嵐に耐える信仰
ルカによる福音書 第8章22-25節
川崎 公平
主日礼拝
今日私どもに与えられた神の言葉と信じて、ルカによる福音書第8章22節以下をご一緒に読みました。多くの人びとの記憶に残る物語だと思いますし、その内容を、改めて私がなぞり直してみせる必要もないと思います。私も、子どもの頃からこの福音書の記事に親しんでまいりましたし、以前おりました松本の教会でも、既にマタイ、マルコ、ルカ、それぞれの福音書が伝えるこの嵐の湖の記事を説教したことがあります。しかし、何度説教しても、語り尽くせない思いがいたします。
私がこの記事を読みます時に、ひとつ思い出すことがあります。私が松本の教会におりました時に、どういうわけかある時期から急に、教会の近所に住む子どもたちが、毎日のように教会に遊びに来るようになったことがありました。当時小学2年生の男の子がいたのですが、教会に来て、気がつくと熱心に、教会に置いてあった子どものための聖書物語の本を読みふけっている。ついこの間まで、イエスさまのイの字も知らなかったような男の子が、聖書物語を読みながら、私に「見て、見て」と声をかけてきました。見ると、この嵐の湖のところを読んでいる。「見てこの人、こんなすごい嵐なのに、寝てるよ。これ、ほんとの話?」 私はその時、牧師としてはもちろん、「そうだよ、本当の話だよ」と答えるべきだったかもしれませんが、実際にはどう答えたか、実はあまりはっきりとした記憶がありません。ただ、非常に深い、また厳しい思いに誘われたことをよく覚えています。ああ、そうか、イエスさまは眠っておられたのか。あの嵐の中で。すごいことだな。今も、眠っておられるのだろうか。
この、急に教会に入り浸り始めた子どもたちですが、以前婦人会の例会でこの話をしたことがあったと思います。なぜこの子たちがそんなに教会に来たがるのか、最初は分かりませんでした。この子どもたちというのが、何と7人兄弟で、当時上から小学6年生、4年生、2年生、5歳、3歳、1歳、0歳。もっともさすがに0歳の子は来ませんでしたが、1歳の子までは教会に来ていました。親の姿は見えない。何日かのうちに気付きました。どうもこの子どもたちは、家であまり食事を与えられていないようだ。教会に来れば、食べ物があるということに気付いたのです。信州の冬の寒さは格別です。けれども、入学前の子どもたちは、いつも半袖シャツ1枚、ズボンは履いていますが、パンツも靴下も履いていない。さらに、どうも歯を磨いたこともない。とにかく悲惨でした。もっとも、両親に会ってみると特に悪意があるわけでもなく(つまり、通報すべきケースなどではなく)、むしろお父さんもお母さんも子どもが大好きで、けれども急にお父さんが仕事を失って、突然窮地に陥ったということでした。
とにかく私ども夫婦はすぐに、中途半端に教会に入り浸らせるのはやめて、毎日その子どもたちを牧師館に呼んで、ひたすらその子どもたちに食事を与え続け、少なくともパンツと靴下は買い与え、けれども親が洗濯を頻繁にしてくれるわけではないので、適当に洗濯もし、……小学生たちの中に、どうも学校をさぼっている子がいる。朝起きられないらしい。それでしかたがないので、毎朝牧師館で子どもたちに朝ごはんを食べさせ、学校に送り出し、夕方になるとまた牧師館に呼んで、割とお腹が一杯になりそうなおやつを食べさせ、九々を言えない子がいたので、勉強を教え、しかし教会に来たからには、おやつの前にはきっちり聖書の話もし、ということを何か月か続けました。もちろんその両親とも時間をかけて仲良くなって、経済的に相当な援助を続けました。教会の人たちの祈りにも支えられ、結局、この家族は見事に立ち直り、もちろん経済的にも自立し、9人家族にふさわしい大きさの家に引っ越すことさえできました。その後、8人目が産まれましたと、新しい赤ちゃんを連れて報告に来られた時には、嬉しいというべきか、ほとんどあきれましたけれども、よく神が導いてくださったと思う。
ただ、やはり私が悲しい思いで振り返らざるを得ないのは、そこで明らかになった自分自身の愛の貧しさでもあります。私の信仰の貧しさが露呈した出来事であったと思っています。念のために申しますが、別に私はここで、自分の愛の手柄を紹介するつもりはない。率直に言って、いちばんたいへんだったのは、自分の罪との戦いでした。何しろ収入がほとんどゼロの9人家族を養い始めたわけですから、どうしたってこっちの預金通帳が目減りします。自分の時間も減ります。腰痛もひどくなりました。そこに、自分の生活を守りたいという貪欲の心が生まれてきます。正直に言えば、悲しい思いで振り返ることも多いのです。「主よ、信仰を与えてください」とひそかに祈り続けました。とにかく、それこそ嵐のような毎日でした。
この家族とは、いろんな思い出ができましたけれども、今振り返って、なぜか忘れがたいのが、嵐の中で眠っておられた主イエスのお姿なのです。「ねえねえ先生、この人すごくない? こんなところで寝てるよ」。確かに、すごい。すごいけれども、また複雑な思いを呼び起こす主のお姿です。改めて問わざるを得ない。弟子たちと共に。「いったい、この方はどなたなのだろう」。主イエスよ、あなたというお方は、いったい何者なのですか。今あなたがなさろうとしていることは、何なのですか。なぜ、ここで眠っておられるのですか。この嵐の中で……。
この物語は、主イエスの「湖の向こう岸に渡ろう」という言葉で始まっています。これも、忘れがたい言葉です。この舟に弟子たちを乗せ、結果的に嵐の中に連れ込んだのは、主イエスなのです。弟子たちが自分たちで選んだ道ではなかったのです。案の定、嵐がやって来て、舟は水をかぶり、けれども、主イエスは眠っておられる。ほとんど正気を失うほどの恐れの中で、弟子たちもまた問うたかもしれません。なぜわたしたちを、このような危険な場所に連れて来られたのですか。あなたが、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃるから、わたしたちもついて来たのです。あなたについて行けば間違いないと信じて。それなのに、「先生、わたしたちはおぼれそうです。滅びてしまいます」。イエスさま、なぜそこで、眠っておられるのですか。この弟子たちの叫びは、皆さんも、よくお分かりになると思います。
この説教の準備をしながら、牧師として、いろんな人の〈嵐〉を思い起こしていました。さまざまな愛の労苦。信仰の試練。愛する者との別れ。恐れ。不安。先ほども聖書を朗読しながら、ちらちら皆さんの表情を窺うなどということはもちろんいたしませんが、既に胸がドキドキするほどの思いがいたしました。皆さんは、この福音書の記事をどのようにお読みになるか。むしろ、この壇から降りて、ひとりひとりに伺いたいような思いさえいたします。
先週もある方を訪ねて、既にこの聖書の記事を短く説教しました。そのご家庭を襲った、大きな試練を思わないわけにはいかなかったからです。「向こう岸に渡ろう」。それこそ、そのような大きな決断をせざるを得なくなった。そこに嵐が起こる。もう起こっている。何の説明もなく、よく分かるのです。しかもその信仰のご家庭がよく承知しているのは、その嵐の中でなお主イエスが共にいてくださるということです。けれども問題は、その主イエスが眠っておられるということです。
私が説教したあと、聖餐にあずかり、同行の長老もまたそのご家族のために祈ってくださいました。わたしたちは、一緒の舟に乗っています。教会という舟に。そのありがたさを思うと本当にそうだと思いました。古来、教会は、自分自身の姿をこの嵐の中の舟に重ね合わせて理解してきました。教会は、舟である。もちろん何よりも大切なことは、その舟の真ん中に、主イエスがおられるということです。
その主イエスがしかし、ここでは眠っておられる。忘れがたい姿です。小さな子どもにも、その姿は鮮やかな印象を残します。考えられないことです。あり得ません。なぜ眠っておられるのか。すべてを神に委ね切っている姿を、弟子たちに見せてくださったのだと思います。すべての恐れから解き放たれて、思い煩いからも解き放たれて、このお方は眠っておられる。それを言い換えれば、この滅びは滅びではない、この嵐はわたしたちを滅ぼす力を持たない、そう言い切ってくださっている。このようなお方が私どもの主として、私どもと共にいてくださるということは……一方ではありがたいことだと言えますし、しかしまた、眠っているのでは何の役にも立たないではないか。そうも言えるのです。
ここはやはり、正直になりましょう。弟子たちは、主イエスに奇跡を起こしていただいて、嵐がたちまち静まるという得難い体験をした。けれども私どもの周りでは奇跡は起こりません。少なくとも私がここで、奇跡を約束するような福音を語ることはできないのです。教会が2千年間、福音として語り続けてきたことは、奇跡を信じる信仰ではない。これははっきりしています。
「信仰を持ったら、いろんな苦しみから解放されますよ。悩みから解放されますよ」。そう言えたら、どんなに伝道は楽かと思います。しかしそうはいかない。イエスさまに従って行っても、やはり嵐は来る。いやむしろ、イエスさまに従うということは、この弟子たちのように、新しい嵐の中に連れ込まれるということを意味するのです。これは、多くの信仰者が体験的に知るところだと思います。主イエスを信じるがゆえに、今ここで、私は向こう岸に渡らないといけない。それはたとえば、この子どもたちの朝ごはんはわたしたちが用意しなければいけないのかな、ということも起こるのです。けれども主イエスに従う私どもは、その嵐の中で、なお安らかに眠っておられる主イエスのお姿を、いつも見ているのです。それはいったい、何を意味するのだろうか。
しかし、私どもがこの聖書の記事を読んで、何と言っても心を打たれるのは、嵐の中で弟子たちは主イエスを叩き起こした時に、主イエスは起き上がり、「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」。圧倒的な神のみわざが語られる。ですから下手をすると、苦しい時にも神さまを呼べばいい。神さまはいつも一緒にいてくださり、わたしたちを助けてくださると、そういう説教をしかねないのです。けれどもどうもこの記事は、そういうことを語ってはいない。なぜかと言うと、25節で、「イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた」。主イエスはここで、弟子たちには信仰がないと断じておられる。神を信じていないではないか。わたしを信じていないではないか。これは、決して分かりやすい言葉ではないと思います。私どもも、人生の荒波の中で、主イエスを信じる者として、もちろん、祈るのです。主のみ名を呼ぶのです。「主イエスよ、わたしは滅びそうです。助けてください」。主イエスを信じていないから祈るのではないのです。信じているから祈るのです。少なくとも自分ではそう思っています。けれどもここでは、はっきりと、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。弟子たちは、主イエスを信じて起こしたのではない。信じていなかったから主イエスを起こしたのです。繰り返しますが、よく考えると、分かりにくい言葉です。
そこで、たいへん興味深いことに、さまざまな人が、さまざまな、弟子たちの行動の「改善提案」をしています。つまり、それなら弟子たちは、結局どうすれば叱られずにすんだのか。いや、叱られるかどうかという問題ではないでしょう。弟子たちに、もし信仰があったとしたら、どうしただろうか。皆さんはどうお考えになるでしょうか。おもしろいことに、実にいろんな意見があるのです。たとえば、私が、これが一番大胆だなと思いましたのは、「一緒に眠ってしまえばよかったのだ」。主イエスが完全な平安の中にいたように、弟子たちも神を信じ切って、一緒に眠ることができたはずだ。……どうでしょうか。
またある人は言います。主イエスが眠っておられる。その姿に励まされて、恐れから解き放たれて、そのまま安心して舟をこぎ続ければよかったのだ。なるほどと思います。周りの状況は、相変わらずなのです。そして相変わらず、苦労して舟をこぎ続けるのです。けれどもその心のうちは平安に満たされている。主イエスが共にいてくださるから。
しかしまた、ある人は、いや、起こすのはよかったのだと言います。むしろ、起こさないでどうする。われわれもまた、苦難の中で主のみ名を呼び続けるではないか。けれども、「先生、先生、おぼれます」。この言い方はいただけない。もっと信仰者らしい祈り方があったろうに。
いろんな人がいろんな改善提案をするものだから、私もどういう説教をしたらよいか、少々迷いました。けれども、福音書が語ろうとしていることは、結局、ひとつのことです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。「どこにあるのか」ということを言い換えると、「あなたがたは、誰を信じているのか」ということです。だから、弟子たちも最後に言うのです。「いったい、この方はどなたなのだろう」。弟子たちは、同じ舟に乗っているのが誰であるか、分からなかった。主イエスは、そのことを分からせようとしてくださったのです。「あなたがたは、誰を信じているのか」。わたしのことを、よく見てほしい。よく分かってほしい。
私はここで、弟子たちの行動の改善提案をするつもりはありません。してもいいのですが、今日はやめます。大切なことは、今私どもと共におられる方、イエスというお方は、いったいどなたなのか、ということです。そのことさえきちんとわきまえていればいい。
当たり前ですけれども、私はここで、「どんなにつらいことがあっても、眠っている主イエスを起こしてはならない。主の名を呼ぶ祈りをしてはならない」などという、そんなばかばかしい説教をするつもりはありません。当然のことです。嵐の中で、信仰者が取るべき態度はさまざまです。それこそ、思い煩いから解き放たれて、いったんすべてを手放し、すべてを神に委ね切るようにして、主イエスと一緒に眠るという道が示されることもあるでしょう。主イエスが共にいてくださる、そのことに励まされて、心新たに愛の忍耐に導かれることもあるでしょう。必死で舟をこぎ続けるのです。もちろんそこで、私どもは主の名を呼び続けるのです。「主よ、助けてください」。けれども問題は、その私どもの祈りに、たえず不信仰のこころが忍び込むことです。結局、神さまなんて何もしてくれないのではないか。眠っておられるのではないか。そこで、私どもと共におられる、この方がどなたなのか、私どもはすぐに忘れるのです。
だからこそ、主イエスは絶えず、ご自身が何者であるかを私どもに示してくださる。主イエスがここでなさった奇跡は、そのひとつのしるしでしかありません。そして私どもも、絶えず、繰り返し、問い続けるのです。「いったい、この方はどなたなのだろう」。
主イエスはここで、弟子たちにご自分が何者であるかを示すために、「風と荒波とをお叱りになった」。そう24節に書いてあります。ここで多くの人が指摘することがあります。主イエスは、嵐を静めてくださいと、神に「祈られた」のではない。風と波を「お叱りになった」。この違いは大きいと言います。なぜ違いが生まれたのか。この方が、神そのものであるからです。そして、叱られてしまった嵐は、それこそまるで叱られた子どものように、おとなしくなってしまう。
ここで、創世記第1章9節を思い起こすこともできます。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」。あるいは先ほど、ヨブ記第38章を読みました。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」。このような命令をすることができるのは、ただおひとり、神だけです。そして主イエスというお方は、ここで神そのものとして行動しておられる。そのようにこの箇所を読むことができます。だからこそ、その嵐から助け出された弟子たちは、やれやれ、助かったと安堵の心を得たというのではなく、嵐を恐れた恐れよりもなお深い恐れを知ったのです。
弟子たちは〈恐れ〉驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。
弟子たちは、そして私どもも、そのようにして、弟子としての訓練を受けていきます。イエスとは誰か。この方は、いったい何者なのだろう。そのことを知るための訓練です。それは、なお福音書の終わりまで続きます。
この箇所についてある牧師が書いた黙想の文章を読んでおりまして、はっとさせられたことがあります。ここで弟子たちは、主イエスが眠っておられることに驚き、恐れた。なぜ眠っておられるのですか。なぜこんな状況で。あり得ない。そう思ったであろう。けれども、福音書はその終わり近くで、まったく逆の場面を伝える。そのことに気づいているかと、その牧師は言うのです。弟子たちが眠り込んでしまい、主イエスだけが祈っておられる場面。主イエスが十字架につけられる前の晩、オリーブ山(他の福音書によればゲツセマネ)というところでなさった祈りであります。神よ、できることなら、この苦しみを取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。福音書はまことに正直に、主イエスはそこで、もだえるほどに恐れられたのだと言います。恐かったのです。恐かったから、徹夜の祈りをなさったのです。けれども弟子たちは皆、眠りこけてしまいました。あの嵐の夜とは逆に、主イエスの方が弟子たちに、どうかあなたがたもわたしと一緒に起きていてほしいと願われたのです。そして最後に、十字架の上で、「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。弟子たちの叫びとよく似ています。主イエスは、本当に恐かったのだと、私は思います。十字架につけられた主イエスにとって、神は眠っておられるようにしか思えなかったのです。それほどの深い恐れを、神の子イエスが味わってくださったことを思う時、ここで信仰がないことを叱られてしまった弟子たちが、実はどんなに深い主の真実によって支えられているか。そのことに気づきます。
そして、この主イエスがお甦りになった時、弟子たちの問いはまた、まったく新しくされました。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」。風がどんなに強くても、それを造られたのは神。波がどんなに激しくても、それを造られたのは神。死の力がどんなに強そうに見えても、その死の力も、主イエスに従うのです。この福音書は、その最後のところで、その事実を鮮やかに描き出す。
そしてその事実に支えられて建てられた教会は、いつもくり返し、嵐の後の弟子たちの言葉をなぞるように歌うのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか。死の力も、このお方の前にはひれ伏したではないか」。これは明らかに、教会の賛美の歌です。この賛美を歌いながら、私どもは嵐に耐え続ける。愛の労苦に耐え、信仰の試練にも耐えるのです。そのこころを造るために、ここで既に主イエスは、舟の中で安らかに眠る姿を見せてくださいました。この主イエスの平安は、復活のいのちに裏付けられた平安です。今ここでも、私どもは、この主イエスの平安を分けていただくようにして、同じ舟に乗せていただいた兄弟姉妹と共に生きるのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、不信仰の罪を癒してください。すぐに忍耐できなくなってしまう私どもの浅はかさを癒してください。今ここに生きておられる主のお姿を、今、新しい思いで仰ぐことができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン