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神の招きの声

2020年9月20日

川崎 公平
テサロニケの信徒への手紙 一 第2章1-12節

主日礼拝

■今年の4月より、鎌倉雪ノ下教会の牧師として着任してくださった嶋貫佐地子先生の牧師就任式を、ようやくここで行うことができました。すぐれた教師を与えられたことを、皆さんも喜んでおられると思います。ほぼ半年前、嶋貫牧師が着任した最初の日曜日、この礼拝堂に集まることが許されたのはごくわずかの人間だけでした。皆さんもよくご存じの通りです。けれども、その4月最初の日曜日、既に多くの方が、改めて嶋貫牧師の存在に感謝していたのではないかと思います。嶋貫牧師の存在に感謝せずにおれない、ひとつの出来事を覚えておられる方は決して少なくないと思います。半年前に、こういうことがありました。いよいよ本格的に教会堂を閉めなければならないという事態になって、教会員全員のメールボックスの中身を郵送するという作業をしました。そのときに、嶋貫牧師の発案で、小さなメッセージカードを同封しました。嶋貫牧師の描いてくださった、明らかに主イエスの手と分かる右手が、上から差し伸べられている。そしてそこに「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という、詩編第23篇の最初の言葉が添えられて、さらにひと言、「祈っています」とだけ書いてある。そういうカードを、教会員の皆さんには郵送させていただきました。
私自身、そのカードを実際に手にとって、少し感傷的になって申し訳ありませんが、涙がこぼれるほど心を打たれたことを忘れることができません。教会堂を何か月も閉鎖したというのは、皆さんにとっても衝撃であったと思いますが、そういう決断を最終的にした張本人である私が、いちばん恐れていたのかもしれません。こんなことして、大丈夫だろうか。いったいいつまで、こんな生活が続くんだろうか。こんなことして、もしも鎌倉雪ノ下教会を潰しちゃったりしたら、どうしよう。そんなときに、私は、大げさでも何でもなく、神の声を聞いたと思いました。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

本当にそうだ。この鎌倉雪ノ下教会に、今足りていないものなんて、ひとつもないんだ。主がこの教会の羊飼いでいてくださる限り……。たったひと言の聖書の言葉がこんな大きな力を持つのかと、それは私にとって驚きの経験でさえありました。それからしばらくして、ある長老が私にメールをくださって、このような1枚のカードで、これほどの豊かなメッセージを伝えることができるのも、嶋貫先生の賜物だと思うと言われました。私もそう思います。このようなすぐれた賜物を持つ牧師を与えられたことを、改めてこの教会全体の喜びとしたいと思うのです。
しかし今、「嶋貫先生の賜物」という言い方をしましたけれども……「賜物」というのは、もちろんそうであるに違いない。けれども、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という詩編の言葉を読みながら、皆さんの多くは、既に嶋貫牧師の声を聞いてはいないと思います。だいたい半年前に送ったカードというのも、説明がなければ誰の絵なのか、誰がデザインしたものなのか本当は分からないわけで、実は自分たちの牧師の描いてくれた、優しいタッチの絵を眺めながら、しかしそのとき既に皆さんは、神の御声を聴き取っておられたと思うのです。主イエスご自身が、私どもの羊飼いとして、語りかけてくださる。「わたしがいるから、だいじょうぶだよ」。

■今朝はテサロニケの信徒への手紙Ⅰの第2章12節までを読みました。さらにその先の13節には、こう書いてあります。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。

この「わたしたち」というのは、テサロニケで伝道をした伝道者たち、パウロたちのことです。その伝道者たちが神に感謝していることは何かというと……

なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。

テサロニケの人たちは、パウロたちの言葉を聞いた。しかもそれを、人間の言葉、パウロ先生の言葉ではなく、神の言葉として聞き取ったというのです。そして……

事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

嶋貫牧師を通して、神がご自身の言葉を聞かせてくださるというのは、神の約束であります。この神の約束のもとに教会が新しく立つための、牧師就任式であります。そしてまた私どもも、「神よ、わたしたちはこの人から、あなたの言葉を聴きます」と約束するのです。たった今皆さんは、そのような誓約を神の前になさったのであります。「わたしたちはあなたの羊です。あなたの声だけを聞いて歩みます。他の偽物の声には騙されません」。そしてそれはまた、神よ、どうかあなたの声を聞かせてくださいという祈りにもなるだろうと思います。

■先ほど読みましたテサロニケの信徒への手紙Ⅰというのは、先月から礼拝で読み始めたもので、その意味ではたまたま、今朝第2章を読むことになりました。牧師就任式にいちばんふさわしいみ言葉を、神が与えてくださったと思います。たとえば冒頭の1節に、「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」とあります。パウロたちがテサロニケに行ったことは、無駄ではなかったというのです。鎌倉雪ノ下教会が嶋貫牧師を招聘したことは、決して無駄ではなかったと私は確信しております。それはなぜかと言うと、パウロはこのテサロニケにおいて起こった出来事について、第1章5節でこのように書いています。

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

以前この箇所を説教したときにもお話ししましたが、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは」、と訳されているところの原文の表現は興味深いもので、「福音が起こった」と書いてあるのです。福音という出来事が起こった。先ほど読んだ第2章13節の表現で言えば、神の声を聞くという出来事です。
その出来事の性格をたいへんよく表しているのが、これは聖書に印をつけてもよいくらいだと思いますが、ひとつは第2章3節の「宣教」という言葉です。「わたしたちの宣教は」とあります。なぜこの言葉に印をつけたくなるかというと、この3節の「宣教」と同じ言葉が、12節では「呼びかけて」と訳されているのです。11節から読みますと、「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて……」。そのような、父親のわが子に対するような呼びかけについて、3節では「わたしたちの呼びかけは」、あるいは「わたしたちがあなたがたに呼びかけたのは、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と言っているのです。
この「呼びかける」という言葉は、新約聖書において多くの場合、「慰める」と訳されます。「父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人を慰めて……」。この言葉については、もしかしたら皆さんの耳にたこができるほど繰り返し説明しているかもしれませんが、いちばん基本的な意味は、「そばに呼ぶ」という言葉です。こっちにおいで。父親が子どもをそばに呼ぶように、「お前もこっちにおいで」。
そのような伝道者の呼びかけを、テサロニケの人たちが聞いたとき、彼らはそれをただパウロという人間に呼ばれているとは聞き取りませんでした。ああ、神がわたしを呼んでおられるんだ。12節の最後の言葉で言えば、「神はあなたがたを招いておられます」。その事実を知ったのです。神の御子、イエス・キリストが、わたしの羊飼いでいてくださるから、わたしには何も欠けることはない。それは既に、ひとりひとりの人生をひっくり返すほどの大きな出来事であったと思います。わたしを呼んでくださる神の声を聞いたのです。そのために、伝道者という人間の口が用いられるとするならば、その伝道者というのはいったい何者か、ということについて、もう少し丁寧に考えなければならないだろうと思います。

■この聖書の箇所で、ひとつ際立っていることは、ここでパウロは自分たちを正当化するような言葉を、ずいぶん丁寧に重ねているということです。既に読みましたように、3節で「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と言うのです。同じような趣旨の言葉が5節にも、6節にも、7節にも、そしておそらく9節も10節も、ということは要するにこの段落全体が、自分たちの活動を正当化するための言葉であると、そう読むことができます。
いったいどうして、ここまで言わなければならなかったか。そこで多くの学者が指摘するのは、当時のギリシアで広く見られた、一種の宗教商売のような現象をパウロは意識しているのだということです。ギリシアの旅する哲学者たちが、何を食い扶持にしていたかというと、とにかく慰めを語った。死の悲しみに打ちひしがれている人がいれば、その悲しみを乗り越えられるような慰めを語り、慰めることに成功すれば報酬をもらえる。そういう時代の中で、パウロたちの伝道も、また新しいタイプの宗教商売のように見られていたところがあったのかもしれません。そういうことを考えると、やはり3節の最初のところは、「わたしたちの宣教は」と訳すよりも、「わたしたちの慰めは、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と訳した方がよかったような気がします。哲学者たちの語る慰めと、自分たちが神から委ねられた慰めを対比しているのです。
こういう説明を聞いても、皆さんはもしかしたらぴんと来ない、何だか妙な気持になるかもしれませんが、私はそういう学者たちの説明を読みながら、むしろこれは非常に現代的な問題ではないかと思いました。私どもの周辺にも、いろんな慰めの言葉があり、しかもそれが商売の道具になっているという現象は、いくらでも見つけることができます。こうすればあなたの人生、もっとよくなりますよ。こういうふうに考え方を変えるだけで、言葉遣いを変えてみるだけで、人生うまくいきますよ。今持っているものを整理するだけで、あなたの人生まで変わりますよ。念のために申しますが、そういう世の知恵の言葉のすべてが、全部でたらめだ、などと言うつもりはありません。本屋さんに並んでいるそういう類の書物がすべて、「迷いや不純な動機に基づく」、単なる金儲けの手段でしかない、とまで言い切る必要はないだろうと思います。
問題は他人ではなく、私どものことなんで、われわれ伝道者が何を語っているか、教会がどういう種類の言葉を聞いているか。何よりも、ここでパウロがいちばん問題にしていることは、自分たちは誰の委託を受けてその言葉を語っているのかということなのです。4節。

わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

先ほどの牧師就任式の中にも、「牧師は神の委託を受けて」という言葉がありました。この事実が、伝道者の語るすべての言葉を規定します。われわれ牧師にも、誘惑があるものです。「迷いや不純な動機に基づくものでもありません」とありましたが、そういう迷いや不純な動機を生む、いちばんの原因は、「人に喜ばれる」言葉を語りたい、たとえばギリシアの旅する哲学者のごとく、人に喜ばれる慰めの言葉を語りたい、ということでしょう。5節にあるように、「相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったり」、そういう誘惑があるものです。けれども、今嶋貫牧師が就任式の中で、神の前に立たされて、そこで神から求められたことは、結局のところ、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただく」、そのような言葉を語ることです。
これは、場合によっては、少しきついものの言い方にもなるかもしれません。私のような者が高いところに立って、別に私は、皆さんを喜ばせようなんてことは眼中にないのだ、と言っているわけですから。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので」、だからこそ、また「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて」、けれどもその言葉の真実は何に根ざすかというと、わたしたちは、神の委託を受けて語っている。人間を喜ばせる言葉ではなく、神に喜んでいただくために語っているのだ。
そのような言葉を……パウロたちが語った言葉が、そのような言葉だったからこそ、テサロニケの人たちは、決して、パウロたちの呼びかけを人間の言葉とは聞き取らなかったのであります。神が、わたしを呼んでいてくださる。「主がわたしの羊飼いでいてくださるなら、わたしには、何も欠けることがない」。
テサロニケの人たちがこの手紙を受け取ったとき、パウロたちは既に数か月前に、激しい迫害を受けて町から追い出されておりました。いわゆる無牧の教会に送られた手紙です。その意味では屁理屈を言えば、あまり牧師就任式にはふさわしくないと言えなくもないかもしれません。けれども、パウロたちがテサロニケに行ったことは、決して無駄にはなりませんでした。牧師が教会からいなくなったとしても、「主がわたしたちの羊飼いでいてくださるなら、何も欠けることはない」のであります。そのために、今私どもの教会も、神の言葉を聞き続けます。神がその御言葉をもって、私どもを生かしてくださるのです。伝道者の口を通して。これは、神の確かな約束なのであります。お祈りをいたします。

教会のかしら、主イエス・キリストの父なる御神、私どもはあなたの言葉によって生きています。今新しく迎えた牧師を、あなたのみ手からいただきながら、その信仰と望みを新しくさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン