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時間ですよ、帰らないと

2022年10月2日

川崎 公平
マルコによる福音書 第1章14-15節

 主日礼拝

■福音書と呼ばれる文書の中でも、最も早く書かれたと言われるマルコによる福音書を読みながら、礼拝の生活を作っています。その最古の福音書が伝える、最初の主イエス・キリストの言葉を読みました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。これは、決定的な重みを持つ言葉です。マルコという人が、神から志を与えられて、福音書を書こう、イエス・キリストの福音を書こうとしたときに、まずこのような主イエス・キリストの言葉を書き記すのです。それは、たまたまこのとき、一回だけ、主がこういうことをおっしゃったというのではありません。そうではなくて、マルコの意図からすれば、このあといろんな主イエスのみわざを伝え、み言葉を伝え、そのお姿を描くときに、このお方のどの部分を切り取っても、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というキリストのみ声が聞こえてくるはずだ。そういう思いがあったに違いないのです。主イエスが病人を癒やされたり、嵐を静められたり、そういう主イエスの姿を描くときにも、「神の時が満ちたのだ。ここに、神の国は近づいたのだ」というキリストのみ声を聞き取らなかったら、何の意味もないのです。主がいろんな譬え話をなさり、あるいはファリサイ派と激しい論争をなさったときにも、「まさにここに、神の国が近づいたのだ」と悟ることがなければ、悟って、福音を信じて、悔い改めることがなければ、本当に福音書を読んだことにはなりません。何よりも、主イエスが十字架につけられたとき、またその三日後にお甦りになったときに、「神の時は、このようにして満たされたのだ」と、いつもこの第1章15節の主のみ声を聞き取っていることが大切です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

短い言葉ですが、福音書全体、というよりも私どもの信じる福音全体を支えるような重みを持つ言葉です。今朝はこのひと言ひと言を、時間の許す限り丁寧に聞き取りながら、礼拝の心を作らせていただきたいと思います。

■さてそこで、主がここでおっしゃった第一のことは、「時は満ちた」ということです。これは聖書独特の表現だと思いますが、意味はすぐに分かります。決定的な出来事が起こる。その時を満たしてくださるのは、神である、ということです。私がふと思いましたことは、日本語にはもうひとつ「月が満ちる」という言い方があります。夫婦に子どもが与えられて、何月何日が予定日ですよ、と教えられて、十月十日などと言いますけれども、その間、周りの人間はずっと時が満ちるのを、月が満ちるのを待ちわびるでしょう。いつ生まれるのかな。どんな子が生まれるのかな。なかなか予定通りになんかいかないので、本当に赤ちゃんが生まれるときは、分かっていたってやっぱり突然です。ここで主が言われた「時が満ちた」というのも、それに似たところがあるかもしれません。ただ10か月という物理的な時間が意味もなく経過したということではなくて、この「時」というのは特別な中身のある時間。その「特別な中身」というのはもちろん、神が時間の中に、その特別な中身を作ってくださるのです。

言うまでもないことですが、ここで主が「時が満ちた」と言われたのは、10か月というような短い単位ではなくて、もっともっと長い時間を背景に持っています。先週と同じ話題で恐縮ですが、昨日から聖書通読会4巡目が始まりました。今回は、新しい翻訳で聖書を読んでみようと、気持ちを新たにしておられる方も多いかもしれません。聖書を最初から最後まで通して読んでみると、改めて気づかされることですが、聖書というのは、実はその大部分が旧約聖書なのです。そしてその旧約聖書というのは、実はどの頁を切り取っても、「時が満ちる」ことを待ち続けています。旧約聖書だけを読んでも、決して本当の意味で満たされることはないし、逆に新約聖書だけを読んでいたって、いったい何が満たされたんだか、さっぱり分からないということにしかならないだろうと思います。

神の民は、神の救いの時が満ちるのを待ちながら、けれどもたいへんつらい歴史を重ねなければなりませんでした。それが旧約聖書の語るところです。痛みに耐え、悲しみに耐え、何よりも取り返しがつかないような罪を重ねなければなりませんでした。その間、多くの預言者が神によって遣わされて、神の救いは必ず来る、望みを失うなと語りながら、人びとは時が満ちるのを待ちながら、その日を見ることなく死んでいきました。福音書を読んでおりますと、ファリサイ派という、主イエスといちばん険しく対立した人たちが出てきますが、この人たちは、すべての人が神を信じなくなったとしても、自分たちだけは神の救いを待つ。時は必ず満ちるのだ、神が満たしてくださるのだと信じ続けた人たちです。ところが、そう信じていても、いざ本当に時が満ちたときには、分かっていたってやっぱり突然なんです。

「時は満ちた」。その時を満たしてくださるのは神であって、その時がいつであるかを決めるのも神なのです。これ以外の時は考えられない。これより早くてもだめだし、遅くてもだめ。神がお定めになった時に、主イエスはおいでになりました。私どもはしばしば、神の救いは遅すぎると文句を言うことがあると思います。なぜもっと早く助けてくださらないのかと。けれども神のお考えは、私どもの狭い了見とはまったく違うので、そのことを表すひとつのことは、14節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と書いてあることだと思います。もしかしたら主イエスご自身、もうずっと前から、10年だか20年だか、神よ、いつですかと祈り続けておられたかもしれません。ところがあるとき、神から遣わされた洗礼者ヨハネが現れた。たいへん激しい言葉で神の民の罪を撃つ言葉を語り、主ご自身もまたヨハネのもとで洗礼をお受けになったのです。ところが、これはマルコによる福音書では第6章に書いてあることですが、そのヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられ、遂に獄中で首を切られるということが起こります。それで主イエスは、「時は満ちた」と言われたのです。ヨハネが捕らえられた。あるいは殺された。「そうだ、今こそ、神の救いの時が満ちたのだ」と言われたのです。これは、たいへん分かりにくいことかもしれません。もしかしたら、いちばん納得できなかったのは洗礼者ヨハネかもしれません。ええ? そんなこと言われたって、俺、もう首切られちゃったよ? もう少し早い時にできなかった?

ここに「ヨハネが捕らえられた後」と書いてありますが、もしかしたらここはきちんと直訳して、「ヨハネが引き渡された後」とした方がよかったかもしれません。聖書にある程度親しむようになると、「引き渡される」という言葉がしばしば出てくることに気づきます。今日もこのあと聖餐を祝いますが、その時に必ず読む言葉は、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて」と言うのです。主イエスが捕らえられ、十字架につけられ、殺されるという一連の出来事を、「引き渡される」というひと言で言い表そうとするのです。イスカリオテのユダの手によって引き渡され、裁判に引き渡され、十字架に引き渡され、墓の中へと引き渡され……しかも、そのようにイエスを引き渡しておられるのは、実は父なる神ご自身である。そのような信仰を込めた表現です。

そのイエスに先立って、まずここでヨハネがヘロデの手に引き渡される。死の手に引き渡されたのです。しかも、もう一度申します、ヨハネを死に引き渡したのは、少なくともそれを許しておられるのは、神ご自身なのです。

主イエスは、ヨハネが引き渡された、あるいはヨハネが首をはねられたというところまでお聞きになったかもしれません、その時、その出来事の意味を明確に悟られたに違いないのです。まさしく、時が満ちたのだ。人間の罪が、これ以上考えられないほどに満ちたとき、神の恵みもまた満ちあふれました。主イエスはそのとき、ご自分が何をしなければならないか、何を告げなければならないか、それをいよいよ明確に自覚なさったと思うのです。

■そこで主が言われた第二のことが、「神の国は近づいた」ということです。神の国とは、神が王としての支配をなさるということです。領土とか領空とかいう意味ではありません。ですから「近づいた」と言われるのです。神が、あなたの支配者として近づいて来られる。迫って来られる。しかし、どのくらい近いのでしょうか。皆さんは、神の支配の近さを、どのくらい近くに感じ取っておられるでしょうか。

ある人は、この「神の国は近づいた」という事柄をこのようなイメージで捕えようとしています。海の上で難破した人たちが無人島に流れ着いて、いつ助けが来るか分からないようなところで、いつの間にかずいぶん長い間、その無人島で何とか生き延びてきたというのです。食料や水を確保するのだってたいへんです。暑さ寒さに耐えながら、何とか雨露をしのぎながら、時には食べ物や水をめぐって深刻な争いも起こります。争いが高じて、殺し合いだってしたかもしれない。いつか、どこからか、救いの船が来たりしないかなあ……。もう何年ここで生活しているんだろう。そういう生活を長くしているうちに、本当は自分たちがどこの国の人間なのか、自分たちの本国がどこにあったのか、忘れかけてしまうかもしれません。ところが、ある朝、何人かの人が気づきます。おい、見ろよ、船だ! すごい豪華客船だぞ! おーい、こっちだ、助けてくれー! 幸いなことにその船は、明らかに、こちらに向かっている。「神の国は近づいた」。それはたとえば、こういう情景に似ているだろう、と言うのです。

たいへん興味深いことに、いくつかの聖書の翻訳を比べてみると、もちろん大多数の翻訳は「神の国は近づいた」と訳しているのですが、その一方で「神の国は〈来た〉」と訳してしまっているものがいくつもあります。「神の国は、あなたがたの手の中にある」とさえ訳しているものもあります。理屈から言えばそれはおかしい、と考えるかもしれません。神の国は「近づいた」のであって、たとえば無人島に向かって大きな船が、近づきつつあるけれども、まだ来ていない、まだ到着はしていないのです。けれども、私は外国語のことはよく分かりませんが、少なくとも日本語では、そういうときに、「船が来た」という言い方をするでしょう。海の向こうに助けの船を見出した人は、島中走り回って他の人にも伝えに行くでしょう。そのときに、「助けの船が来つつあるぞ! いや、まだ来てないけど、『来た』とは言えないんだけど、そのうちきっと来るでしょう」なんて言い方をする人はいないので、「船が来たぞ!」としか言わないのです。

それと同じことです。神の国は、来たのです。いつ来るか分からないけど、どうも近づきつつあるらしい、というような頼りない話ではないので、決定的に近づいた。

私どもの毎日の生活も、まるで無人島でサバイバルをしているような、恐れと、不安と、争いに満ちた生活でしかないかもしれないのです。そういう救いようがない生活をしているうちに、いつの間にか私どもは自分たちの本国がどこにあるのか、本当は神の国の国民なのに、そのことを忘れてしまっているのではないでしょうか。けれども、福音書の語ろうとすることは、主イエス・キリストのみわざを思うとき、そのみ言葉に耳を傾けるとき、何よりもその十字架と復活の出来事を思うとき、神の国は来たのだ。神の支配は、このわたしのところに、決定的に近づいたのだ。それをここで主イエスは、「福音」と呼んでおられるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」。福音、喜びの知らせであります。

■この喜びの知らせを聞いたなら、私どもの生活は変わらないわけにはいきません。無人島でみじめな生活をしていた人たちと同じです。自分たちの手には、必死でかき集めた食料やら何やら、考えてみればたいへんつまらないものを、他人を殴り倒してでも手に入れてきたかもしれないのです。けれども、見よ、救いの船が来たぞ! まだ正確には来ていないのです。本当に船が到着するまでには、まだしばらく時間があるのです。けれども、確実に近づいてくる。神の国は、神の支配は、決定的な近さに迫っている。その喜びの知らせに迫られたなら、どうしたって私どもの生活は新しくならないわけにいきません。それをここでは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言っているのです。

聖書の教える悔い改めとは、ただ悔いることではありません。自分の悪かったところを改めよう、という話ではないのです。そうではなくて、「向きを変える」というのが、もともとの言葉の意味です。根本的な向きが変わらなかったら、何をどう悔いても、何をどう改めてもだめです。無人島でのサバイバル生活には、厳しいことも多いですから、生きるためには、隣人に対してひどいことをやったり、残酷なことを言ったりすることもあるでしょう。私どもの毎日の生活が、まさにそうなのです。そういう自分の生活を反省してみて、やっぱりそれは間違っていた。これからは気をつけよう、みんなと仲良く生きていこう、というのは、聖書の教える悔い改めとは何の関係もありません。もっと根本的に、自分の存在全体の向きが変わるのです。神の救いの船が近づいてきたのですから、その姿が見えたのですから、その知らせを聞いたのですから、その喜びに向かって、今申しましたように「向きを変える」のです。

向きを変えると言われても、何だか分かったような、分からないようなところがあるかもしれませんが、ここでは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。悔い改める、つまり向きを変えるというのは、丁寧に言い直すと、何を信じて生きるのか、その信じる方向が変わることだと言うことができます。これまではこっちのものを信じていたけれども、これからはこっちのものを信じる。これまではお金の力を信じていた。自分の健康を信じていた。人間関係の力を信じていた。身分、家柄、能力、あるいは人間の愛を信じていた。けれども神の救いの船が近づいた今は、信じるものが変わるのです。悔い改めて、心と体の向きを変えて、イエス・キリストの福音を信じるのです。

そのために、私どもは福音書を読むのです。主イエスが病人を癒やされたり、嵐を静められたり、そんな姿を読みながら、「神の国は、このわたしのためにも近づいたのだ」と、そのことに気づかないわけにはいきません。そうしたら自然と、私どもの生活もまた変わってくるでしょう。主が十字架につけられたこと、お甦りになったことを読みながら、「時は満ちたのだ。今はもう、これまでとは違うのだ」と信じて、そうしたら私どもの生き方も、死に方も、根本的に新しくなるでしょう。もちろん私どもは、神の国が近づいたからって、やっぱり今まで通りの生活を続けるのです。船は確実にこちらに近づいてきているのですが、まだしばらくは、無人島で食べていかなければならないのです。ですから私どもは、何だかんだ言っても、お金がなかったら生きていけないし、健康だって大事、人間関係だって大事です。けれども問題は、あなたは何を信じて生きるのか。「悔い改めて福音を信じなさい」。

そんな私どものために、既に与えられている歌があります。「マラナ・タ、マラナ・タ」、主イエスよ、来てくださいと、聖餐を祝うたびに私どもはこの祈りを新しくします。私どもが、今何を信じて生きているのか。悔い改めて、向きを変えて、新しく喜びの中に立ちたいと願います。お祈りをいたします。

 

主イエスよ、あなたは私どものところに来てくださいました。私どもが決して捨てられた存在ではないことを、神に愛された神の子であることを、今悔い改めて、信じる者とさせてください。あなたの救いが、あなたの支配が、あなたの愛が、こんなに近くまで近づいたのに、それでも罪のみじめさに生きる私どもを憐れんでください。今、聖餐を祝います。「これはわたしの体、これはわたしの血」と告げる主の御声を聞きます。こんなにも近く、あなたが共にいてくださるのですから、私どもも、悔い改めることができます。あなたの喜びの中へと帰って行くことができます。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン