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なんのために生まれて なにをして生きるのか

2025年5月11日

創世記 第1章24節-第2章4節
柳沼 大輝

教会学校・小礼拝合同礼拝

 

「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。有名なアニメ漫画のオープニング曲の歌詞の一節を本日の説教題につけました。私たちはいったいなんのためにこの世界に生まれたのでしょうか。そしてどうやってこの世界で生きていくのでしょうか。いきなりこんなことを聞かれても、すぐに答えられる人は少ないと思います。

何故ならこの世界には、自分の思い描いた明るい未来を一瞬にして暗くしてしまうような悲しいことがたくさんあるからです。思わずその場で立ち止まってしまいたくなるような悲惨な出来事がたくさんあるからです。この世界でどうしてこんなにひどいことが起こるのだろうか、どうして誰かがこんなに苦しまなければいけないのだろうか、涙を流さなければいけないのだろうか、そういった辛いことや悲しいことに出会う度に、私たちは自分がどうしてこの世界に生まれてきたのか、自分はどうやってこの世界で生きていけばいいのか、そんなことに悩み始めます。

しかし今日の聖書のものがたりは、神様がこの世界を造られたことを語ります。そして、神様が造られたこの世界は「極めて良かった」のだと証しします。

苦しいことや悲しいことがあると、よく人はこんなことを言います。「運が悪かった」。「運がなかったからこの人はこんなひどい目に遭ったのだ」。

このようにこの世界が何かの「運命」や「偶然」によって動いていると見るとき、この世界はけっして「極めて良かった」とは言えないと思います。「極めて良い」はずのこの世界にどうしてこんなに悲しみや憎しみが溢れているのかと思ってしまいます。けれども聖書はたしかに語ります。この世界を形作っているのはけっして「運命」や「偶然」ではありません。この世界を支配しているのは、神様の「愛」なのです。

今日は読みませんでしたが、神様は初めに天と地を創造されました。次に空、大地と海と植物、太陽と月と星、魚と鳥、今日の箇所に入って、家畜と地を這うものと獣、そして最後に人間を造られました。神様はどうしてこの順番でこの世界を造られたのでしょうか。神様ならほんの一瞬でこの世界を造ることも可能であったはずです。どうしてわざわざ一週間もかけて順々にこの世界を創造していったのでしょうか。

それはすべての生き物がこの世界で「共に」生きることができるようにするためです。もしすべてのものが一気に造られていたとしたら、そのなかには滅んでしまう生き物がいたでしょう。もし人間が、光も水も植物も何もないところに暗闇のなかに生み出されたとしたら、すぐに死んでしまっていたでしょう。

神様は何も単なる「思い付き」で「偶然」に人間を造られたのではありません。しっかりと人間が生きていけるように一つひとつこの世界をデザインした上で、人間が生きる「居場所」を準備した上で、私たち人間を、みんなを造られました。

神様は、造られた人間を「祝福」して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。この言葉は「生きよ」という意味です。どんなに心くじけそうになるような悲しいことや辛いことがあったとしても、不安で心が張り裂けそうになったとしても「あなたはここにいていいのだよ」「生きていていいのだよ」と、この言葉は、希望をもってあなたに語りかける神様の言葉です。

この世界はこのように私たちを「祝福」する神様の言葉によって、神様の愛によって造られました。この神様の愛を知るとき、たとえこの世界が一見、悲しいことや辛いことばかりに見えたとしても、それでも「この世界は極めて良い」と、私たちは心から信じて「告白」することができるようにされていきます。

それでは、その神様の愛を、人間はどうやって知ることができるのでしょうか。その鍵は「神のかたち」という言葉です。人間は「神のかたち」として造られたとあります。それは私たちが神様に似ているということです。こんなことをいきなり言われてもまさかと思うかもしれません。しかし聖書は、私たち人間は、神様に似せて造られたと語ります。神様と似ているのですから、私たちは神様の言葉を聴くことができます。神様の思いをもっと深く知ることができます。

子どもは、親の背中を見て、その親にどんどん似ていくそうです。親の考えや思いが段々と分かるようになっていくそうです。それは私たちと父なる神様との関係においても同じです。神様は、残念ながら私たちの目には見えません。しかしこの世界に「人の子」として来てくださった神の「独り子」イエス様の歩みを、私たちは聖書の御言葉を通して知ることができます。

イエス様がこの地上に生まれ、どれだけ貧しい人、痛み苦しんでいる人と共に歩まれたか、人々を生かすために偉大なみわざをなしてくださったか、どれだけ言葉を語りかけ、悲惨な現実に座り込んでいたものを立ち上がらせてくださったか、その歩みをこの聖書によって、私たちは知ることができます。

そして、私たちの罪のために、イエス様が十字架に向かわれたこと、そこで血を流し苦しまれたこと、死なれたこと、死に勝利し、三日目に復活されたこと、そしていまも生きて私たちと共にいてくださること、私たちは私たちに与えられているこの聖書によって、イエス様の背中を見つめて歩むことができます。

私たちはこうやって聖書の御言葉に聴き、イエス様の背中を見つめながらイエス様のあとについていくとき、少しずつ神様の愛が分かっていきます。神様がどれだけこの世界を愛してくださっているのか、この私はどれだけ神様に大切にされているのか、その神様の私たちへの思いが分かっていきます。

この世界は、父なる神様がその「独り子」をこの世に送り、十字架にかけて死なせるほどに愛し抜かれた世界なのです。この私はイエス様が自らの命を十字架の死に投げ出してまで救い出したかったかけがえのない大切な命なのです。

第2章3節には、「神は第七の日を祝福し、これを聖別された」とあります。「聖別された」とは、特別な日として覚えるという意味です。私たちは毎週、日曜日に、みんなで教会に集まって共に礼拝を捧げます。それは何故でしょうか。それは「日曜日」がイエス様の復活された日だからです。イエス様はこの「礼拝」において私たちと共にいてくださっています。十字架で死に、三日目に復活されたイエス様は、いま生きて私たちを祝福し、語りかけています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」「あなたは生きよ」「あなたはここにいていいのだよ。あなたは生きていていいのだよ」と。

私たちは誰一人として「偶然」にいまここに生きているのではありません。みんな神様の愛のゆえにここに生かされている大切な一人ひとりです。この世界は、神様が「極めて良かった」と宣言してくださった世界です。そして、私たちは神様がその愛によって造ってくださった「極めて良い」かけがえのない存在です。

だからこの神様の祝福をいただきながら、この世界を造ってくださった神様をみんなで賛美しましょう。神様の言葉、聖書の御言葉に聴きながら神様の子どもとしてイエス様についていきましょう。

生きていれば、悲しいことや苦しいことがこれからもたくさんあると思います。心折れそうになるときもあるかもしれません。自分はここにいていいのかなと不安を感じることだってあるかもしれない。だけど、もう何も恐れる必要はありません。何故なら、神様が「大丈夫だ」と言ってくださっているからです。

「わたしはしゅのこどもです」。今日も愛をもって勇気をもって、この世界をすべての生き物と「共に」そしてイエス様と一緒に「喜んで」生きていくことができますように。

 

天の父なる神様、あなたがこの世界を、私を造ってくださいました。だから私は何も怖くありません。イエス様が共にいてくださいます。神様の愛がここにあります。この愛を今度は私がいま悲しんでいるあの人に、涙を流しているあの子に大丈夫だよって届けることができますように。イエス様、私を祝福してください。生きる勇気をください。あなたの愛をください。このお祈りをイエス様のお名前によって御前にお捧げいたします。アーメン

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