誘惑に遭わせないでください」。「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」。その私どもを誘惑する事柄を、具体的に声に出して祈ってみるのです。もちろん密室の祈りです。絶対に、誰にも聞かれるわけにはいきません。親にも兄弟にも、まして牧師などに話すわけにはいかない。墓場まで持って行かなければならない、けれども自分と神さまだけはよく知っている、私にとっての誘惑を、言葉にして祈ってみるのです。もし許されるならば、黙祷ではなく、きちんと声に出して、音に出して、祈ってみるのです。

物欲。金銭欲。性欲。食欲。名誉欲。自己顕示欲。さまざまな欲望が私どもを惑わします。くどいようですが、誰にも言う必要はありません。わたしと神さまだけの秘密です。それを、具体的に言葉にして祈ってみるのです。神よ、お金の心配がわたしを誘惑します。貯金がいくらあるか気になってしかたありません。神よ、救い出してください。神よ、人にほめられたいという欲望から離れることができません。わたしは、偉くなりたいのです。どうかその誘惑から逃れさせてください。神よ、わたしはいまだに自分の学歴を自慢したがっています。誘惑に遭わせないでください。……実際には、こんなもんじゃないでしょう。もっとどろどろしたものがあると思います。どうでしょうか。声が震えてこないでしょうか。こういうことを言葉にする勇気がないことに気づかないでしょうか。何だか、変な汗が出てこないでしょうか。

もちろん主イエスもまた、そういう私どもの弱さをよくご存じであったに違いないのです。だからこそ、そのような私どもに語りかけるように、主イエスはこの祈りを教えてくださるのです。「わたしはよく知っているよ。あなたは誘惑されているね。誘惑されて、罪を犯してしまっているね。だから、わたしと一緒に祈ろう。『わたしたちを誘惑に遭わせないでください』と」。

今日は少し聖書をあちこち開くようなことになりますが、試み・試練という言葉を聞いた時に、多くの人がまず思い起こすに違いない聖書の言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ第10章の13節だと思います。おそらくかなりの人がよく覚えておいでではないかと思う言葉です。

あなたがたを襲った試練で(これも「誘惑」と訳してもよい言葉です)、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

これは、よく知られている言葉です。神が私どもを試練・誘惑に遭わせるなどということはない。けれども、だからと言って神は私どもの試練について無関心ではおられないのです。もしわれわれが何かの誘惑にかかっていても、きちんとそれに耐えられるよう、そこから逃れる道をちゃんと作っていてくださると言うのです。ありがたい御言葉であります。ところで、この試練と訳されている言葉が、誘惑という意味をも持つということになると、どうでしょうか。もしかしたら、既に神は、いくらでも逃れる道を用意してくださっていたのかもしれないのです。道はちゃんと見えている。ああ、この道を通って逃げればよいのだ。けれども、私どもは、その道を行こうとしなかったのであります。われわれは、やはりどこかで、悪の誘惑にかかりたいのです。

神は、そのような私どもの弱さをよくご存じであるに違いないのです。そうであるならば、ただ逃れの道がある、というだけでは足りないのではないでしょうか。ただ、逃れの道を神が用意してくださる、その道が見えているというだけでは、意味がないのではないでしょうか。きちんとその逃れの道をたどれるようにしてくださらなければ、「神は真実な方です」と言うこともできないのではないかと思うのです。

「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りは、私どもは今、ルカによる福音書の第11章を読んでいるわけですけれども、実はこの福音書において、ここだけに出てくるのではありません。この福音書の終わり近く、第22章の39節以下でも、同じような祈りが主イエスの口を通して教えられています。そこで主イエスは、十字架につけられるために、ユダの手引きによって捕えられる。その直前に、オリーブ山というところで、「いつもの場所」で、「いつものように」祈りをなさいました。けれども、ひとつ、いつもの祈りと違うことがあった。いつもは、主は弟子たちから離れて、ひとりで祈られたのです。けれどもここでは、弟子たちにも一緒に祈るように求められました。第22章の40節と46節と、二度繰り返して「誘惑に陥らないように祈りなさい」と、主ご自身の祈りの前と後と、繰り返してそう言われました。そしてご自身は、石を投げて届くほどの所に離れて、血の滴りのように、汗をぽたぽたと落としながら、苦しみもだえながら、祈られたのです。なぜ主は、この祈りをなさるところで、苦しまれたのでしょうか。何を苦しんでおられるのでしょうか。

主は弟子たちに、「誘惑に陥るな」、そのために祈れと言われました。誘惑とは何でしょうか。居眠りするな、ということでしょうか。まさかそんな浅い読み方をなさる方はいらっしゃらないと思います。毎晩寝る前に、「神よ、わたしはこれから誘惑に負けて眠りますけれども」などと祈る人もいないでしょう。目を覚まして、誘惑に陥らないように祈りなさいというのは、目を覚ましてきちんと見るべきものがある、ということであります。弟子たちに、ご自分の祈りの姿をお見せになろうとしたに違いないのです。

そこに見えてくるのは、まさに、誘惑と戦う神の御子のお姿であります。ある説教者は言いました。それは、あらゆる誘惑の中で、もっともおごそかな誘惑である。ここに、人類すべての誘惑が集中するような、大きな誘惑があり、それと戦う神の御子がおられる。主イエスは、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。父よ、やっぱりいやです、とおっしゃったのです。十字架の苦しみを味わいたくない。自分の願い通りにしたいと、正直におっしゃったのです。そして主イエスにとって、こんなに大きな誘惑はなかったのであります。神よ、やっぱりいやです。この杯を取り退けてください。そう祈られたときに、思わず血の滴りのように、汗がどっと噴き出てきた、主の思いの深みに私どもは気づいているでしょうか。

このあとすぐに、主イエスはユダの手引きによって捕えられる。いつもの祈りの場所に、ユダに引き連れられて、剣や棒を持った群衆がやってきます。今ならまだ逃げられる。そこで主イエスはしかし、ご自身、誘惑と戦われたのです。その姿を、目を覚ましてきちんと見なさいと言われた。目を覚ませば、見えていたはずです。このお方は、なぜこんなに苦しんでおられるのだろうか。なぜこんなに汗を流しておられるのだろうか。何のために。誰のために……。私どもが日々、「われらを試みにあわせず」と祈る時に、目を覚まして見続けていなければならないのは、この主イエスのお姿であります。

誘惑というのは、ただ人間の欲望に負けるとか負けないとか、そういう問題ではないのです。われわれの心が弱いとか強いとか、そういう次元の話ではないのです。神の御心に従うかどうか。神を真実に神とするかしないか、そのための戦いです。私どもを襲うどんな誘惑もそうです。神の御心に従うかどうか。神を神とするのか、それとも人間を神とするのか。自分を神とするのか、自分の欲望を神とするのか。主は、その誘惑と戦われたのです。そのために、十字架を担われたのです。そこに鮮やかに見えてきた神の愛に打たれた私どもも、この祈りの戦いを始めるのです。

私どもも、本当はよく分かっているのです。教会に通っていれば、必ず分かってくるようになるのです。ああ、これは悪いことだな、神のみ心に沿うことではないなと、気づくようになるものです。けれども問題は、そこで私どもがなお、いろいろと屁理屈をこねて、神に従おうとはしないことです。「敵を愛しなさい」と言われているのに、いやしかし、今この場合はこうしなければと屁理屈をこねて、自分のひとりよがりの義を立てることに懸命になるのです。「人を裁くな」と教えられているのに、いやいや、けれどもここはやはり、白黒きっちりしなければといきり立ちながら私どもがする裁きというのは、結局、「自分自身の欲望に引かれ、唆されて」、われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、という主の祈りのこころから遠く離れてしまうのです。まして、神よ、わたしの罪を赦してくださいなどという祈りは、自分にはあてはまらない、悪いのはあいつだ、というところに立ってしまうのです。誘惑に負けっぱなしです。

けれどもそこで、主が求めておられることは、ただひとつです。「目を覚まして、誘惑に陥らないように祈りなさい」。今ここで、苦しみもだえ、血のように汗を流しながら祈っておられる神の御子を見よ。誘惑に陥らないための祈りとは、主イエス・キリストというお方に目を注ぐこととひとつなのであります。人間の一切の罪が、このお方によって完全に担われている。救い取られている。そのお方が、血の滴りのように汗を流して、誘惑と戦っておられる。その誘惑との戦いとは、もう一度申します、ひたすらに、「わたしの願いではなく、御心のままに」という、神を神とするための戦いでしかなかったのであります。その戦いが、どんなに苦しいものか。主イエスにとっても苦しかったのです。その主イエスは私どもの苦しみもまた、よく理解してくださる方です。私どもがどんなに弱い人間か、どんなに誘惑に負けやすい存在であるか、主はよくご存じでいてくださるのです。けれどもだからこそ、一緒に祈ろうと、いや、わたしはもう祈っているよ、と言われるのであります。

ルカによる福音書は、今読みましたオリーブ山の祈りに先立って、こういう記事を伝えています。ルカによる福音書第22章31節以下であります。最後の晩餐を終えて、オリーブ山に向かおうという時に、主イエスは弟子のペテロ(シモン)に告げました。

シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

そのようにおっしゃって、その日のうちに、いや、その夜のうちに、ペトロが三度、主イエスのことを知らないと言うであろうと予告なさったのです。これは、特にこの時のペトロにとって思いがけないことでした。なぜかと言うと、さらにさかのぼって24節以下を読みますと、ちょうどその時、この弟子たちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていたと、福音書は言うのです。これも痛烈な言葉です。今風の言葉で言えば、「痛い」話です。恥ずかしすぎます。「誰が一番偉いか」。のちに弟子たちが、この福音書の記事のもとになるような伝承を語り始めた時に、自分たちがこんな場所でこんな痛い議論をしてしまったということを、それこそ変な汗が出てくるほどの恥ずかしさを覚えながら語ったのではないかと思います。ひと晩のうちに三度、主イエスのことを知らないと言ったペトロを筆頭とする弟子たちが、「誰が一番偉いか」と議論している時、既に主イエスには見えていました。サタンが、小麦のようにペトロをふるいにかけている、その姿が見えていた。ペトロにはもちろん見えていませんでした。そのペトロのために、わたしはもうあなたのために祈った、と言われるのであります。あなたの信仰が無くならないように。

この弟子たちも、あとから振り返って気づいたと思います。誰が一番偉いか、自分は偉いか偉くないか、そういう議論をしていた時にも、どんなに深刻な誘惑の中に引きずり込まれてしまっていたことか。けれどもそのような自分が、主イエスに祈られていたということが分かった時に、自分がどのような誘惑から救われなければならないか。いや、既にどんなに確かな救いの中に救い取られているか、そのことに気付いたに違いないのです。

今、この主イエスと弟子たちの対話の場となった、主の食卓に、私どももあずかります。「わたしは、あなたがたのために祈った」という、主のお言葉がここでも響きます。誰が一番偉いかという誘惑に捕えられてしまっている私どもの姿もまたここで、明らかになってしまうかもしれません。それだけに、新しい思いをもって祈り始めたいと思います。「もう二度と、誘惑に遭わせないでください」。そのために、既に私どもに先立って祈っていてくださるお方の祈りに支えられて、今共に祈りを合わせます。

主イエス・キリストの父なる御神、私どものためにも、主イエスが祈ってくださいました。血のような汗を流しながら、そこでも私どものことを思い起こしてくださったのでしょうか。今その恵みに感謝して、改めてあなたの御前にひざまずく思いで、あなたの恵みの中に飛び込むような思いで、この食卓にあずかります。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン