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神よ、わたしの罪を赦してください

2013年2月24日

ルカによる福音書第11章4節a
川﨑 公平

主日礼拝

「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。主イエスがこのように祈れと教えてくださった〈主の祈り〉の一節であります。既に聖書朗読を聞きながら、そしてそれに続けて、いつものように主の祈りを共に唱えながら、さまざまな思いを呼び起こされていたかもしれません。あなたは何をお考えになりましたかと、ひとりひとりに尋ねたいような思いさえあります。

この主の祈りはもともと、ルカによる福音書の伝えるところによれば、主イエスがあるところで祈っておられた。その祈りの終わるのを待っていたかのように、弟子のひとりが、「わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いをして、教えていただいたものであります。それは言い換えれば、イエスさま、わたしもあなたのように祈りたいのです、ということであったと思います。主よ、いつもあなたは何を祈っていらっしゃるのですか。あなたの祈りを教えてください。もちろん主イエスもまた、自分の祈りは高級すぎて、お前たちには無理だから、もうちょっと簡単なやつを教えてやろう、などとはお考えにならなかったと私は信じます。主の祈りは、その意味で、主イエスの祈りであり、また主イエスに従う、私ども、主の弟子たちの祈りでもあるのです。

そこで教えられた祈りが、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。もちろんこういう誤解をなさる人はいらっしゃらないと思いますけれども、主イエスにも赦されなければならない罪があったという意味ではありません。私どもの罪のために、その赦しのために主イエスは祈っておられたでしょう。ちょうど私どもに日ごとの糧が必要であり、それが与えられるようにと主が私どものために祈ってくださったように、父よ、この人たちの罪を赦してくださいと主イエスはいつも祈っておられた。その主の祈りのお姿がここで明らかになったと言うべきであります。ああ、そうか、イエスさまはいつも何を祈っているのかと思っていたけれども、こんなことを祈っていたのか。わたしの罪のために……。

特にルカによる福音書は、第23章34節において、このような十字架の上での主イエスの祈りを伝えております。主イエスが十字架の上で、その周りで人びとがののしり嘲るところで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。今日は皆さんに、今年の受難週祈祷会の案内をお配りしました。今年も3月の終わり、受難週の間に、牧師ではなくて、主として教会の方たちに聖書を説いていただきます。それをご覧になれば分かりますように、そこでもこの主イエスの祈りに耳を傾けることになります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。そこで気づかされることは、主イエスはこの時初めてそう祈られたのではなくて、主イエスがいつも祈っていた祈りが、改めて十字架の上で明らかになったと言うべきです。

そして主イエスは、ここで言われるのです。あなたも、神に祈りなさい。「神よ、わたしの罪を赦してください。そしてわたしに罪を犯す者を、わたしが赦すことができるように」と。

この祈りは、主の祈りの中で、ある意味では、最も深くわれわれの心を捕えるものだと思います。なぜかと言うと、明らかにひとつの理由は、ただ、わたしたちの罪を赦してくださいと言っているだけではなくて、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。これは説明抜きに、いろんなことを考えさせられる言葉だと思います。

皆さんは、どのような時に主の祈りを祈られるでしょうか。たとえば夜、ひとりで祈る時に、一日の歩みを終えて床に就く時に、そこでその一日にあったことを思い出します。そこで思い出す私どもの生活というのは、要するに、他者と共に生きる生活であると言ってよいと思います。その他者との出会い、触れ合いによって造られる生活は、喜びになっていることもありますけれども、悲しみを生む場合もあります。今日のこと、昨日のこと、おとといのこと……そのように祈りの生活を重ねながら、日曜日がやって来ます。そこで改めて主の祈りを祈ります。これまでの一週間のことを思い出しながら、そこで何を祈るか。主イエスはまたあるところで、神に礼拝を献げる時、もしまだ仲直りしていない人のことを思い出したなら、その礼拝の場所を立ち去り、その人と仲直りをして来なさい。それから礼拝の場所に戻りなさいと言われました。けれども私どもの多くは、そうすることができないままにここに集まっております。自分が傷つけてしまった人のこと、自分を傷つけた人、そのためにまだ赦すことができていない人、まだわたしのことを赦してくれていない人のことを思い起こします。そうすると、胸が痛くなります。脈拍が速くなってきます。人によっては、変な汗が出て来たり、胃が痛くなってしまうかもしれません。罪というのは、そのように、生々しいものです。そして主イエスはもちろん、こういうところに現われてくる私どもの弱さをよくご存知であったのです。よく知ってくださっているからこそ、「祈るときには、こう言いなさい」と、この祈りを教えてくださったのです。

私どもがこういう祈りを祈る時に、そこに生まれるひとつの心の動きはこういうものかもしれません。「わたしたちの罪を赦してください」。それはまあ、よいとして。「わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから」。そんなことは、実際にはできっこないと思い込んでいないでしょうか。開き直っていないでしょうか。そしてもしかしたら、信仰を持っている人間の方が、なおさら開き直るということさえあるのではないかと私は思っています。ルカによる福音書ははっきりと、「赦しますから」と言います。「わたしたちも赦しますから、だから神よ、わたしを赦してください」。いやいや、自分が誰かを赦すことが神に赦される条件になるなんて、それは教理的におかしいなどと言い始めかねません。

こういうことを考えてみてくださるとよいと思います。ここには、ふたつの祈りが並んでいます。「神よ、わたしたちの罪を赦してください」という祈りと、もうひとつ、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という、約束の祈りであります。このふたつの祈りを比べてみて、どちらが難しいとお考えになりますか。どちらが易しい祈りだとお考えになるでしょうか。ひとつの考え方としては、これは明らかに、どう考えても、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく」という祈りの方が断然難しい。人を赦すということ、こんなに難しいことはない。こんなに大きな痛みを伴うことはない。なるほどそうかもしれません。けれども私は、これは特に自分が牧師になってから気づいたことですけれども、ことはそれほど単純ではないと思っています。

少し具体的に考えてみるとよいと思います。確かに人を赦すこと、このわたしに罪を犯した人のことを赦すということは、難しいことです。痛みを負うことです。自分が痛くない範囲でなら赦しますよ、というのは、赦しでも何でもないのです。赦すことは、痛いことです。そういう痛みを抱えた人、心に傷を負った人が、私のような牧師のところに相談に来たとします。ゆっくりその人の話を聞いて、共にみ言葉を読みながら、やっぱりそれでもあの人を赦そう、そういう思いに導かれます。皆さんも実はよくご存じだと思うのです。赦せない悲しみ、愛せない悲しみというのは、本当に重たいものなのです。それでは、どうすればいいのか。復讐すれば気が済むのか。そんなことはない、復讐してもかえって重荷は増すだけです。それなら、どうすればいいのか……赦すのです。それ以外に、本当に重荷から解き放たれる道はない。そのことに気づきます。「先生、そうですよね。やっぱり、赦す以外、道はないですよね」。そうして牧師との面談が終わる。もちろん最後に、牧師がその人のために祈ってあげます。問題は、そこで何を祈るかということです。「神さま、この人とゆっくり語り合うことができたことを感謝いたします。神さまどうか、わたしたちの罪を赦してください。アーメン」。……ちょっと複雑な思いが生まれるかもしれません。素直にアーメンと言ってもらえないかもしれません。いやいやいやいや。先生、ちょっと待ってください。わたしの話、聞いていましたよね? 赦してもらわないといけないのは、わたしではないでしょう? わたしを傷つけたあの人の罪を赦してくださいと祈るべきでしょう? わたしは悪くはありません。……そこで最初の問いに戻るのです。「神よ、わたしの罪を赦してください」。簡単な祈りでしょうか。皆さんは、こういう祈りをたやすくしておられるでしょうか。

私どもは、ひとを赦す時に生まれる痛みを、よく知っています。主イエスも知ってくださっています。だからこそ、こういう祈りを教えてくださったのです。「神よ、どうしてもあの人を赦さなければなりませんか」。「つらいけど……分かりました。神さまがそうおっしゃるなら、あの人のことを赦します」。よし、そうしよう。頑張ろう。そういう祈りが切実になればなるほど、なぜか、どういうわけか、「神よ、わたしの罪を赦してください」という祈りが、どうも切実なものにならないということが起こらないでしょうか。まして、どうしても人の罪を赦すことができず、あの人の犯した過ちに関しては、とにかく何としてでも、何らかの責任をとってもらわなければと思う時に、「神よ、わたしの罪を赦してください」と祈れなくなっている自分に気づくことはないでしょうか。

正しい人間である自分が、なお大きな愛と、大きな忍耐をもって、罪を犯した人間を赦してやるのではないのです。それは、主の祈りのこころからはかけ離れています。このわたしが、罪を赦していただくのです。

主イエスが主の祈りを教えてくださった時、既に主は気づいておられたと思います。「神よ、わたしたちの罪を赦してください」という祈りはどうもピンと来ないくせに、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく」という祈りになると、痛いほどにピンと来てしまう、ちょっとアンバランスな、私どものわがままな心に、主は気づいておいでだったと思います。そこに既に、私どもの問題が見えてまいります。

神学校で祈りの授業を受けたことがありました。その時ひとつ教えられたことは、自分の自然な心の動きに従って祈るのではなくて、教会の伝統から祈りを教わることが大切だということでした。言うまでもなくその代表的なものは旧約聖書の詩編でしょう。その時に聞き覚えた祈りの中に、ドイツの讃美歌集などに必ず載っているものですけれども、多くの家庭で祈られる食前の祈りがありました。「主よ、無くてならないものがふたつあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日ごとのパンと、罪の赦しを」。言うまでもなく、主の祈りに基づく祈りであります。主の祈りにおいて、日ごとの糧を求める祈りに続けて、罪の赦しを求める。そこにある祈りのこころは、主よ、日ごとの糧がなければわたしは生きることができません、それと同じように、罪の赦しがなければ、わたしたちは生きることができないのです、ということでもあると思います。日ごとの糧も、罪の赦しも、生活必需品なのです。日用の糧という非常に生活的な祈りをした後に、宗教的な、高級な、精神的な話が始まったというのではなくて、「無くてならないもの」なのです。赦しに生きるということは、言い換えれば神と共に生きる、そして人と共に生きるということでしょう。これを欠いては、われわれ人間としての生活が成り立たない。そして主イエスが私どもの生活をよくご覧になるところ、私どもにとって一番必要なことが、神に赦していただくことであり、私どもが赦し合うことであったのです。

このルカによる福音書は、その第15章に、放蕩息子のたとえ、失われた息子のたとえと呼ばれる主イエスの言葉を伝えています。ルカによる福音書だけが伝えてくれている記事です。ある人にふたりの息子があった。兄と弟。その弟のほうが父親の財産を分けてもらって、それを全部金に換えて遠くの国へ出かけ、贅沢三昧に暮らし、けれどもやがてその地方を飢饉が襲い、飢え死にしそうになって父の家に帰ろうと決心する物語であります。私はこのたとえ話を読む時に、果たして聞いている人たちに分かったかな、と思うことがあります。もともとこのたとえは、主イエスが「罪人」と呼ばれていた徴税人のような人たちと一緒に食事をしていた時に、その様子を見ていたファリサイ派の人びとや律法学者たちが、「この人たちは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と文句を言ったところに語られたものです。主イエスが、自分はここで何をしているのかということを弁明なさった言葉であります。一緒に食事をしていた徴税人と呼ばれる人たちも、そこで何が起こっているのか、よく分かっていなかったと思います。そこで主イエスが、もし百匹の羊を持っている人がいて、一匹の羊がいなくなったら、見つかるまで探し続けるであろう、と語り始められた時に、ああ、これは自分のことだと果たして徴税人たちは分かったでしょうか。放蕩の限りを尽くした弟が家に帰る決心をして、「父よ、わたしは罪を犯しました。天に対しても、あなたに対しても。もう息子と呼ばれる資格はありません」という言葉を聞きながら、その弟にまさになぞらえられている徴税人たちは、果たして自分たちのことが語られていると理解しただろうかと思います。

もうひとつ、私が思いますことは、もともとこのたとえを聞かされている、ファリサイ派、律法学者と呼ばれる人たち、そのたとえの中では兄にたとえられている人たちのことであります。この放蕩息子のたとえには続きがある。兄が出て来る。その日もまじめに畑仕事をしていた兄が家に帰って来た。ところが家の中から宴会の音楽が聞こえてくる。いったい何事かと思って召使に聞くと、弟さまが帰って来て、お父上がそれを喜んで迎えて宴会を開いていると言う。そこで「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」(第15章28節)と言うのです。こういう言葉を、主イエスはもちろん、律法学者たちの顔をしっかりと見据えて、お語りになったと思うのです。「あなたがたは怒っているね。わたしの家に入る気がないね」。あなたがたの怒りはよく分かる、とさえ読むことができる言葉です。ファリサイ派の人たちは、よく分かったと思うのです。主イエスの言葉を聞きながら、どんどん顔が険しくなっていったに違いないのです。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」。明らかに、ここで主イエスはなだめておられる。それに対して、兄はどういう反応を示したのだろうか。

私が以前、鎌倉に来る前に松本の教会におりました時に、教会学校の夏期学校に行った先でこの主イエスのたとえ話について、男の子たちと一緒に劇をしたことがありました。だんだん大きくなって、こっちの言うことを聞かなくなってきたような年頃の男の子たちを集めて、この放蕩息子の劇をしようと考えた。まあ分かりやすい物語であるから、前の日にちょこちょこっと台本を書けばいいだろうと思っておりましたけれども、思いがけないところでつまづきました。兄が怒って、家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。怒ることなどないではないか。わたしはお前と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。その父親の言葉で主イエスのたとえは終わっています。けれどもそれで終わるはずはない。なだめられた兄はどうしたのだろうか。どんな答えをしたのだろうか。どんな表情をしたのだろうか。この先は、主イエスはどうもお語りになっていない。それは明らかに、主イエスがこの場所で、返事を待っておられるからだと思います。答えてほしい。ファリサイ派の人の目を見ながら、そうおっしゃったのだと思います。けれども、父親の言葉を兄がぼんやり聞いているだけというのは、どうも寸劇としてしまりが悪い。そこで私は、それを聞いた兄息子が父親を殴り倒すというようなことも考えましたけれども、小さい子どももいるし、あまり心の傷になるような劇はしたくないとも思いました。私は迷った末、「あんなやつ、弟じゃねえよ」と捨て台詞を吐き、なるべく大きな音で扉をバタンと閉めて出て行くというようにいたしました。われながらよくできていると思うのですが、いかがでしょうか。

