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敵を愛する神 

2011年12月4日

ルカによる福音書第6章27-36節
川﨑 公平

主日礼拝

今年も待降節、アドヴェントの季節を迎えました。既に先ほど、讃美歌第二編の96番を歌いました。最も有名な待降節の讃美歌のひとつです。先週落合牧師が司式をした主の日の礼拝においても、同じ讃美歌を歌いました。この讃美歌を歌うと、ああ、クリスマスが近づいてきたんだなと思わされます。私の大好きな讃美歌のひとつです。非常に個人的な、ちょっと変わった感想で恐縮ですが、私はこの讃美歌を歌っていると、イエスさまの足音が聞こえてくるような気がすることがあります。トン、トン、トン、トン、というリズムと、もちろん歌詞の内容とも相俟って、主イエスが近づいて来られる、その足音が聞こえるような気がすることがあるのです。「今こそ来ませ……」その祈りに応えて、主イエスが近づいて来られる。

神の御子、イエス・キリストは、来てくださいました。私たちのところに、幼子として生まれてくださいました。そしてもう一度来られる。必ず来られる。キリストの教会が、クリスマスの前のアドヴェントの季節に伝統的に大切にしてきたことは、主イエスが目に見える形で再び来てくださる、再臨の日を待つ祈りを新しくするということでした。「主イエスよ、来てください」。その祈りをアラム語で唱えると、「マラナタ」と言います。そのような言葉をそのまま歌った讃美歌に親しんでおられる方もあるでしょう。「主イエスよ、来てください」。

このような祈りが特に際立っているのが、新約聖書の最後に収められている、ヨハネの黙示録です。先々週、私がここで説教をした時にも、このヨハネの黙示録の言葉を少し紹介しました。「主イエスよ、来てください」。まさにこのヨハネの黙示録の結びの言葉が、そのような祈りなのです。私も牧師として、いろんな人のいろんな悩みに取り囲まれるようにして生きながら、結局行き着くところは、この「主よ、来てください」という祈りだという思いがあります。先週も実際にある方と向かい合いながら、ヨハネの黙示録の最後の言葉を読んで、一緒に「主イエスよ、来てください」と祈ったことがありました。その時にしかし、私が同時に読んだ、やはりヨハネの黙示録の言葉がありました。第3章20節に、こういう言葉があるのです。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

本当に切実な思いで、主よ、来てください、早く来てくださいとの祈りをしたヨハネの黙示録は、しかし、はるか遠くにいるイエスさまの姿を捉えていたわけではありません。イエスさまの気配も何もないと、寂しい思いをしながら、当てのない祈りをしたわけではないのです。再び来てくださる主イエスは、また同時に、いつも戸を叩いていてくださる主イエスです。

アドヴェントとは、もともとラテン語で、「到来」とか「接近」という意味を持つ言葉です。主イエスは再び来てくださる。しかしまだ遠くにおられるというのではありません。もうすぐそこまで来ておられる。その足音は聞こえる。戸口に立って叩いておられる音は聞こえる。その主イエスの迫りをなお近く知るのが、待降節の恵みであります。

今日読みました27節に、こういう言葉がありました。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」。主イエスの言葉が迫ってくる。近づいてくる。そういうイメージの言葉です。誰よりもまずこの福音書を書いたルカ自身が、主イエスの愛に迫られるような思いで、この言葉を書き記したのではないかと私は思います。今日、27節以下の主イエスの言葉をお聞きになって、皆さんがどういう感想を抱かれたか。しかしここで大切なことは、この言葉を誰が語られたか、ということだと思います。どこの誰か分からない人の、けれども何だかいいことが書いてあるなあ、というような言葉ではないのです。主イエスの言葉、今私どもに、言葉において迫って来られる主イエスの言葉です。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」。あなたは、わたしの言葉を聞いているね。聞こえているね。そのあなたがたに改めて告げる、と言われるのです。

この27節の、「わたしの言葉を聞いている」という、「わたしの言葉」とは、明らかに、20節にさかのぼって理解すべき言葉です。既に先々週、この主イエスの祝福の言葉をご一緒に読みました。

貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである……

貧しさの中に、神の国が飛び込んでくる。飢え渇きの中に、悲しみの中に、主イエスの祝福が迫ってくる。そして、人びとに憎まれる時、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、主イエスの幸いが迫ってくる。「天には大きな報いがある」と23節では言われました。その天における報いが近づいてくると言ってもいいでしょう。わたしが、あなたがたに報いる。

私どもは、人に憎まれることに耐えることがなかなかできません。ののしられ、汚名を着せられることには我慢がならないのです。陰で自分の悪口が言われているということに気づいたりしたら、もうそれだけで、夜も眠れなくなることがあるのではないでしょうか。けれどもそういう私どものこころの扉を、トントントンと、主イエスが叩いておられる。そういう主のお姿をイメージしてもよいでしょう。あなたの苦しみは報われる。私が、あなたに報いる。

そのような主イエスの迫りに、迫られている私どもに、今新しく語られるのです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」。あなたは、今確かにわたしの言葉を聞いているね。聞こえているね。わたしのノックの音が聞こえているね。そのあなたがたに、わたしは言う。

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

非常に単純明快な言葉です。何の注釈もいりません。「敵を愛しなさい」という主イエスの教えがあまりにも有名なので、その一言だけを取り出して、「先生、敵って誰のことですか」と質問をする人に出会ったこともありますが、本当に分かりませんかと、逆に問い返したことがあります。既に主イエスが、誤解のないように、というか逃げ道を作らせないように、十分に説明してくださっています。敵とは、わたしを憎む者のことです。悪口を言う者のことです。わたしを侮辱する人のことです。あるいは、悪気はなくても、どうもこの人と付き合っていると自分が損すると思われる人のことです。そうすると、まあ要するに、すべての人を愛しなさいということだと言い換えてもよさそうですが、やはり主イエスの言葉を丁寧に聴き取りながら、思い当たる人のことを、具体的にひとりひとり思い出すことが必要だと思います

思い出したくない人もいるかもしれません。忘れかけていた、いやなことを思い出させるようなことになってしまうかもしれません。わたしを悪く言う人、わたしを侮辱する人、軽蔑する人……主イエスは、そういう私どもの「敵」と呼ぶべき人のことを、私どもがきちんと思い出すことをも求めておられると思います。そういう意味では、こういう聖書の言葉については、私がくどくど説明を加えるよりも、むしろじっと静かに耳を傾けて、1時間でも2時間でも、密室の祈りをすることが大切だと思います。主イエスが既にこう語っておられる。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(28節)。愛は祈りに始まり、祈りに終わる。その祈りを、実際に声に出してすることは、時に困難を伴うかもしれません。できれば思い出したくない人の名前を、きちんと声に出して祈る。「いいえ、神さま、まだ私はこの人のことを愛することはできません」という祈りになるかもしれない。それならそれでいいと、私は思っています。しかしそういう祈りを、毎日続けることができるでしょうか。くどいようですが、思い出したくない人の名前を、毎朝、毎晩、きちんと声に出して祈るのです。誰にも聞かせられない、密室の祈りです。適当な密室が得られなければ、黙ったまま、しかし心の中でははっきりと言葉に出して祈る。神様、誰山何郎さんのために祈ります……。もしかしたら、これが一番難しいことかもしれません。そうではないでしょうか。

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(29節)。これも難しいって言えば確かに難しいけれども……「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」(30節)。いや、確かに本当に難しいのだけれども、現実にはそうせざるを得ない場合があるでしょう。この人には逆らえない。この人には、いやとは言えない。我慢するほかない。そういう意味で、この主イエスの言葉を実践させられることがあると思います。もちろん、それが愛の名に値しますかと言われればそれまでですが……しかし28節の言葉は、29節、30節の言葉とはまた違った、質的に異なった難しさがあると思います。しかし、なぜ難しいのでしょうか。

ここで、少し話題を変えます。「敵のために祈る」ことの難しさについては、またあとで戻ってきますので、どうぞお忘れなく。私がこの主イエスの言葉について思い巡らせながら、考え続けたひとつのことは、こういうことです。この主イエスの言葉について、正確にはルカではなくて、マタイによる福音書第5章が伝えている同じ趣旨の言葉を、マーティン・ルーサー・キングという牧師が説教しております。つい数年前、新しい翻訳のキング牧師の説教集が出版されて、その中に収められています。このキング牧師について改めて私が紹介する必要もないと思います。言うまでもなく、アメリカの黒人の解放運動に力を注いだ人です。それが理由で、1968年に暗殺されました。そういう差別の中で、愛によって戦うことを説き続けたし、同じ苦しみのなかにある黒人教会の仲間に向かって、わたしたちの敵を愛そうと励まし続けました。この説教の中で、こういうことを言っています。「敵を愛せよという主イエスの言葉は、とても難しいものだと、多くの人が主張してきた。実行は不可能だとさえ言われる。イエスという人の教えはどうも現実離れしていると言うかもしれない。しかし本当にそうだろうか。この世界は、憎しみに次ぐ憎しみで、滅びに向かっているのではないか。この敵を愛しなさいという主イエスの教えは、極めて現実的な教えだ」。そして、こう言うのです。「もうこの世界は、敵を愛さないわけにはいかないところにまで、行き詰ってしまっているのではないでしょうか」。

言いたいことはよくお分かりになったと思います。私も、なるほどと思いました。主イエスの教えは、浮世離れした理想論などではない。現実的な教えだ。しかし私は、多くの人が同意するはずのことだと思っています。少し厳密でない言い方をすることを許していただくならば、人類は、少しずつ、この主イエスの言葉は真実であることを、学んできていると思います。憎しみに次ぐ憎しみ、戦争に次ぐ戦争、争いに次ぐ争い、やっぱりそれは、現実的ではない。それでは世界は立ち行かない。そこで興味深いのは、「われわれは、行き詰っている」という表現です。もうわれわれは、行き詰っている。敵を愛さないわけにはいかないところにまで、この世界は、追い詰められている。行き詰っている。確かに、そうも言えるのです。

そういうことを思いながら、私は何週間も前からこの聖書の言葉を聞き続けてきました。しかし、そこでしばしば知るのは、いざ自分の目の前に敵が現れると、ほとんど反射的にこの主イエスの言葉を忘れてしまう自分の浅はかさです。あとになって、しまったと思うのです。敵を愛するよりも、自分を守ることに力を注いでしまいます。力を注ぐというよりも、反射的に、瞬間的に、本能的にそうなってしまいます。そうすると、ああ、やっぱりこれが自分の現実なのかと、ほとんど自分に絶望しそうになります。そこで何をするのか。祈るのです。名前を挙げて祈るのです。誰にも聞かせられない祈りです。しかし、イエスさまは聞いておられます。祈った時に何が起こるか。そこでこそ、行き詰るのです。主イエスは、「悪口を言う者に祝福を祈りなさい」と言われました。祝福の反対は呪いです。祈りの中で、神よ、この人を懲らしめてくださいと祈れるか。主イエスよ、早く来てください、早く来て、この愚かな人を罰してくださいと祈れるであろうか。もう、そのようには祈れなくなってしまっている自分に気づきます。少なくとも、声に出して祈ることはできません。敵を呪うことは、もう私にはできなくなっている。

それはなぜかと言えば、36節、「あなたがたの父が憐れみ深いように」……。神を信じて生きるとは、神の憐れみを知るということです。今日はこの礼拝の後、午後に行われる長老会で、洗礼を志願しておられるふたりの方の面接をいたします。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということは、何を意味するか。神の憐れみを知るのです。私どもは、この神の憐れみの中で、行き詰まるのです。敵を愛さないわけにはいかないところに、追い詰められるのです。

28節以下の言葉を、既に何度も読みました。けれどももう一度読んでみます。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」。福音書に親しんでいる人であれば、ここで思い出すことがある。どこかで、こういう人の姿を見たことがあるはずです。「悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈り、頬を打つ者には、もう一方の頬をも向け、上着を奪い取る者には、下着をも与える」人。言うまでもなく、主イエスご本人です。たとえば第22章63節以下には、こういう言葉がありました。

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

目隠しをして殴った。そういうことをした見張りの兵士たちは、実はどこかでまだ怖がっていたのではないかと推測する人もおります。目隠しをしないと、安心して殴れない。しかし主イエスは、目隠しをされようが何をされようが、その人のことをよくご存じであったと思います。やり返すことだってできたはずです。すぐにでも天の軍団を呼び寄せることだってできたはずです。けれども主イエスは、ご自身の言葉をそのまま実践なさるかのごとく、黙っておられました。特にこのルカによる福音書が心を込めて伝えているのは、第23章34節の言葉でしょう。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った(上着も下着も、ということでしょう)。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。

……敵を愛しなさい。この主イエスの言葉の前で、何度私どもはつまずくことでしょうか。何度挫折を経験させられることでしょうか。おそらくその挫折の経験は、死ぬまで続くのではないかと思うほどです。けれども私どもは、そういう挫折を経験しながらも、繰り返し、祈りの部屋に入って行きます。自分だけの祈りの場所に入って行くのです。そして、自分を悪く言う者のために祈る。その人の顔と名前を思い出す。そのたびに私どもが思い起こすべきことは、この主イエスが十字架でなさった祈りです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。洗礼を受けるということは、この主イエスの祈りが、まさに自分のための祈りであったと悟ることです。そして私は思います。この主イエスの十字架の前で、私どもはそれこそ、行き詰まるのではないか。追い詰められるのではないか。祈りの時に、私どもに迫ってくる主イエスの迫りとは、このようなものでしょう。私どもが祈るよりも前に、主イエスが祈っておられる。私のためにも、敵のためにも、祈っておられるのです。

私が特にここで、切実な思いで読んだのは、やはり28節の、「悪口」という言葉です。身近であり、切実です。悪口を言われることは、やはりつらいことです。そのつらさを痛いほどに知りながら、しかもいつの間にか自分が悪口を言っていることに気づきます。多くの人が知る現実でしょう。その意味では、37節の言葉も本当は続けて読むべきであったかもしれません。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」。特に痛烈なのは、41節の言葉です。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。すごい言葉です。わたしが人の悪口を言う時、人の目のおが屑を批判する時、わたしの目に入っているのは常におが屑ではなく、丸太なのです。この丸太の太さは、主イエスに祈られている自分であることに気づく時に、初めて見えてくるものだと私は信じています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。この主イエスの祈りの姿に迫られる時に、私どもの歩みも定まってまいります。私どもも、愛する者になる。そのように、追い詰められるのです。

既に長くお話をしてしまいました。しかもまだ、十分に説き明かしていない聖書の言葉がたくさん残っています。しかし今回はそれでよいと思いました。牧師が説き明かさなくたって、十分に、痛いほどによく分かる言葉ばかりだと思います。ただ、なおそこでこれだけはと思う言葉があります。32節以下に、「罪人でさえ」という言葉が重ねられます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」。33節にも、34節にも出てくるこの「罪人さえ」という言葉は何を意味するか。35節に進むと、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と言われますから、少なくともここでは、「あなたがたはもはや罪人ではないね」という意味に取るべきでしょう。そうなると、この罪人というのは、27節に出てくる、「わたしの言葉を聞いているあなたがた」の反対ということになります。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」。けれども、あなたがたは、もう既にわたしの言葉を聞いているね。聞こえているね。忘れましたか。忘れたなら、もう一度思い出してほしい。

今も、主イエスは私どもに近づいて来られます。戸口に立って、叩いておられます。何よりも、み言葉において迫って来られます。この主イエスの迫りの中で、私どもの歩みもきよめられる。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。先ほど取り上げた「罪人」というのは、この神の憐れみをまだ知らされていない者、とも言えるでしょう。しかし今は、私どもも、神の憐れみの迫りを受けました。この神の憐れみに追い詰められ、行き詰まることを、むしろ今は、私どもの幸いとしたいと願います。お祈りをいたします。

今私どもは、あなたの憐れみの中に立ちます。あなたが憐れみ深いように、私どもも、憐れみ深い者となるようにと促されます。憐れみという言葉もまた、この教会に来て、新しく学んだ言葉であります。あなたに憐れんでいただかなければならない私どもであることを知ったからです。主よ、憐れんでください。その祈りから、この礼拝を始め、この新しい一週間を始めることができますように。

既に主イエスの言葉がこの場所に響き始めています。私どもの魂の奥深くに食い込むように、あなたの御子のお言葉が突き刺さってまいります。そこで、私どもがここであなたに祈るべきことも定まってまいります。わたしに悪口を言う者、わたしを侮辱する者、わたしを軽んじる者のことを今ここで思い起こさせてください。まだ赦し合っていない隣人のことを、あなたの憐れみの中で思い出させてください。赦し合うことができますように。赦し合うことができないために、誰よりもあなたの御心を傷つけてしまったことを、今心から詫びることができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン