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一粒の麦

2023年12月10日

ヨハネによる福音書 第12章20-26節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

クリスマスを迎えようとしています。
誰もが、あの馬小屋の中に入って。その中に足を踏み入れて、飼い葉桶の中を覗き込みたくなるような、そんな気持ちになるこの時に、この御言葉を聴くことになりました。
一粒の麦。
この方は一粒の麦。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)

主イエスが死を直前にして言われた言葉です。これを文語訳で覚えておられる方も多いかもしれません。

「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。」

これはこう言われているのです。
一つの犠牲により、多くの実を結ぶ。

この言葉に感化を受けた人はとても多いのです。著名人の中にも多く見られます。この言葉は、文学作品にも記されまして、多くの人が一瞬にして心を掴まえられて、いったいこれはどこから来た言葉なんだろう。いったい誰が言ったんだろう。――そうして、忘れられなくなり、その人は人生を変える決断をする。自分の命を見つめて、その人は人生を変える。自分を犠牲にしてまでも、他の人を助け、見ず知らずの人までも助けて、生涯をまっとうする。そんな人が世界にも、そして身近にも、たくさん生まれてきたのです。ほんとうにこの一粒の麦から、多くの実が成りました。

けれどもこの御言葉の本当に受け取らなくてはならないことは、このお方の従順であります。

父なる神様のお気持ちに生きて、父なる神様のお気持ちに死ぬ。神に仕える、神のしもべです。それが一粒の麦の正体であって、この清さの正体であって、ほんとうはそれが人の心を打ち、ほんとうはそれが人の心の中に入ってくるのです。

でもそのために、一粒の麦は自らを低くして、苦しみを受けなければなりませんでした。クリスマスはそういうことなのだろうと思います。神の御子はこのために降って来られて、人の子となり、そして地に落ちました。地に落ちるというのはもちろん、死を意味しますけれども、それは地中深くに入るということで。陰府にまで降るということでした。けれどもそこまで降った命が、罪の贖いの力を持ったから、

だからその殻が破けて、新しい命が出て、柔らかい芽が吹き出しました。多くの命が、この死から、生まれてきたのです。それはこれまでの命とは違って、主イエスがここで約束をされているとおりに、「永遠」という命をいただいた、もう朽ちてしまわない命をいただいた、麦たちの大収穫となったのです。

このお言葉は主イエスが異邦人に対して言われたことでした。すなわち私どもと同じ、ユダヤ人ではない人たちに、主イエスが言われたことでした。主が十字架につかれるために、エルサレムにお入りになった、最後の一週間、過越の祭でたくさんの人がおりましたが、そこに神を信じるギリシャ人もいて、つまり異邦人がいて、主イエスにお目にかかりたいですと願いました。その願いを主がお受け取りになって、そしてこのことを話されたのです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。」(12:23)

その時が来た。一粒の麦は死ぬ。そして多くの実を結ぶ、と。

このヨハネ福音書の第4章に「刈り入れを待つ畑」のお話が出てまいりますが。それは「刈り入れまで4か月」とあることから、麦畑ではないかと思われます。そのとき主イエスの目には、伝道の実りとして、金色に輝く、一面の麦畑が見えた。そうして主イエスは弟子たちに、将来こんなふうになるんだと、ほら、こんなに色づいて刈り入れを待っていると言われて。世界に広がる神様のビジョンを見せてご覧になって、それはすなわち、主イエスがその時からもう、異邦人のこともご覧になっていて、それはすなわち、私どものことも、主はご覧になりながら、そのために私は死ぬとおっしゃった。「一粒の麦は地に落ちる」。そして死ねば、あなたが生まれる、と、私が死ねば、あなたが生まれると、おっしゃったのです。

そしてそのあなたに、「私に従って来なさい」(12:26)と、主は言ってくださいました。

「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」

主は「私に従うこと」と、それから「私に仕えること」をお求めになりました。主イエスのお傍にいて、主イエスに「仕えること」です。いわば、私のように「仕える者となれ」と言われている。「私に従え」ということは、私と同じことをしなさいということであります。

でも、「仕える」ということは、どういうことでしょう。もしかするとそれは、私どもの苦手の一つではないでしょうか。案外できないのではないでしょうか。誰かに仕える。その人の下になる。仕えているつもりがどこかでやってあげていると思ったり、なぜ自分がこんなことを。なぜ自分がこんな目に。誰かの上になることは簡単にできるのに、誰かの下になることはほんとうに難しい。

でも主イエスが言われた「仕える」というお言葉は、食卓の給仕をすることから始まって、それこそ食事を作ったり、世話をしたり、支えたり。おむつを替えたり、歯を磨いたり、そういう、慈愛の行為、全般になった言葉です。そうすると、「仕える」ということは、慈愛がないとならないのだということがわかります。愛がないとならないのだとわかります。愛がないと「仕える」ことはできないのだということがわかります。

だけどもその時、主イエスがこんな約束をしてくださいました。「そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」(12:26)

この最も小さな者の一人にしたのは私にしたのである(マタイ25:40)と、主は他の所で言われていますけれども、そうやって「私に仕える者」は、「私のいる所に」いることになる。なんていいお言葉をいただいたのでしょう。

私のいる所に、あなたもいることになる。

そして私はこの「私に仕える者も」と主が言われた、その「も」が大事だと思いました。私に仕える者「も」、その者「もまた」私のいる所に、いることになる。

これは、永遠の命の所に至る。と言えるのですけれども、「私に仕える者」は永遠の命に達する(12:25)。そういうことなのですけれども、でも、私はこれでまた思ったのです。

私どもは、よく、イエスさまが一緒にいてくださると言います。イエスさまが私と一緒にいてくださる。ほんとうにそうなので、ですけれども、それは自分の所に、主がいてくださる。だけど、主イエスはそれを逆転してくださって、私の「いる所に」、あなたもいることになると、言ってくださいました。

これを愛に変えてもいいと思うのですが。イエスさまは自分を愛してくださっていると、思うけれども、それはすなわち、私どもが主を愛しているか、ということになります。

私どもが誰かに仕える時、それこそ、その人の下になって、しもべのように仕える時、その時、愛が問われていて、それも主への愛が問われていてそれで、あなたが誰かにほんとうに仕える時、そうして私に仕える時、私のいる所に、あなたもいることになると。嫌なことでも、愛をもって、その人に仕える時、

それを主イエスが、「私がいるそこに」、

あなた「もまた」いることになるんだと、言ってくださっていると思うのです。

ある詩人が、こんな詩を書いて、ハッとさせられたことがあります。

「きりすと
我に在りとおもふは易いが
われみづから
きりすとにありと
ほのかにても感ずるまでの
とほかりしみちよ」

キリストが我に在りと、思うのは簡単だけれども、しかし我自ら、キリストに在りと。ほのかにでも感ずるまでの、遠かりし道よ。
ほんとうにそうだと思いました。自分には主がいらっしゃるとばかり思うけれども、肝心の自分はどうかというと。自分はキリストにありと、なんで思わないんだ。ほのかにでも、それを感ずるまでの、なんと遠いことか。……

だけれどもその詩人は最後にこう書くんです。

「きりすとが わたしを抱いていてくれる
わたしのあしもとにわたしがいる」

キリストが私を抱いていてくれる。その私の足もとに私がいる。どういう状況か。キリストが私を抱いていてくれる。そうして、キリストと私はもう一つとなっていて、私はもうキリストのものとなっていて。その、私の足もとに、私がいる。もはや私は、キリストの足もとにいるのだ。私はキリストのしもべとなるのだ。

その「私」に、主が言われたもう一つの約束は、「私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(12:26)というものでした。
父は、その人を大切にしてくださる。
父はその人を重んじてくれるだろう。

ある人がこれを「大切に」ということは、主イエスの所にいさせてくださることなんだよ。と言いました。父なる神様が、私どもを、主イエスの所にいさせてくださる。そういうことなんだよ。それが父の「大切」なんだよ。

神様はそうやって私どもを、主イエスのいる所、永遠の命の中に置いてくださって、命を失わない者にしてくださいます。

 

意外かもしれませんけれども、この「仕える」という言葉は、ヨハネ福音書では、ほとんど出てこないのです。だから余計に、主イエスがここで「仕える」と言われた、その真意を考えますと、やっぱり、「一粒の麦」しかないと思うのです。

一粒の麦は死ぬのです。仕えて死ぬのです。主イエスがその時に「自分の命を憎め」(12:25)と言われましたけれども、この「命」というのは永遠の「命」のほうではなくて、「魂」とも言われまして、私どもの自分そのものが在るような部分、自分の一番の思いや、欲もある部分。そこを憎めと言われている。それはなぜか。愛しすぎているからです。執着しているからです。しかし主イエスは、その「命」という言葉をもって「私は命を捨てる」(10:11、17、15:13)と何度も言われました。「私は羊のために命を捨てる」(10:15)。自分のものを愛するんじゃなくて、捨てる。

先ほどイザヤ書を読みましたが、第53章の11節と12節には、そのしもべの、この「魂」と「命」についてこう言われています。

「彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。/私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。」「それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。/彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。/多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 

私は一粒の麦で思い出す人がいて、白いTシャツの牧師です。前におりました教会のかつての牧師でいらっしゃいましたけれども、戦中戦後のことで、お目にかかったことはありません。でもその先生のお話をよく聞きました。なんで白Tシャツの先生かと言うと、戦後で困っている人に、食べ物もお金もおまけにご自分の着ている服までもあげてしまわれるからです。牧師の謝儀が出る日も、四人の子どもを抱えて奥様が待っていると、白いTシャツで帰ってこられて、何も持っていない。笑って「神様が何とかしてくださる」と、ほとほと困りましたと奥様のお話だったと記憶しています。でもその先生が、日曜日の礼拝の直後に病気で急死なさった。

そしてその先生がよく言われたことは
「苦しいほうに行け」ということでした。
「苦しいほうに行け。」
「迷ったら、苦しいほうに行け。」

主のご受難に従う。
最後まで、「われきりすとに在り」と、そのご生涯でした。けれども、その先生にも、この約束が聴こえてくるようです。

「私のいる所に、
私に仕える者もいることになる。」(12:26)

一粒の麦から生まれた命ですもの。
私ども皆、
この一粒の麦から生まれた命ですもの。
だから普通に思います。その私どもに、
他にどんな死に方があるでしょう。
私どもに主に従うほかに、
どんな死に方があるのでしょう。
他にどうやって死ぬのでしょう。

死に方は生き方ですから。
教会の愛する人が亡くなった時にも、死に方は思わないで生き方を思います。その人の仕えた生き方。その人の主に仕えて、生きた生き方。

主はその人におっしゃいます。
「私のいる所にいることになる」と。
父がいさせてくださると、
そして私どもにも、
あなた「もまた」、そうなのだと。

その主イエスのお傍に、ずっといさせていただきたいと思うのです。