1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. イエスと共に歩む者たち

イエスと共に歩む者たち

2012年4月8日

ルカによる福音書 第8章1-3節
川﨑 公平

主日礼拝

今朝、主の復活を記念する日曜日に先立って、先週の月曜日から金曜日まで、受難週祈祷会という祈りの集まりを重ねてまいりました。既に何十年と続いている、鎌倉雪ノ下教会のひとつの伝統となっている信仰の営みです。イースターに先立つ受難週の月曜日から金曜日まで、朝に夕に、聖書を読み、祈りを集めます。そして、その間、私ども牧師たちはほとんど説教をすることなく、もっぱら教会の皆さんが聖書を説き明かしてくださる言葉を聴き続けることになります。

実を言うと、私は鎌倉雪ノ下教会にまいりまして3回目のイースターを迎えておりますが、この受難週祈祷会にすべて出席したのは今年が初めてです。1年目は赴任したその日が受難週の木曜日。昨年、2年目の受難週には2泊3日で被災地に出かけておりました。しかも、1年目、2年目にそれでも出席することができた回の多くが、なぜかたまたま牧師の奨励の時で、その意味では、これだけ豊かに、集中して、教会の人たちの聖書を説く言葉を聴くことができたのは、ようやく今年が初めてだったのだと気付きました。

朝に夕に、教会の方たちと共に祈りの集まりを重ね……これは私だけの感想ではないと信じておりますが、心揺り動かされる思いでその言葉を聴きました。少しおかしな言い方になるかもしれませんが、先週語られた奨励の、その半分くらいを、私は涙を抑えることができずに聴きました。本当は、できれば何としてでも我慢したかった。なぜかと言うと、余計なことを観察する人がいたとして、あれ、川﨑先生、あの人の奨励では泣いていたけれどもこの人の奨励の時は平然としているな、ということにもなりかねないわけで、別に言い訳をするつもりはありませんが、残りの半分くらいの奨励はあまり大した内容ではなかったということを言いたいわけではありませんので、念のため。とにかく、ある日の夕食の時に妻ともおしゃべりしたようなことですが、こういう経験を年に一度の機会にとどめるのはもったいないとさえ思います。いかがでしょうか。

今年の受難週祈祷会では、マルコによる福音書第14章、第15章が伝える、主イエスのいわゆる受難物語を読みました。弟子たちに裏切られ、裁判にかけられ、十字架につけられ、という福音書の記事を、これは私が選んだのですが、何の工夫も、何のひねりもなく、ただ単純に読み続けました。私が教会の方たちの奨励の言葉に心を打たれたひとつの理由は、それぞれが、もちろん聖書の言葉と誠実に向かい合う。聖書の言葉を無視して自分勝手なことを語るわけにはいきません。聖書の言葉をできるだけ丁寧に読み、これとまっすぐに向かい合いながら……しかも同時に、自分自身のまことに具体的な状況の中で、それぞれその人だけの特別な歩みの中で、主イエスの受難の記事を聴き取っておられたことでした。何人かの方は、本当に率直に、そのご自分の体験を奨励の中で語られました。思いがけない家族の危機。ほとんど治る見込みのない自分自身の病。忘れることのできない家族の死。この春、神に呼ばれて神学校に入学を許された酒井麻利神学生もまた、その特別な経験の中で、マルコによる福音書の語る主のご受難の記事を、深く聴き取っておられました。その内容をここでひとつひとつ紹介するわけにはいきません。来月の雪ノ下通信にその要旨が載るはずですから、それをお読みくださればよいと思います。

くり返しますが、本当に単純に、マルコによる福音書の主イエスの受難の記事を並べただけです。そこに、朝は困るとか水曜日しか空いていないとか、それぞれの奨励者の都合に合わせて、それぞれ聖書の言葉をあてがっただけですけれども、奨励を聞きながら、この聖書の言葉をこの人に与えてくださったのは神であると、深く感謝したものです。

ひとりひとり、その人だけの生活があります。誰も代わることのできない、その人だけの特別な経験があります。けれども等しく、この人たちは主イエスを愛しているのだということが、本当によく分かりました。主イエスに愛されているのだということが、よく分かりました。「イエスさまに出会えて、本当によかった」。そう思いました。もしこの人が、主イエスに出会っていなかったら、何をしているのだろうと考えると……いや、そんなことは考えることもできない、そんなことは許されない。この人たちが主イエスに出会わせていただいた、その背後には、主イエスのご意志が働いております。主イエスがまず、私どもひとりひとりを愛し、ここに集め、そして私どもをも、主イエスを愛する者としてくださったのです。

教会の人たちの奨励を聞き、それだけではありません、そのあとにはそこに集まる20人、30人、時に40人という人たちが、ひと言ずつ祈りをいたします。ひとつの祈りの輪を作りながら、私は、とても誇らしいと言ってもいいような思いを抱きました。「主イエスよ、どうぞご覧ください。ここにあなたの教会があります。あなたが愛してくださったひとりひとりです。こんなにも深く、あなたのことを愛している教会の群れが、ここにあります。主よ、どうぞご覧ください。あなたの教会です」。

神のみ前に、この鎌倉雪ノ下教会を誇らしい思いで差し出したくなった私の思いは、今日読みました福音書の記事を書いたルカの思いと同じようなものではなかったかと、私は思います。

ルカによる福音書第8章1節から3節までを読みました。イースターの日曜日のために特別な聖書の言葉を求めることをせず、いつものようにルカ福音書を読み進めました。先週、教会の方たちの語る言葉を聞きながら、特に今年は女性の奨励者が多かったこともあるでしょうか、既にこのルカによる福音書の伝える小さな記事を思い起こしておりました。主イエスが町々村々をめぐって伝道の旅を続けておられた。当然のこととして、のちに教会の指導者となった12人の弟子たちも一緒であった。しかしそれだけではありませんで、この主イエスを含めた13人の男性たちの旅の生活を支えるために、共に旅をし続けた女性たちがおりました。2節以下にその紹介を記します。

「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(2-3節)。

自分たちの持っているものを献げて、何よりも、自分の人生そのものを主イエスに献げきるようにして、奉仕の生活に生きた。特に、旅の生活であります。おそらくこういう言い方が許されると思いますけれども、毎日の食事のこととか、洗濯のこととか、寝床の用意とか、こういうこまごまとしたことのお世話は、男性が逆立ちしてもかなわないようなところがあると思います。女性でなければなかなかできないような細やかな心配りをもって、主イエスとその弟子たちの生活を支えた人たちがいたのです。この記事は、ルカによる福音書だけが伝えているものですが、ルカは、そういう女性たちの存在を、まず主イエスがとても重んじてくださったということを、とても尊いこととして受け止めていると思います。

この女性たちの中には、本当にさまざまな人がいたと思います。興味深いのは、ヘロデの家令クザの妻などという人まで現れる。このヘロデというのは、幼子の主イエスを殺そうとした、クリスマスの物語に出て来るヘロデ大王の息子にあたります。洗礼者ヨハネを殺した人物であり、ルカによる福音書第23章によれば、主イエスが十字架につけられる時にも、このヘロデは主イエスをあざけり、侮辱したと伝えられる。そのヘロデの、いわば内部の人間の中から、どういうわけか自分の人生を主イエスに献げきって、共に旅をする女性が現れた。それなりの財産も持っていたのではないでしょうか。いったい、どういういきさつがあったのでしょうか。とにかく、この女性たちひとりひとりに、主イエスとのかけがえのない出会いがありました。その人だけの特別な物語がありました。

この女性たちは、「悪霊を追い出していただいた」という共通点を持つ。具体的にはどういうことであったのか、これはよく分かりません。悪霊のしわざとしか言いようのない、厳しい試練の中にあったということかもしれません。厳しい病のことであったかもしれません。悪霊にひきずられるように、深い罪の中に落ち込んでいたということかもしれません。ヘロデの家の中に住み続けたというヨハナという女性が、どういう悪霊の支配の中にあったのか。どういう解放の出来事を経験したのか。それこそ、教会の集まり、祈りの集まりの中で、自分自身の話をヨハナもしたのではないでしょうか。ひとりひとり、まことに具体的な苦しみがあり、またまことに具体的な自由解放の出来事があったのです。この人たちが、既に1節に記されているような、「神の国」、すなわち神のご支配のもとに立ち、「その福音」、神がここに生きておられるという喜びに触れた時、ひとりひとりにとってかけがえのない、解放の出来事が起こりました。そして、主イエスを愛し、主イエスに仕える者にされたのです。

そして、ルカはここで、昔々イエスさまに出会った女性たちの姿を描くだけでなく、今自分が生かされている教会の姿を描いていると言われます。実際に多くの聖書学者たちがそのように分析いたします。かつての主イエスの働きがここで紹介されるだけでなく、教会の姿の大切な一面がここに現れています。言ってみれば、この教会で言うところの婦人会のような集まりが生まれていたということもできるかもしれませんが、ここは、女性に限定しないほうがいいかもしれません。今日の礼拝のあとのハヤシライスを準備しているのも、実は多くが男性です。この福音書の記事の中に、既に、鎌倉雪ノ下教会の女性たち、男性たちの姿が記されている。主イエスに救われ、主イエスを愛するようになった私どもの姿です。

ここでルカは、特に3人の女性の名前、固有名詞を記録しています。しかしこの3人がどういう人であったか、詳しく説明されることはありませんし、それを私どもが今詳しく調べるすべもありません。それは逆に言えば、当時の教会の人たちにとっては、説明するまでもなく、よく知っている名前だったということでしょう。ルカによる福音書が書かれたころ、まだぎりぎり、生きていた人もいたかもしれません。

こういうことを想像してもよいと思う。最初の頃の教会、教会堂など持たなかったけれども、日曜日の朝になると、必ず誰かの家に集まって、主の日の礼拝をした。そこに、スサンナという婦人がいて、もしかしたらその教会の説教者が、そのスサンナさんを指さして、皆に語ったかもしれない。主イエスは、町々村々を伝道してお歩きになって、12人の弟子たちも一緒であった、そして多くの婦人たちが一緒について行った。このスサンナさんは、イエスさまと一緒に旅をしていたんですよ。いや、もしかしたら、スサンナが自分でも、何度でも、喜んで話したかもしれない。自分がかつて悪霊にとりつかれていたこと、主イエスがいやしてくださったこと、その後一緒に旅をしながら、主イエスの日常の生活の世話をさせていただいたこと。そのことを何度でも喜んで語り続けながら、そしてまた教会の中で、相変わらずこまごまとした奉仕に打ち込みながら、教会の人びとはその姿を通してもまた、主イエスが告げてくださった、神の国の到来を悟ったのではないか。ああ、そうだ、神は生きておられる。その神のご支配が、このスサンナおばさんを生かしているし、私たちを生かしている。ルカもまた、どんなに誇らしい思いでこの女性たちの名前を書き記したことかと思います。

この女性たちの姿は、ここに突然現れ、そしてまた姿を消します。主イエスと弟子たちの、毎日の生活を支えるための、いわば裏方の仕事をし続けただけです。取り立てて、繰り返し記録する必要もなかったのです。けれども、もう一度この女性たちの名が記される場面が、福音書の最後に出てきます。ルカによる福音書に限らず、すべての福音書が明確に記していることは、この女性たちが、最後まで主の十字架のもとに立ち続けたということです。主イエスを墓に葬るのを最後まで見届けたのも、この女性たちでした。ペトロやヤコブ、ヨハネといった、12人の男の弟子たちではなかったのです。彼らは、皆主イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。これは、私どもが福音書の受難物語を読む時に、忘れることができないことです。そして、主イエスがお甦りになった朝も、誰よりも早く主イエスの墓を訪ねて、主イエスのお甦りを告げる天使の声を最初に聞いたのが、この女性たちであったのです。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(第24章5-6節)。

この主イエスのお甦りを告げる言葉を聞いたのは、ルカによる福音書第24章10節以下によれば、「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」。少なくともマグダラのマリアと、ヨハナと、ふたりの名前は第8章に出てきました。「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とさえ言われるのです。その女性たちの姿を、既にここでルカは、どんなに深い思いで書き記したことかと思います。

なぜこの婦人たちは、最後まで主の十字架のもとに立ち続け、主イエスの墓を朝早く訪ねたのでしょうか。理由は単純なことです。主イエスに愛されたがゆえに、主イエスを深く愛していたのです。

主イエスの十字架を最後まで見届けた。そこでこの女性たちが見ていたのは、自分たちの手で、そのお世話をしてきた主イエスの肉体に起こった苦しみであり、痛みであり、死でありました。自分たちの手でととのえた食事をもって養ってきた肉体でした。その汗にまみれた衣服を洗濯してきたのも、自分たちであったのです。

多くの人が、この直前に出てくる、罪深い女と呼ばれる人の物語を思い起こします。罪深い女と呼ばれる人が、自らの涙で主イエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、自分の大切にしていた香油を塗ったという記事がある。主イエスは、その女性の行為を喜んで受け入れてくださり、こう言われました。

「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(第7章44―47節)。

主イエスがはっきり認めてくださったように、この女性は、主イエスを愛したのです。だからこそ、かつて流したことのない涙が流れました。そこにどんなに熱い思いが込められていたことか。この女が、なおそのあとも、毎日のように主の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい続けたとは考えにくいと思います。けれども、主と共に伝道の旅をし、歩き疲れた主イエスの足を、水で洗って差し上げるというような奉仕を続けたと想像することは、むしろ自然なことだと思います。私どもも、どこかで知っているはずの涙であり、私どもも、等しく知っているはずの主イエスに対する愛が、ここに記されています。

この女性たちが十字架のもとで見つめ続けたのは、そのような主イエスの足です。その主イエスの体が十字架につけられ、その足に釘を打たれるのを、この女性もまた目撃したのではないでしょうか。いったいそこで、どのような思いになったでしょうか。けれども、その主イエスが、足に打たれた釘の傷もそのままに、お甦りになったことを知らされた時に、何を思ったでしょうか。

この礼拝のあと、この一年の間に親しい家族を亡くされた方を覚えて、教会から色紙を贈り、慰めの祈りを合わせます。この色紙に、先ほど既にお読みしました、ルカによる福音書第24章の言葉を書いていただきました。主イエスのお甦りを告げる天使の言葉、誰よりも早く、この女性たちが聞かせていただいた言葉です。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。

この天使の言葉があるから、この主イエスのお甦りがあるから、これまでのこの女性たちの奉仕は無駄にならずにすみました。だからこそ、この望みに支えられて、そののちもこの女性たちは教会に生き続けた。お甦りになった主イエスが、今も、自分たちの愛の奉仕を受け入れてくださると信じて。ここに、私どもの教会の物語があるのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、あなたの命のご支配に慰められて、主に従い、主を愛する歩みを始めた女性たちのことを思います。私どももいつのまにか、この主の愛に捉えられて、あなたの教会に生きるものとされました。この尊さを互いに告げあい、そのように互いに慰めあう教会の群れを、なおこれからも、ここに作り続けることができますように。様々な悲しみがあります。どうしても涙が止まらないこともあります。何十年経っても癒えない悲しみがあります。いつも新しく、主に出会い続けることができますように。この教会に生かされている喜びを感謝しつつ、今新たな思いで聖餐に与ります。あなたの命のご支配に新しく気付くときとさせてください。主のみ名によって祈り、願います。アーメン

礼拝説教一覧