一瞬、一瞬、神に生かしていただいて
ルカによる福音書第11章3節
川﨑 公平
主日礼拝
ルカによる福音書第11章3節を読みました。本当はもう少し前から読んだ方がよかったかもしれません。主イエスが弟子たちの求めに答えて、「祈るときには、こう言いなさい」と教えてくださった、私どもが〈主の祈り〉と呼び習わしている祈りの一部であります。「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」。ルカによる福音書、その新共同訳聖書の言葉で言えば、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。ここから主の祈りの後半の部分が始まると理解することができます。
ある人がこういうことを言ったそうです。主の祈りを祈りながら、ここに来ると少しほっとすると。つまり、それまでの「御名を崇めさせたまえ」とか、「御国を来らせたまえ」とか、これらの祈りはやっぱり自分から遠い。先々週、その祈りの言葉を説く説教を聴いたけれども、それでもやっぱり遠い。どうも自分のほんねの祈りにならない。けれどもここに至って、ようやく自分の祈りとして祈りやすい祈りが出てきた、ということであると思います。なるほどそういう感想もあり得ると思います。
けれども、別の感想もあると思います。誰もがこの祈りを本気で祈るでしょうか。日用の糧、日ごとの食事、それを、神よ、あなたが与えてください。他の誰が与えるのでもありません、神よ、あなたが与えてくださるのです。久しぶりに腕によりをかけて食事を作ったという時に、神よ、この食事をあなたがくださるのですと祈りながら、どこか白けた思いが生まれないでしょうか。あるいは逆に急ぎの時に、コンビニでおにぎりか何かを買ってほおばりながら、神さま、日ごとの糧を与えてくださいという祈りが、切実なものになるでしょうか。こういうことを考えてくださってもいいのです。皆さんの中にもそういう方がたくさんいらっしゃると思いますが、自分は信仰を持っているけれども、夫はまだ自分の信仰に理解を示そうとはしない。その夫と一緒に食事をするという時に、やっぱり食前の祈りはしたいと言って、夫もそれをしぶしぶ認めてくれて……「神さま、この食事を与えてくださってありがとうございます」。もしご主人の前でそういう祈りを声に出す機会があったとしたら、「おい。ちょっと待て」ということになるかもしれません。「俺が稼いで、お前に食わせてやっているんだ、いったいその祈りは何だ」と、そういうことになるのではないかと思いますし、信仰のない人に限ったことではないと思うのです。自分は信仰を持っていると思っている私どもが、どこかでそういうことを考えているものだと思います。別に神さまのお世話になったわけではない。この食べ物は、自分で得たのだ。もう少し別のことは神さまのお世話にならなければだめだろうけれども、ごはんのことまで神さまのお世話にならなくても……。たとえばそういうところに、私どものほとんど無意識の思いが表われてくると思います。神さまなんかいなくても何とかなるという思いです。
けれども私は、大切なことは、私どもがこの祈りについてどういう感想を持つか、ということではないと思います。そうではなくて、主イエスがどのような思いでこの祈りを教えてくださったか。その主の思いはいかなるものであったかということを、私どもはよく考えてみる必要があると思います。もともと、「わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子の求めから、この対話が始まりました。そして主イエスがこの祈りを弟子たちに教えてくださった時に、主は弟子たちひとりひとりの顔を見ながら、親が子に語りかけるように、この祈りを教えてくださったと思うのです。「われらの日用の糧をどうぞ与えてください」。あなたがたは、そう祈りなさい。あなたがたの父である神さまは、日々必要なものを、あなたに与える用意があるんだよ。あなたを生かしているのは父なる神なのだと、そう教えてくださった主の思いを察する時に、この主の祈りの言葉は、私どもの神に向かう願いというよりは、むしろ神からの私どもへの語りかけとして読まなければ、この祈りの意味を正しく読み取ることはできないのではないかと思います。
第11章9節以下では、こうも言われました。「求めなさい。そうすれば与えられる」。わたしに、求めなさい。神に、求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい……。しばらく前の説教でも申しました。そのようにして、実は神が私どもを求めておられるのです。日用の糧、必要なものは全部自分で得る、あるいは誰かに得てもらう、そう思い込んでいる私どもの心に食い込んでくるような主イエスの語りかけであります。何を食べようか、何を飲もうか、自分の命のことで思い煩っている私どもの心に、主の語りかけが飛び込んでまいります。私どもは主の祈りを祈る時に、「わたしに求めなさい、わたしが与える」と語りかけてくださるお方の前に立つのです。毎日! ここにこの祈りを祈り得る私どもの幸せがあると思います。
主の祈りはマタイによる福音書とルカによる福音書と、ふたつの福音書が伝えておりますけれども、特にこのルカによる福音書が、主の祈りを記しました時に、すぐに思い起こしていたに違いないのは、この次の章、第12章13節以下の、新共同訳聖書が「『愚かな金持ち』のたとえ」と小見出しをつけている主のみ言葉であります。なぜ「愚か」と言われているかというと、20節ではっきりと、神がひとりの金持ちに対して、「愚かな者よ」と語りかけておられるからです。神さまに、お前は愚かだと言われるほど厳しいことはないと思います。なぜそう言われなければならなかったか。この主イエスの語られたたとえ話の筋は非常に単純であります。たとえそのものは16節から始まりますので、そこから読んでみます。
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした」。
……いや~、困った、困った。こんなすごい財産ができてしまって、しまっておく場所もないぞ。どうしよう、とか言いながら、嬉しくて、ついニヤニヤしてしまう彼の顔が目に浮かびます。そうだ、こうしよう。今ある倉庫を壊して、もっとでかいやつを作ってやるのだ。そこに穀物や財産をみなしまい、……そして、19節。
「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。
ところが予想もしないところから声が聞こえてきます。誰の声でしょうか。神の声です。「愚かな者よ」。「お前は馬鹿だ」。なぜか。「今夜、お前は死ぬ。お前の蓄えた財産は、いったい誰のものになるのか」。これは、とてもよく分かるような、けれども何だかよく分からないような、とにかく強烈な言葉だと思います。
昔読んだある説教の中で、こういうエピソードが紹介されていました。とても働き者の実業家が、どうしてそんなによく働くのかというと、実は自分は商売なんかしたくない。本当は、毎日読書をして心豊かに過ごしたい。そのために今は一所懸命働いて、お金を貯めて、書斎を構え、本棚に書物を満たして、これでよし、もう働くのはよそう。これから、ようやく、自分らしい生活が始まる。と、思った時、働き過ぎてしまったのでしょうか、視力が衰え、遂に失明してしまった、というのです。「この立派な書斎は、誰のものになるのか」。私はこの話を読んだ時、とても切ない思いになりました。福音書が伝える愚かな金持ちのたとえも悲しい話ですけれども、なぜか、この話を読んだ時にはもっと悲しい思いになりました。しかも、私どももこの実業家に共感するところがあるのです。共感しながら、しかもそのむなしさに、その愚かな悲しみに、どこかで既に気づいているのです。
あの愚かな金持ちは言いました。「これから先、何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」。自分もそう言えたらいいなあという、私どもの心を見抜いたような主イエスの言葉ではないでしょうか。こういう隠れた願望がいつも私どもの心を支配しているのです。しかもそのむなしさに私どもも気づいています。ですからある説教者は申しました。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。私どもが願っていることはこんなことではない。私どもの願い、それは、「わたしに一生分の糧を与えてください」というものではないか。どれだけ貯蓄があるか。将来自分のもらえる年金はいくらか。老後の住まいはだいじょうぶか。心配し始めるときりがありません。そして、そういう隠れた願望が、たとえば、それこそ13節以下にあるように、時に非常に歪んだ形でその姿を現してくるものです。「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください』」。もともとこの主イエスの語られたたとえは、群衆の一人がこう言い始めたところに端を発するのです。けれども、14節。「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか』。そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい』」。財産分与の争い。そのようなところでも鋭く問題になってくるのは、主イエスがおっしゃっている通り、〈貪欲〉の罪です。しかもこの罪から自由な人はひとりもいないのではないかと、私どもは思っています。
そこで問われることは、この「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りが、どれほど私どもにとって切実な願いになっているか、ということです。私どもにとって切実なことは、「今日の糧」が与えられることではなくて、一生分の糧が与えられることだ。本当にそうです。遺産分与の時などにまさにそういう思いが噴き出してきます。けれども、主が教えてくださる祈りは違います。「毎日必要な糧を、日々与えてください。一日一日、あなたが与えてください」。原文のギリシア語を読むと、ますますはっきりします。明らかに、一生分の糧とは違います。一日一日、というニュアンスの言葉です。
先ほど朗読いたしました、出エジプト記第16章が伝えるマナと呼ばれる不思議な食べ物のことを思い起こすこともできます。「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(18節)。まことに不思議な食べ物であります。それをちょっと余計に、明日の分まで、あさっての分まで貯めこんでおこうと考えた者もおりましたけれども、それは虫が付いて臭くなった。そこにも神の不思議な御心が現れています。そこでイスラエルの民が繰り返し、繰り返し教えられたことがある。私どもが今教えていただいていることがある。それは、今、ここに生きておられる神が、今ここにおける私どもの命を支えていてくださるという、まことに単純な事実です。主の祈りは、その事実をもう一度受け止め直すための祈りであります。そのための神からの語りかけなのです。
あの愚かな実業家は、自分の好まない商売の生活をしていた時に、自分の本当の生活はここにはないと思いました。自分の本当の生活はここにはない。あそこにあるのだ。お金を貯めて立派な書斎を構えて、そこで初めて自分は自分として生きることができるのだ。それが既に正しいことであったのかが問われます。それが、本当に神を信じる者の生活なのだろうか。
私は、遂に失明してしまった実業家のためにも、神は語りかけてくださったと思います。心を開けば、耳を開けば、必ず聞こえたはずです。わたしはここにいるよ、あなたを今生かしているわたしはここにいる。だからこう祈りなさい。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。神よ、今あなたが私を生かしてください。あなたが生かしてくださるのですね。
だからこそ主イエスは、先ほど読みましたルカによる福音書第12章において、22節以下でなお続けて、こう語ってくださったのです。
だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか……。
私どものいのちを、今、生かしてくださる私どもの父を紹介してくださったのです。今日の説教の題を、「一瞬、一瞬、神に生かしていただいて」といたしました。一瞬、一瞬、神に生かしていただいている私どもであることを、見せてくださったのであります。そうして、私どもを思い煩いから解き放とう、自由にしようとしてくださったのです。そのような主の願い、主の語りかけであります。
ところで、この「日用の糧を」と私どもが言い習わしている言葉について、少し丁寧に勉強をすると、興味深いというか、少し難しい問題に突き当たります。新共同訳聖書は、「日用の」という言葉を、「必要な」と訳しました。「毎日、日用的に、必要な糧」ということでしょうけれども、実はこの言葉の意味は、よく分かっておりません。なぜかと言うと、主の祈り以外の、いかなるギリシア語の文献にもこの言葉が出てこない。そうすると、何しろ古代の言葉ですから、意味の推測は非常に難しくなります。
しかしそれでも、この言葉をめぐる研究の中で、次第に多くの学者がこういうことではないか、とひとつの意見にまとまり始めていることは、この言葉は「今この時の」という意味よりは、むしろ「次の時の」という意味を持つのではないかということです。たとえばそうすると、朝の食事はもう済んだから、神さま、昼ごはんもよろしくお願いします。昼ごはんが済んだら今度は、神さま、おやつは何ですか、晩ごはんは何ですか……。けれども食事のことに限らないと思います。
なぜ、「次の時の糧」を求めるのか。今、自分が生きていることは確かだからです。けれども1分後、10秒後、いや1秒後だって、自分がどうなっているか分かりません。脳梗塞とか、心筋梗塞とか、そういう経験をお持ちの方はよく分かるかもしれません。私の祖父は47歳の時に、夜中に突然心臓が止まって死にました。その息子である私の父も、今年74歳になりますが、ずいぶん前から心臓に不安を抱えています。そうなると、ああ、うちは心臓病の家系か、自分も死ぬときは心臓病かな、などと考えないわけでもないのです。
すべての人が、深いところで、そういう死の不安を知っているはずです。知らないと思い込んでいても、それはただ忘れているだけです。けれどもまさに、そのようなところで私どもは神と向かい合うのです。祈りにおいて神と出会うのです。ある説教者は、この祈りを言い換えて、「次の息を与えてください」と言いました。「次のひと息を、ひと呼吸を、神よ、〈あなたが〉与えてください」「次の食事を、神よ、〈あなたが〉与えてください」。けれどもいつか、次の呼吸が与えられない時が来ます。二度と食事をすることができない瞬間が訪れます。まさしくあの金持ちと同じように、「今夜、お前の命は取り上げられる」という御声を聞く時が来るのです。けれども今は、皆さんはもう、深い平安の中で、その声を聴くことができるようになっているはずです。第12章27節以下には、こういう言葉もありました。
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。
主イエスがどれほどの深い思いを込めて、このように語りかけてくださったか。そのことを、よく考えていただきたい。私は牧師としてしばしば教会の仲間の葬儀をいたします時に、特に、その葬儀の後に火葬場で祈りをする時に、よくこの主の言葉を思い出します。「明日は炉に投げ込まれる草でさえ……」。愛する者の体が、炉に入れられて焼かれる。何度経験しても、慣れることがない厳しい時間です。その炉の扉が閉まる時に、家族がどのような表情を見せるだろうか。最後まで気を抜けないような緊張感があります。恐れがあります。けれどもその恐れに勝つように、主の言葉を聞きます。教会の務め、牧師の務めというのは、そこに尽きると思っております。私どもの命を支え、生かしてくださる神が、ここにもおられるから。炉に投げ込まれる野の花でさえ、こんなに美しく装ってくださる神がいらっしゃるから。そのことに気づいてほしいという主の語りかけ、主の願いであります。主の祈りを祈るたびに私どもはこのような主の御心の前に立つのです。
レンブラントという画家が、主イエスの語られた「愚かな金持ちのたとえ」を描いた作品があります。レンブラントと言えば、「光と闇を描いた画家」だと言われますが、まさにその光と闇がよく描かれている作品だと思います。暗い部屋にひとりの老人が座って、手にしたろうそくの光で金貨をじーっと見つめている。その周りにも書類がうず高く積み上げられて、それもおそらく財産なのでしょう。何かの証文なのでしょう。そのろうそくの光と、けれどもそれを囲む闇の深さが、この老人の孤独の深さを物語っていると思いました。ひとりぼっちなのです。「この財産をどこにしまっておこうか、そうだ、こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに財産をみなしまいこんでやるのだ」。私は、このレンブラントの絵を見ながら、耐えられないほどの悲しい思いになりました。そうか、この老人は、今夜死ぬのか。孤独のうちに。その「今夜」の闇の深さを、主イエスもよくご存知であったと思います。
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。もしかしたら、この人は何気なくそう言ったのかもしれません。けれどもその時、主イエスは、その人のこころの深いところにある孤独、不安、明日への思い患い、深い闇を、見抜いておられたのではないでしょうか。そしてこのたとえを語られながら、「愚かな者よ」とお語りになった時にも、もしかしたら主イエスはこの財産分与で悩んでいる人の目をじっと見ながら、「愚かな者よ」と言われたのではないだろうかと思います。この人は、主イエスの語られるひと言ひと言を聞きながら、耐えられないほどの思いに立たされたのではないか。イエスさまのまなざしにぐっと捕えられて、ほとんど足が震えるような思いではなかったかと思うのです。「お前は愚かだ」。あくまでたとえ話であると分かっていながら、ほとんど倒れるような衝撃を受けたのではないか。けれどもおそらく主イエスはそのまま、その人から目を逸らすことなく、「空の鳥のことを、野の花のことを考えてみなさい」。「あなたは、鳥よりも、花よりも、神に重んじられているではないか」。そのように語りかけてくださった主イエスのお言葉は、まさに先ほど申しましたような、この人の孤独を癒すための言葉であったに違いないと私は思います。
ここまで、私どもがまだ注意して読んでいない、けれども大切な言葉がひとつあります。それは「われらの」糧を、という言葉です。原文を忠実に訳すならば、「〈われらの〉日用の糧を、〈われらに〉与えてください」。わたしひとりのための祈りではない、ということです。それを忘れるところにも、どんなに深い孤独が造られるか。レンブラントはそのことをよく分かっていたのだと思いますし、ルカによる福音書もこのような思いがけない言葉を最後に記しております。33節以下であります。
自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
マナを余計に集めた人のそのマナが、虫に食われて腐ってしまったという旧約聖書の記事をも思い起こさせる言葉です。けれどもあなたがたは、虫も食い荒らさない富を作りなさい。そのために、あなたの持っている物を貧しい人に施せ、と教えられていることに、私どもは気づいていたでしょうか。
言い換えればこういうことだと思います。私どもはなぜ貪欲のとりこになるのか。遺産分与の時には目の色が変わるくせに、なぜ他者の困窮に対しては薄情になるのか。恐れがあるからです。神に生かされている自分であることを忘れるからです。あなたは鳥よりも花よりも尊い存在ではないか、という語りかけに耳を塞ぐからです。そのような貪欲から、もっと言えばそのような孤独の闇から私どもを解き放とうとする主イエスのお言葉であることに、改めて気づくべきであります。「われらの日用の糧を、今日もわれらに与えてください」。他者のためにお前が損をしろ、という意味ではありません。このわたしがいちばん人間らしく生きる道がここにあるのです。そのことに気づくために、もし必要なら、レンブラントの絵を、改めて眺めてみてもいい。自分がどんなに愚かな姿を見せてしまっているか、そのことに気づいて苦笑してみてもよいのです。何よりも、そのために主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りを、もう一度新しい思いで祈り直したいと思います。私どもを生かしてくださる神の愛に、もう一度初心に立ち返るような思いで立ち戻りたいと思います。ここに、恐れから解き放たれる道がある。闇から解き放たれる道があるのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる神さま、私どもの日ごとの糧を、一瞬、一瞬のいのちをあなたが与えてくださいますことを感謝いたします。すぐにその事実を忘れ、自分の足で立とうとしてしまう私どもの罪を、どうぞあなたが癒し、赦してください。われらの日用の糧を今日もあなたが与えてください。与えられた一瞬、一瞬を、どうぞあなたが生かしてください。あなた以外の力によって生きようとする、すべての誘惑から私どもを救い出してください。主の御名によって祈り願います。アーメン