1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 神さまはどこにいるここにいる

神さまはどこにいるここにいる

2022年11月20日

中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第14章6-25節

主日礼拝

教会は、神さまの愛によって造り上げられた群れです。私たちは、主の愛を受け、それをまたささげながら、教会が造り上げられていきます。

コリントの信徒への手紙は、教会とはどういうところか、礼拝をどうささげていくか、教えている手紙です。生まれたてのコリント教会の皆に対して、伝道者パウロが、教会とは、礼拝とは、こういうものだ、そこはっきりしておこう、と伝えるのです。

さて、皆さんは、何のために、教会に集っていますか。何のために礼拝をささげ、教会生活をしていますか。ぱっと質問されたら、様々な答えがでるでしょう。実際に聞いてみましょう。神さまの愛を受けるため。神さまに愛をお返しするため。イエスさまを伝えるため。安心するから。ほっとするから。慰めをうけるため。行くように言われたから。

さまざまな目的が挙げられています。それを、まとめられる可能性がある。それは、今日一緒に読んだコリントの信徒への手紙で、何度も言われることです。実は、繰り返し語られる言葉があります。それは、「造りあげられる」という言葉です。教会が、造り上げられる、キリスト者が造り上げられる。これが、私たちが教会に集う目的なのです。

なんとなく、で教会に集まっている人でさえも、この教会という礼拝の仲間を形作るために、力を尽くしていることになります。そして、実際に奉仕をしている仲間がいる、長老、執事、教会学校教師、新しいものなら、夕礼拝コアメンバーたち奉仕者、そして、一人一人、祈ることで教会が造り上げられるために力を尽くしている仲間もいる。

では、教会を造り上げることの反対とはなんでしょう。自分を造り上げるため、ということになります。もちろん、教会に来るきっかけが、自分の教養を高めるため、という人もいるかもしれません。しかし、その人も、ある時には、自分のことだけを考えるのではなくなる。もし、教会全体が「自分を高めよう」という思いだけを持つようになったら、教会は教会でなくなってしまいます。

ただし、私たちのどこかに、自分を高めようとしてしまう誘惑が潜んでいることもまた事実です。牧師などだって、そうでしょう。自分の話すスキルが上がればいいな、と願うこともあります。

実は、コリント教会に、そのような「教会を造り上げる」以上に「自分を高めたい」という誘惑が起こっていたようです。それは、礼拝で異言を語ることが、多く起こっていたことから、見いだせる問題です。

異言とは、神さまに向かって、語る言葉で、他の人には理解できないような言葉で語るものです。コリント教会では、神さまに礼拝をささげる中で、神さまの霊に満たされて、そのように異言の言葉をほどばしるように語る、そのような者が、何人も出る、そういう礼拝が捧げられていたようです。

パウロはその状況に関して、アドバイスをしています。異言は、解釈する必要がある。むしろ、はっきりとした伝わる言葉で伝えていく、預言の方が、今のコリント教会に必要ではないか、と。預言、それは、神さまのことを、はっきり伝わる言葉で語る言葉です。

6節から、楽器の譬えも使いながら、パウロは説明している。

ここで確認したいことは、異言が全否定されているわけではないということです。パウロ自身が、だれよりも異言を語ることができました。ただ、パウロは、今のコリント教会のみんなでささげる礼拝では、預言こそ大切ではないか、と伝えているのです。

16-19節。

もしかしたら、コリント教会では、異言を自分のことを高める目的で語る者がいたかもしれない。あの人は、あれだけ異言が語れる、神さまからすばらしい力をもらっているのだ、と誰かに言われることを、心のどこかで望んでいた可能性がある。もし、それを互いにしていって、礼拝が競うかのように異言を語る時となってしまっては、新しく教会に来た人がどうやってイエスさまのことを新たに知ることができようか。

むしろ、パウロは、シンプルな言葉であっても、誰でも分かる言葉で、5つの言葉でもいいから、人に神さまの言葉を伝えていきたい、それによって教会を形作っていきたいのだ、と伝えるのです。

ともかく、私たちは、教会を造り上げるという目的のため、言葉を尽くすのです。

20節からは、興味深いことが記されています。

20-22節。

これまでの議論と反対のことを言っているかのよう。

これは、イザヤ書の28章の言葉を思いながら書かれた言葉です。かつて信仰を持っていたはずの北イスラエル王国の民が、神さまから離れ、偶像に染まり、堕落してしまった時、神さまは外国の言葉によって、その者たちに語り掛けたということです。異言が、その者たちの不信仰を、指摘するしるしとなった。

そのような異言が私たちの不信仰を正すために用いられることを、パウロは伝えます。

教会の時代によって、どんな言葉を語ればいいか、吟味する必要があるということです。その時代の教会に、どんな言葉が必要か。

民数記の出来事。

皆が語るようになった。共同体のために。ヨシュアを正すモーセ。預言、という言い方をするが、異言の要素もあった。

コリント教会の具体的な状況も記されている。教会が造り上げられていく様子。

23-25節。

「皆」という言葉が繰り返されている。

説教者だけが預言者ではない。皆で、新しい仲間を支えていく。

イエスさまご自身の歩みを振り返ってもいい。言葉を時に分かりやすく、分かりにくく。十字架という究極のしるし、出来事。それによって、私たちに愛を示してくださった。言葉を尽くして、行いを尽くして、愛を注いでくださった。そして、それを皆が伝えられるようにしてくださった。

実際の伝道の歩みがある。教会学校、入門講座、夕礼拝。そして、皆で、喜ぶ時が来る。

皆で、神さまの言葉を伝えましょう。教会を、イエスさまの体をさらに造り上げるために。