神が求めるのは、あなたの心
ローマの信徒への手紙 第2章17-29
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第2章の最後のところを読みました。この部分で初めて際立ってくるひとつの主題は、〈ユダヤ人〉ということであります。実はこれまでのところでも、はっきりと「ユダヤ人」という言葉を使わなくても、暗にユダヤ人問題に触れてきた部分もなくもないのですが、パウロはここで初めて、〈ユダヤ人〉を相手にして語り始めるのです。
ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、御心を知り、律法に教えられて何が大切かをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています(17-20節)。
「それなら、どうして、あなたは」と続くのです。「ユダヤ人よ、ああ、ユダヤ人よ」。「あなたは、どうして」。
しかし私どもは、ユダヤ人ではありません。ヨーロッパの人のように、昔から何となくいつも周りにユダヤ人がいるような生活をしてきたわけでもありません。それだけに、いきなり聖書の中に、「ユダヤ人よ、どうして、あなたがたは」と言われても、なかなか自分のこととしては読めない。既に先ほど聖書朗読をお聞きになりながら、聖書の言葉がちっとも心に響いてこない、という方が多かったのではないかと思います。
なぜここでパウロは、ことさらにユダヤ人だけを相手にするのでしょうか。パウロ自身がユダヤ人ですから、当然自分の同胞の救いが気になるということかもしれません。しかしそれなら、ますますわれわれは他人事として、少なくともこの部分は急いで読み飛ばしてしまってよいということになるのでしょうか。こういう箇所を読むときにこそ、私どもがふだんどのように聖書を読んでいるのか、根本的な〈聖書の読み方〉というものが問われるような気がします。
■ユダヤ人というのは、神に選ばれた民です。神は最初(言い換えれば聖書の前半部分の旧約聖書においては)、ユダヤ人だけをお選びになり、これをご自分の民として愛され、またお救いになったのです。ユダヤ人以外の民族は、お選びにならなかったのです。これは神が事実、歴史の中でそうなさったことですから、気に入らないとか、けしからんとか、文句を言っても始まりません。神は、この地上の歴史において、そのようなみわざをなさったのです。そして実は、私どもは今も毎週、このユダヤ人のためになされた神の救いのわざを、礼拝の最初に確かめ続けております。礼拝の最初に必ず唱える〈十戒〉というのがそれです。
我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。
かつてユダヤ人という民族は、エジプトの地で奴隷の生活をしていました。聖書には、430年間奴隷であったと書いてあります。430年というのは、たとえば日本の江戸時代の始めから、明治、大正、昭和、平成、令和と、ずーっと日本はロシアの奴隷。日本人には何の人権もない、という状態が、江戸時代から始まってまだ終わらない、というのは、ほとんど絶望的な状況だと思います。どんなにおかしな生活も、430年も続けば、いつかこの生活から脱出しようなんて、なかなか誰も考えないだろうと思います。ところが神は、この小さな民を愛し、誰もが目を見張るようなしかたで、これをエジプトから導き出されました。
しかし、なぜユダヤ人だったのでしょうか。ほかの民族では不都合があったのでしょうか。人間の側には、何の理由も見つかりません。ユダヤ人は、ただ神に愛されたのです。ユダヤ人の側には、何の理由もなかったのですが、だからこそ、それは愛である、これこそが神の愛であると言わなければなりません。
今日読みました、ローマの信徒への手紙第2章17節以下には「律法」という言葉が繰り返し出てきます。律法とは何でしょうか。ユダヤ人が神に愛された、その神の愛の証しが律法です。それ以外ではありません。
我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。
汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。
わたしがあなたの神なのだから。わたしだけが、あなたの神なのだから……。繰り返しますが、これは、神の愛の言葉です。今日読んだ最初のところ、17節には、「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし」と書いてありますが、これは皮肉でも何でもありません。あなたは、神に愛されたユダヤ人だ。神の愛の言葉を聞き続けてきた民だ。だから、神を誇りとするがよい。主なる神だけが、あなたの神なのだから、「汝わが面の前に我のほか、何物をも神としてはならない」。
■そのような「律法」と並んでもうひとつ、25節以下には「割礼」という言葉が出てきます。ユダヤ人の男子は、原則として生まれて八日目に、男性器の先に刻みを入れます。われわれ現代人からするといかにも奇妙な習慣で、なかなか理解できないのですが、割礼は今でも変わることなく、ユダヤ人のアイデンティティです。しかもそれは、人間が勝手に始めたことではありません。神がお定めになった、神の愛のしるしです。割礼という、自分の肉体に刻まれたしるしが、神に愛され、神に選ばれた民のひとりであることの証しになるのです。
ある神学者は、ユダヤ人の律法や割礼を「神の痕跡」と呼びました。神の手の指の跡が、律法という形で、また割礼という形で、歴史の中にはっきりと跡付けられているということです。神は目に見えません。これは、旧約、新約を貫く聖書の信仰の大原則です。それこそあの十戒にも、「汝、己のために、何の偶像をも刻むべからず」と書いてあります。神は目に見えない。目に見えない神を、目に見えるように描いたり刻んだりしてはならない。ところが、「神の痕跡」は見えるのです。神は見えなくても、神に愛された神の民の姿は見えます。神の愛の証しである律法も、また割礼も、神の痕跡であります。
神の救いの出来事というのは、おとぎ話ではありません。雲の上の出来事ではありません。あるいはまた、何の根拠もないけれども、何となく、神さまは世界中の人を愛しておられますよ、というぼんやりとした話をするのでもありません。神の愛は、まことに具体的であり、また歴史的であります。私どもがふつうに生活をしている、その延長である歴史の中に、しっかりと神の指の跡が、跡付けられている。その神の痕跡の最たるしるしが、ユダヤ人という民族の存在そのものである。だからこそ、そのようなユダヤ人がまた、19節以下に書いてあるように、「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と言われるのは、事実その通りなのです。神は、そのような役目を与えられた神の民を選び出し、育て、導いて来られたのです。
けれども問題は、ユダヤ人がそこから落ちた。「それなら、どうして、他人には教えながら自分には教えないのですか。盗むなと説きながら盗むのですか」(21節)。そのように続いていくパウロの言葉は、まことに厳しいものがあります。どうして、そのようなことになってしまったのでしょうか。
■そこでもう一度、最初の17節から読んでみたいと思います。「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし」と書いてあります。先ほど、「これは皮肉でも何でもありません」と申しましたが、聖書の言葉を厳密に読む人からはたちまち反論されるような物の言い方であったと思います。「律法に頼り」と書いてあるのですが、これは明らかに否定的なニュアンスを含みます。もっとも、私どもの翻訳だけを読んでいれば、いい意味を読み取ることもできるかもしれません。「あなたは、律法だけに頼りなさい」。「あなたはユダヤ人なのだから、神に愛され、救われた民なのだから、神の愛の言葉である、律法だけを頼りとしなさい」。しかしこれは、そうは読みにくい言葉なのです。「律法に頼り」というよりも、「律法に寄りかかっている」。自分たちには律法がある、という事実に安住してしまっているということです。
これに相応ずる言葉が、23節の「あなたは律法を誇りとしながら、律法に背いて神を辱めています」という言葉です。この場合の誇りには、もはや何の価値もありません。「あなたは律法を誇りとしながら、律法に背いて神を辱めている」。そういう人間の姿を、主イエスはある譬え話の中で、このように描いておられます(ルカによる福音書第18章9節以下)。ファリサイ派の人、つまりユダヤ主義の権化のような人と、もうひとり徴税人が神殿に行って祈りをしたというのです。最初にファリサイ派の人が堂々と胸を張って、このように祈りました。
「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。
このようなファリサイ派の祈りのどこが問題なのか、いちいち説明されなくても、わかりきったことだと思われるかもしれません。確かにそうです。律法に悪い意味で寄りかかっている人間の傲慢な態度は、はたから見ても耐えられないものがあります。しかし本当の問題は、傲慢か謙虚か、ということをさらに超えたところにあるのではないかと思います。
かつて同じことをお話ししたことがあると思いますが、この譬え話で何と言っても強烈だと思わされることは、このファリサイ派の人が「自分自身に向かって祈った」と、そう主イエスが言われたことです。私どもの翻訳では「心の中でこのように祈った」と訳されているのですが、心の中で、神に向かっていわゆる黙祷をしたということではありません。心の中で、自分自身に向かって祈った。律法を誇りとしながら、自分には律法がある、そして自分は律法の決まりを厳密に守っている、ということに寄りかかりながら、この人の祈りは最初から神を相手にしていなかったというのです。「あなたは律法を誇りとしながら、律法に背いて神を辱めている」とは、そういうことでしょう。主イエスのご覧になるところ、そしてまたこの手紙を書いたパウロの見るところ、結局ユダヤ人の生活というのは、そういうものに成り下がっていた。
なぜそんなことになったのでしょうか。律法は受け取ったけれども、その文字は受け取ったけれども、神の心はちっとも受け取っていなかったのです。自分の性器の先に刻まれた割礼の跡は喜んで見つめながら、けれども神の愛が自分の心に刻まれることはなかったのです。
■25節には、「あなたが律法を行うなら、割礼は役にも立つでしょう。しかし、律法に背くなら、あなたの割礼は割礼を受けていないのと同じです」と書いてあります。最初に申しました通り、ユダヤ人は、神から特別に選ばれて、その選びのしるしとして、律法をいただいたのです。けれどもここでは、律法を持っているだけではだめだ。律法を知っているだけでは意味がない、律法を行わなければあなたの割礼は無割礼と同じだ、と言っているようです。そこでうっかり者はこう考えるかもしれません。「そうだ、そうだ。ただ聖書を読んでいるだけではだめなんだ。どうも日本の教会は頭でっかちで、聖書の勉強は熱心にするけれども、愛の実践が伴わないからどうしようもない」。確かに愛の実践も大事です。けれども今のような考え方だけでは、律法の大切な意味を、半分以上無視することになるだろうと思います。神の律法とは何でしょうか。十戒の最初に書いてある通り、律法の根本にあるのは、このことであります。
我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。
汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。
わたしがあなたの神なのだから、あなたは、わたしだけを神としなさい。わたしがあなたを愛しているのだから、あなたは、わたしだけを愛しなさい。「律法は、持っているだけではだめだ。それをきちんと行わないと」。律法を行う、その最初のこと、そしてその最大のことは、神を神として愛することであります。ここでパウロが問題にしているユダヤ人の間違いは、まさにこのことで、「なぜ文字だけを受け取って、神の心を受け取らないのか」。しかし私どもだって、すぐに同じような間違いに陥ることがあるだろうと思います。
■先週の週報に、それこそ私がうっかり者で予告するのを忘れたのですが、先週の月曜日から水曜日まで3日間、東京の八王子で行われた説教塾のシンポジウムという集会に参加してきました。この教会で長く牧師をされた加藤常昭先生が逝去されて、昨日4月26日でちょうど1年がたちました。日本の教会にとって、また特に説教者たちにとって本当に巨大な存在でしたから、いったい加藤常昭という教師が残してくれたものが何であったか、それをもう一度きちんとふりかえり、共有しようという趣旨のシンポジウムです。もっとも私は、プライヴェートな事情が重なって半分くらいしか参加できなかったのですが、それでも講演をさせていただくなど、一応の責任を果たしてきました。
このシンポジウムで、もちろんいろんなことを学び直したわけですが、加藤先生から教えていただいたいちばん大きなことは、〈聖書の読み方〉ではなかったかと思わされました。ちなみに加藤先生の膨大な著作の中で、最初のものは32歳のときに書かれた『聖書の読み方』という小さな書物です。しかもこれが、今でも加藤先生の著作の中でいちばんよく売れるそうです。きっと皆さんも、信仰者であるなら、ふだんから聖書をお読みになると思います。聖書を読まない信仰生活というのは、少なくとも私どもの教会の理解では、まったく考えられません。けれども他方で皆さんが何となく感じておられることは、聖書は難しい、ということです。確かに聖書には、難しい面があります。いろんな種類の難しさがあるでしょう。しかしもしかしたら、私どもの罪が、聖書を難しくしているということもあるのではないでしょうか。
やはり加藤先生の著作のひとつで、『雪ノ下カテキズム』という書物があります。特に今回のシンポジウムで私が感銘を受けて読み返したのは、このカテキズムの問41です。
問 あなたが聖書の正しい読み方を体得するのには、どのようにしたらよいと思いますか。
答 聖書は、聖書にふさわしい読み方を私に求めます。
聖書には、正しい読み方がある。ふさわしい読み方というものがあるのだと、はっきり言います。もしかすると、皆さんがふだん聖書を読んでもどうもおもしろくない、ちっとも心が動かないということがあるとすれば、読み方そのものが間違っていることがあるかもしれません。そしてもっとはっきり言えば、聖書の読み方を間違えるような、私どもの罪が聖書を難しくしているのかもしれません。では聖書の「ふさわしい読み方」とは何かというと……
聖書を神の言葉として読むことを真実に知るにも、まずこれを愛読することが大切です。しかも、常に祈りと共に読むことであります。聖書を読みふけるとき、神の真理を読み取る喜びが与えられると信じます。
聖書の正しい読み方の第一は、「愛読すること」だと言います。愛して読むのです。その場合の愛というのは、必ずしも〈わたしの愛〉ではないと思います。少なくとも〈書物に対する愛〉ではありません。聖書を読みながら、神との愛の関わりの中に立つのです。ユダヤ人がしそこなったことは、まさにそのことであったと思います。
しかし、それにしても、聖書を読んでも全然意味がわからない、ということがあるでしょう。「愛読したいのはやまやまなのだけれども、さっぱり意味がわからないんじゃ、しょうがないじゃないか」。聖書がわからなければ、だからこそ、神に愛された者として、聖書の中に立っていただきたい。聖書がわからないなら、だからこそ、ますます深く、神との愛の関わりの中に立ち続けていただきたい。ここでカテキズムは、「これを愛読することが大切です」、愛して読むことが大事です、と言って、それを即座に言い換えて、「常に祈りと共に読みなさい」と教えてくれます。神に愛された者として、聖書を愛して読む。それが即ち、祈りつつ聖書を読むということです。そうすれば、神は必ず答えてくださいます。愛をもって答えてくださいます。その神の心を受け取るために、聖書を読むのです。
■今日の説教の題を「神が求めるのは、あなたの心」といたしました。ちょっときざな感じがするな、とも思っていたのですが、でもやっぱり、結局はそういうことだと思うのです。神は、私どもの心をお求めになります。皆さんの心を、神は求めておられるのです。ユダヤ人は、聖書の文字は受け取ったけれども、ただ文字だけを、これでもかというくらいに厳密に受け取って、けれども神の心を受け取ろうとはしませんでした。あの譬え話の中のファリサイ派が「自分自身に向かって祈った」、神に向かっては祈らなかったというのは、まさしくそういうことであります。決して、自分の心を神に明け渡そうとはしなかったのです。そんな譬え話をお語りになった主イエスの悲しみは、どんなに深かったかと思うのです。「神が求めるのは、あなたの心」。それなのに、なぜわざわざ神殿にやって来てまで、神ではなく、自分自身に向かって祈るのか。私どもの礼拝が、そのようなものに堕落していなければ幸いであります。「神が求めるのは、あなたの心」なのであります。
最後の28節以下に、こう書いてあります。
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。
ここは、それこそ文字だけ読めば、何とも難しそうなことが書いてありますが、心で読めば、神の心をしっかりと読もうとするなら、何も難しいことは書いていないと思います。特にここで大切な意味を持つのは、「文字ではなく霊によって心に施された割礼」(29節)ということであります。肉に刻まれる割礼に、何の意味もないというのではありません。それは神がお定めになったものです。ユダヤ人の割礼は、神の愛の痕跡にほかならない。けれども問題は、その割礼が、心に刻まれた割礼にはならなかったということなのです。
ユダヤ人から始まった神の救いのわざは、キリストを通し、また教会を通して、世界中に広がっていきました。神の霊が注がれ、ここに書いてあるように「文字ではなく霊によって」、私どもの心にも神の愛が刻まれるようになりました。「わたしは神のもの。わたしの心は、神のもの」。そのように歌う私どもの存在もまた、新しいイスラエルとして、神の恵みの痕跡そのものとして生かされるようになるのです。
この神の霊が注がれたことを祝う、聖霊降臨の祝いの日が、今年も6月8日に準備されています。何人もの方が、この日に向けて洗礼入会の準備をしています。そのような方たちと語り合うときにも、私がしみじみと思い知らされることは、「神が求めるのは、あなたの心」という、このことであります。ただ、神の求められるこの心をささげて、礼拝の生活を共に造ってゆきたい。そのことを心から願います。お祈りをいたします。
あなたのみ言葉を聴くことができました。あなたの霊によって、あなたの愛が私どもの心にも刻まれました。どうかその心を、いつもあなたにお返しするものとさせてください。体も魂も、生きるときも、死ぬときも、私どもはあなたのものです。この慰めの内に、この祈りを主のみ名によってみ前にささげます。アーメン