福音書を最後まで読めば、兄の答えが明らかになります。この神の愛に納得できず、憤りを抱いた人びとが、神の愛を殺したのです。そこに主イエスの十字架が立ちました。

そこで、兄にとって一番難しかったことは、弟を赦すことであるにとどまらず、「神よ、わたしの罪を赦してください」と祈ることではなかったか。そこに十字架が立ったのです。けれども、まさにそこで主イエスは祈ってくださいました。「父よ、彼らの罪を赦してください」。ここに主の祈りは極まる。そして神の愛もここに極まるのです。

私どもも、この神の愛を見失う時に、互いに赦し合うことができなくなります。主イエスは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」、そう祈るよう教えられました。けれども、こんなに難しいことはないと思い込んでいます。ファリサイ派の人たちにも、同情すべき点はたくさんあったのです。実際に、徴税人の被害に遭っていたのです。財産を不当に奪われていたのです。徴税人たちは、そうして私腹を肥やし、おそらく放蕩息子のたとえで描かれているような汚い格好ではなく、最初からぜいたくな服を着ていたと思います。なぜこの人たちを赦さなければならないか。弟として受け入れなければならないか。けれどもそのような思いに誘われる時に、「神よ、わたしの罪を赦してください」という祈りをも捨ててしまうのです。私どもにとって、他人事でしょうか。けれどもその時、私どもはもう一度主イエスを十字架につけ直すようなことをしているということに気づくべきです。けれども、そこでなお深く気づくのは、そこでなお、私どもの罪の赦しのために祈っていてくださる主イエスのお姿です。このお方の祈りによって、私どもの祈りは、支えられているのです。

主イエスが「赦しなさい」と言われた時、「大したことないじゃないか、大目に見てやりなさい」ということを意味したのではないことは明らかです。罪を赦すということは、やはりつらいことです。痛みを伴うことです。私どもの罪は、他者に痛みを与えずにはいないのです。主イエスも、そのような私どもの痛みをよく知っておられます。誰かに傷つけられた時、誰かの罪のために私どもが傷を負う時、その傷の深さ、つらさをイエスさまはよく知っておられます。そのことを、忘れないでいただきたい。その主イエスが、けれども、このわたし罪のために痛みを負ってくださったことを、なお深く思い起こすべきであります。

夜ひとりで祈る時、いろんな人のことを思い起こす時、けれどもそこでもうひとりの方の事を思い起こしていただきたい。この祈りを教えてくだったお方、主イエスというお方のことを。そこでもう一度、私どもの祈りが立ち上がるのだと思います。ルカによる福音書もはっきりと伝えておりますように、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。罪とは何か。「負い目」であると言うのです。わたしはあの人に貸しがある、ということです。償ってもらわなければいけない。そのようなところで傷ついている私どもの心を、主イエスもまたよくご存じでした。わたしはあの人に傷つけられたというようなことを、私どもは一生忘れないものです。歳をとってすっかり認知症になってしまって、けれども最後に残った口癖が、「主に感謝、主に感謝」というものであったというご婦人を知っています。私が以前おりました教会で、私の手で葬儀をした方です。そのおばあちゃんに会うと必ず聞かされる話があった。自分が昔、姑にどんなにひどいことをされたか。「主に感謝」という口癖だけが残った人の、最後まで残る記憶が、そういうものなのだと思う時、何とも言えない思いになります。しかし、これはどうしようもないことです。そのように途方に暮れる思いを、皆さんも知っておられると思います。

けれども私どもは他の誰の前でもない、神の前で途方に暮れるのです。主の十字架の前に立ちながら、ああ、わたしはこれほどのことをしたのだ、取り返しのつかないことをしたのだと。けれどもその十字架の上から声が聞こえる。「神よ、彼らの罪を赦してください」と。ここにしか解決の道はないと、思いを定めてくださった主イエスの祈りであります。ここに私どもを生かす、無くてならないものが教えられているということに今、もう一度新たな思いで気付きたいと思います。

この礼拝の後、教会総会を開きます。さまざまな討論を行います。そのような時に、われわれは神に罪を赦していただいてここに立っているのだということを、ひと時も忘れないようにしたいと思います。そこにこそ、また、私どもが担うべき伝道の言葉も新しく与えられると信じます。罪を赦された者として歩む教会の歩みでありますように。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、もう一度新たな思いをもって、罪の赦しを求めさせてください。私たちも互いに赦し合うことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン