神の言葉が造る家族
ルカによる福音書第8章19-21節
川﨑 公平
主日礼拝
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった(19節)。
ここに出てくる「母と兄弟たち」というのは、もちろん主イエスご自身の母親と、主イエスは長男でしたから、兄弟たちというのはつまり弟たち、もしかしたら妹たちも含まれていたのかもしれません。母親の名前はマリアと言います。私どもも、この場所でルカによる福音書を読み続けておりますが、かつて第1章、第2章のいわゆるクリスマスの記事を読み、主イエスの母の名はマリア、父の名はヨセフということをよく承知しています。ここに、その母マリアが出てきます。しかし私どもは、ルカによる福音書を読み続けながら、実は主イエスにマリアという母親がいたということを、いつの間にか忘れていたかもしれません。
ここには、母マリアだけが姿を現す。父ヨセフの姿が見えないのは、既に死んでいたのだろうと推測されます。そのことも、よく考えてみれば、さまざまなことを考えさせられることであるはずです。やもめ、未亡人であります。長男のイエスに、マリアを養う責任があることは明らかです。私どもは、福音書を読んでいると、うっかりするとそういうことを忘れます。今日読みました第8章19節以下の短い記事は、そのことを改めて思い起こさせてくれます。
幸いにして、主イエスには弟たちがいたようです。そうすると、その弟たちが、マリアの生活を支えてくれていたのでしょう。長男イエスは、言ってみれば、出家しておられる。この弟たちが、母マリアも連れて、何の用事があったのかは分かりませんが、主イエスを訪ねました。ところが群衆が主イエスの言葉を聞こうと周りに群がっていて近づくことができない。そこで、20節以下にこう記されます。
そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
皆さんは、この主イエスの言葉をどのように受け止められたか。私の個人的な印象を申し上げれば、非常に冷淡な印象を与える言葉です。
この情景を想像しながら、私がひとつ思うことは、主イエスは、誰の目を見ながらこう言われたのだろうかということです。周りに座っている人たちを見ながら、こう言われたのでしょうか。しかしまた、依然として外に立ち尽くしている母マリアの目をじっと見つめながら、「わたしの母とは」と言われたのかもしれないとも思います。「わたしの母とは……神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。外に立っているマリアと、明らかに距離があります。マリアは、どのような思いで、このような息子イエスの言葉を聞いたでしょうか。
しかもマリアは、このような息子の態度に、初めて接したわけではありませんでした。そう言えば20年近く前にも、同じような息子の言葉を聞いた。そのことを、マリアは思い出していたのではないかと私は思います。ルカによる福音書がこの直前でマリアの姿を描くのは、第2章41節以下です。12歳の息子イエスを連れて、都エルサレムに旅をした。ユダヤ人の祭りである過越祭に参加させるためです。ところが自分たちの町に帰ろうとすると、我が子イエスの姿が見えない。そのことに気づかないまま、一日分の道のりを歩いてしまった。慌ててエルサレムに戻り、12歳の息子の姿を求めて歩き回ったところ、遂に神殿の中にその姿を見出した。何をしていたのか。学者たちから、み言葉を学んでいたというのです。そこでマリアは、当然のごとくイエスを叱ります。なぜこんなことをするのか。お父さんもわたしも、こんなに心配しているのに。そうしたら、12歳のイエスはこう言われました。
どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。
これは、ルカによる福音書の伝える最初の主イエスの言葉でもあります。両親にとってはずいぶん厳しい言葉です。どうしてわたしを捜したか。わたしが父の家にいるのは当たり前、父なる神の家、神殿にいるのは当たり前でしょう。12歳の息子の言葉です。もしかしたら、12歳の子どもを育てた経験のある方は、そうそう、12歳くらいの子どもだったらこういうことも言いかねないと思われるかもしれませんが、このお方は、30歳になっても同じような趣旨の言葉をくり返されました。
しかも福音書がここで伝えたいことは、ただ主イエスおひとりの肉親関係に関わることにとどまらず、私どものこの地上での肉親関係を破壊するほどの激しいものです。これからなお私どもが礼拝の中でルカによる福音書を読み進めてまいりますと、いずれこのような聖書の言葉を、ここで私が説教することになります。
そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(第9章59~60節)。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる」(第12章51~53節)。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(第14章26節)。
「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(第18章29~30節)。
このような聖書の言葉を読む限り、洗礼は受けたけれども、家族を捨ててはいないということは考えられません。まだ家族を捨てたつもりはないけれども、もう洗礼は受けちゃったという方は、今からでも遅くはない、今日、家族を捨ててください。しかし、今私が話していることは、それにしても厳しい言葉です。はっきり言って厳しすぎます。こんな厳しいことを言い続けたら、ただでさえ日本の教会の伝道が衰退しているのに、ますます教会には誰も来てくれないということになるかもしれません。確かにそうです。
しかし他方で、私は思う。私どもは、このような主イエスの言葉を厳しいと思うほどに、自分の家族を愛し得ているでしょうか。私どもの愛というのは、特に肉親同士となると、ずいぶん、わがままなものであります。兄弟は他人の始まりなどと言いますけれども、いつの間にか他人になるどころか、何か利害関係が絡んでくると、家族、親戚同士の争いというものは、他人同士の争いよりもはるかに深刻な、恐ろしい憎しみを示すものです。そのような悲しみを知らずにすんでいる人は、むしろ少数ではないかとさえ思います。
私が以前松本の牧師であったころ、ひとつ特徴的であったのは、前夜の祈りと葬儀の間に、火葬をするということです。つまり、前夜の祈りの翌日、午前中に火葬をしてしまって、遺骨だけを迎えて午後に葬儀をする。それがその土地の、一般的なスタイルでした。そうすると、今鎌倉で牧師をしている時と大きく違うことは、まず葬儀の説教を書斎にこもって準備する時間がきわめて限られる。けれどもその代わり、葬儀の前に火葬をしている間、火葬場でずっとご遺族と一緒に過ごしながら、いろんな話を聞くことができます。火葬というのは、やはり厳しい時間です。いまだに慣れることはありません。それまで目に見えていた体が、見えなくなるのですから。そのような悲しみを知りつつ、そこに見えてくる家族の姿もさまざまです。ああ、仲のいい家族だな、とこちらまで気持ちよくなることもありますし、なんだかこの家は、お互いによそよそしいな、と思うこともある。火葬をしている最中、収骨までの待ち時間、1時間ほどの時間があります。そこで久しぶりに会った親族が、大喧嘩を始めたということがありました。お互いに裁き合い、ののしり合い、それまでずっと心の中に溜めていた恨みつらみを、全部吐き出し合ってしまった。ああ~、あの人、今燃えているんだよな……などと思いながら、私は、主イエスの悲しみを思っていました。しかし、これはそんなに珍しいことでもないと私は思っています。案外多いのではないか。ただ取繕っているだけではないか。私どもにとって、地上の家族というものは、必ずしも楽園ではないし、誰よりも主イエスが、そのことをよくご存知であったのではないか。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。ここに、主イエスの戦いが始まる。鋼の剣を用いた戦いではない。み言葉の剣による戦いです。ただ愚かな血縁をばっさり切り捨てるためではなくて、新しい家を造るための戦いです。「わたしはここに、新しい家を造る。神の家族、教会を造るのだ。神の言葉によって」と宣言しておられるのです。
前回私がここで説教した時に、第8章4節以下の、種を蒔く人のたとえと呼ばれるところを読みました。畑に種を蒔く人のように、主イエスは、神の言葉を語り続けられる。その神の言葉は、石地に落ちた種のように枯れてしまったり、鳥に食べられてしまった種のように悪魔に奪われてしまったりするけれども、神の言葉は必ず実を結ぶのだと、主イエスは望みをもって、み言葉の種を蒔き続けられる。そこには明確な目的があった。ご自分の家族を造るためであったのです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。主イエスがあのたとえで語っておられた100倍の実りとは、主イエスの家族のことにほかなりません。ここに生かされている、神の家族、教会のことです。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。主イエスは、この言葉を、誰の目を見ながらおっしゃったのだろうか、などということを先ほど申しました。私は、やはり主イエスは、マリアの目を見つめながらこう言われたのではないか。そんな気がしてなりません。母マリアの心の中にも、今主イエスは、懸命に神の言葉の種を蒔いておられる。このみ言葉の種が、100倍の実を結ぶようにと。
母マリアは、福音書においてこれ以降、再び姿を消します。けれども例外的にもう一度、主イエスが十字架につけられたところで、母マリアの姿が現れるところがあります。そのところをぜひ、今日皆さんとご一緒に読みたいと思います。ヨハネによる福音書第19章26節以下に、こういう主イエスの言葉があるのです。
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り……
ここに、主イエスの十字架の上で、何を「成し遂げられたのか」、その目的がはっきり現れています。十字架のもとで、新しい家族が作られたのです。血のつながりによる家族ではありません。血と言えば、主イエスの血によって、つながりを与えられた家族と言ってもよい。主イエスは、本当に神の愛に根差す家族を作るために、十字架におかかりになった。そう言ってよいと、私は信じています。しかもそこで、私どもは、私どもの古い家族を軽んじるのではない。むしろ、重んじるようになるのです。
皆さんの中にも親しみをもって覚えておられる方があるかもしれませんが、横浜市の清水ヶ丘教会というところで行われた結婚式に出席したことがあります。確か2回くらい、友人の結婚式に出るためにその清水ヶ丘教会に行ったことがあったと思います。ひとつ特徴的なところがあって、先ほど紹介した主イエスの言葉を、新郎新婦の家族の前で読むのです。新郎を、新婦の家族と向き合わせて、「見なさい、あなたの母です。見なさい、あなたの父です。見なさい、あなたの娘です」ということをお互いに、司式者が言うのです。いい意味で、興味深いと思いましたが、しかし、自分で実行する勇気はまだありません。実は昨日も、この場所で結婚式のリハーサルがありました。今月19日に行われる結婚式のリハーサルです。新郎新婦とそのご両親とが集まって、……「見なさい、あなたの母です。見なさい、あなたの父です」。うっかりすると、誤解を招きかねない。さあ、あなたはもう、お嫁入りしたのだから、ちゃんとお舅さん、お姑さんにお仕えしなければなりませんよ、という意味に取られては困るとも思っているのです。もちろんその教会の結婚式文が、そういう日本古来の家族観を肯定しているわけではないことは明らかです。大切なことは、この言葉は、主イエスが十字架の上で語られた言葉だということです。主イエスのいのちが叩き込まれたような言葉です。このふたりが結婚する。それだけでなく、それまで他人だったふたつの家が、親族になる。その時にも、主イエスが十字架についてくださったという事実を重く受け止めていないと、結婚など成り立たないのです。私はいつも、そのことを確信しつつ、結婚式の司式をいたします。
既にその知らせを耳にされた方もあるかもしれませんが、昨日の夜、教会員のTさんがお亡くなりになりました。あまり多くの人がお見舞いに行っても、かえって負担が大きすぎると思いましたので、あまり教会の皆さんには詳しいことを伝えておりませんでしたが、このひと月、私ども夫婦は、たびたび東京の病院にTさんを訪ねておりました。昨夜、急に容体が悪くなり、急いで恵牧師が駆け付けようとしましたが、その途中で私の電話に逝去の知らせが届きました。本当は、私も追いかけるようにして病院に急ぐべきであったかもしれませんが、むしろこの朝の礼拝のために、祈りと御言葉の奉仕に専念することがみ心だと思いました。このような時に、この主イエスの言葉を黙想し続けることができたことは、すばらしい神の導きだと思ったのです。
今日お読みした主イエスの言葉を集中的に聞き続けながら、私は、Tさんのご主人が、昨年の7月に洗礼をお受けになったことを思い起こしておりました。そのご主人がお亡くなりになるちょうどひと月前、まだご主人が洗礼をお受けになっていない時に、Tさんから、「夫の葬儀を教会でしてほしい」と牧師室で相談を受けました。末期がんであることが分かった。お願いすることは可能でしょうか。私は、「分かりました。けれども、ひとつお願いがある。亡くなる前に、必ずお会いしたい」と申しました。いつ病床を訪ねることができるかなと思っておりましたら、思いがけず、小礼拝においでになりました。生まれて初めての教会での礼拝出席だったそうです。礼拝後に私が挨拶した時には、1階のロビーで座って休んでおられましたが、立ち上がるのも、言葉を発するのもつらそうな様子で、相当の覚悟をもって礼拝に来られたことは明らかでした。そしてその2週間後、お亡くなりになる2日前に、病床で洗礼をお受けになりました。
おかしな言い方かもしれませんが、1年前のTさんのご主人の葬儀には、ずいぶん大勢の方が集まりました。けれども、そこに集まった多くの人にとっては、なぜTさんのご主人の葬儀をキリスト教会で行うのか、まったく思いがけないことであったと思います。その葬儀の最後に、奥様のTさんが挨拶をなさった、その言葉を私は忘れることができません。昨日、改めてその録音を聴き直してみました。45年にわたる結婚生活。しかし一番感謝していることは、亡くなる直前に夫が洗礼を受けてくれたことです。まことに簡潔な挨拶でした。涙ひとつ見せず、終始、あの笑顔で。特に葬儀の挨拶では、ご主人の洗礼のこと以外、何もお話しになりませんでした。そしてこう言われました。主人は洗礼を受けてキリスト者になったといえども、教会で何の奉仕もしていない。何のお役にも立っていない。けれども、この中にも、なかなか家族が自分の信仰を理解してくれないことを悲しみ続けている方たちがいるであろう。そういう方たちを励ましてくださるために、神さまは主人というひとりの人を導き、用いてくださったのだと、私は信じています、と。そこに、Tさんの深い祈りがあったことは明らかです。深い悲しみもあったかもしれない。しかしそれは、主イエスの悲しみの後に従うところに生まれる悲しみであり、主イエスの祈りの後に従うところに生まれる祈りでしかないのです。
主イエスはここで、「神の言葉を聞いて行う人たち」、それがわたしの家族だと言われました。神の言葉を聴き、行うとはどういうことか。ここで私どもがどうしても読み過ごすことができないことは、主イエスご自身が、神の言葉を聞いて行う歩みを貫かれたということです。その主イエスの歩みは、十字架に至る。至らざるを得ない。その時、主イエスは、十字架につけられる前の晩、オリーブ山と呼ばれる場所、他の福音書によればゲツセマネの園と呼ばれる場所で、血のように汗を流しながら祈りをなさいました。父よ、どうしてもこの杯を飲まなければなりませんか。どうしても、この十字架を負わなければなりませんか。み心ならば、どうかこの杯を取り除いてください。けれども、わたしの願いではなく、ただあなたの願いが実現しますように。この祈りによって、主イエスは神の言葉を聞き、行うという歩みを選び取られたのです。
このような主イエスの十字架が立ったからこそ、私どもは今、神の家族として生きている、生かされている。そのことを思う時、神の言葉を聞いて行うとはいったいどういうことかと問いながら、説教を聞いているだけではだめで、やっぱり少しは、よい行いをしないといけないのか、クリスチャンらしい立派な行いをしなければならないのか、などと考えるのは軽率だと私は思います。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。このような主イエスの言葉を受け入れ、自分自身が神の家族とされていることを、そのままに受け入れる。まずそのことが、神の言葉を聞いて、行うことだと私は信じます。Tさんも、Tさんのご主人も、その意味で、神の言葉を聞いて行う人とさせていただいたのであります。
本日の週報に、教会員写真集の案内を記しました。今月末から撮影を開始します。神の家族としての内実をなお豊かなものにしたいという願いから、このような試みが始まっていることは確かです。けれども、そのような時だからこそ、口を酸っぱくして申します。お互いに顔を知っているとか、名前を知っているとか、そういう人間的な仲の良さが教会を造ることはありません。それが教会の土台になることはないのです。私どもが神の家族であるということは、ただ仲が良いとか、お互いの消息をよく知ってるとか、顔と名前が一致するということによるのではありません。神の言葉を聞き、これを行う。この一点に集中するのであります。
もともと、私どもの愛など、本当に貧しいのです。しかしその貧しさにまさって、主イエスが愛を注いでくださいます。執り成しの祈りを続けてくださいます。血を流しながら。すべての罪を赦す愛をもって、私どもの間を執り成してくださるのです。その主イエスの姿を仰ぎながら、そのみ言葉を聞きながら、私どもも、貧しいなりに、愛に生きることができる。愛の共同体として、この教会を作り、家族を作り、また隣人との交わりを造ることができるのであります。
今から、聖餐の食卓を共に囲みます。ここに、この食卓に、主イエスの家族である私どもの姿が鮮やかに現れてまいります。今、主の兄弟として受け入れられていることを、私どもも喜んで受け入れたいと願います。主イエスに対する信仰を言い表し、この聖餐にあずかることこそ、神の言葉を聞き、行うことなのです。お祈りをいたします。
家族ひとり、十分に愛しえない私どもであります。けれども、そこに注がれたあなたの憐れみと、あなたの許しと、あなたの愛と、何よりも私どもを子と呼んでくださるあなたの呼びかけを、心から感謝いたします。今、悔い改めて、あなたの愛を受け入れ、そのようにしてこの食卓を祝います。私どもがあなたによって、主イエスの兄弟・姉妹と呼ばれていることを、今、喜んで受け入れることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈り、願います。アーメン