今や、自由にされたものとして
ローマの信徒への手紙 第6章15-23節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第6章の15節以下を礼拝で読むのは、今回で3回目になります。この区分は、このような問いから始まっています。
では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない(15節)。
この言葉について、何度も同じ説明をしたと思いますが、要するに、この手紙を書いた伝道者パウロに対して、こういう種類の批判があったらしいのです。パウロという人は、「罪の赦し」という福音を宣べ伝えているらしい。どんな罪も、神は赦してくださると教えているらしい。どんなに深刻な罪も、むしろわれわれ人間の常識から言えば、「さすがにこれだけはだめだろう」と思うような罪も、神はキリストの十字架の死に免じて、すべて赦してくださる……って、いや冗談じゃない。もしもそうであるなら、どんどん罪を犯そう、ということになるじゃないか。パウロはそういう批判に答えて、「決してそんな話にはなりませんよ」と答えているのです。
おそらく私どもも、そんなことは考えないと思います。われわれは、神の恵みの下にいる。それならば、ますます励んで、どんどん罪を犯してやろう、とは誰も考えないだろうと思います。けれども問題は、事実として私どもは毎日罪を犯して生きているということなのです。
横浜指路教会の藤掛順一牧師という、たいへんすぐれた説教者がいます。この藤掛先生のローマの信徒への手紙の説教を、私は毎回楽しんで読んでいるのですが、この箇所の説教の中でこんなことを言っておられます。
しかし私たちはこの神の恵みに甘えて、それを言わば悪用して、神は赦して下さるのだから罪を犯してもいいんだ、と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。皆さんはないですか? 私はあります。
こういうところは、きっと横浜指路教会の人たちも身を乗り出して聞いたでしょうね。「へえ、藤掛先生にもそんなことがあるんだ」。つまり、罪の赦しという聖書の教えが、自分にとって都合のいい慰めになっているというのです。〈罪の赦し〉という福音のおかげで、自分の罪にそれほど苦しまずにすんでいる。そういうことが「皆さんにはないですか? 私はあります」。くすっと笑った人もいたかもしれない。ぎくりとした人もいたかもしれない。もちろん、パウロがはっきり言っているように、「だから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない」。もちろんそうなのですけれども、事実として私どもは、毎日罪を犯し続ける生活をしているのです。どうすればよいのでしょうか。
■このことを考えるときに、ひとつ大切な意味を持つのが、「今」という言葉です。「今」という言葉は、ローマの信徒への手紙、特にその前半部分を貫くひとつの主題であると言ってもよいと思います。「今」という言葉が、この手紙の中でどのように使われているかということを調べると、それだけで興味深い勉強ができると思いますが、時間がないので、いちばん大事だと思うところを紹介します。第3章の21節です。
しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。
ローマの信徒への手紙について少しでも勉強すると、ほとんどの人が同じことを言います。この手紙のいちばん大事な部分は第3章21節から始まり、第8章の終わりまでがその中心部分である。伝道者パウロが、いよいよここからいちばん大事なことを書く、これがこの手紙の中心だ、というときに、最初に書いた言葉が「しかし今や」であったのです。「しかし、今や、新しい時代なのだ。これまでとは違う、特別な時代なのだ」。
その「今」という特別な時について、第6章でも改めて19節、21節、22節で三度、「今は」、「今では」、「今や」と言います。「しかし、今や罪から自由にされて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます」(22節)。「しかし、今や」というものの言い方は、理屈を語る人間には語り得ないものです。「こうこうで、こうだから、こうすべきだ」とか、「難しいけど、頑張ろう」とか、倫理道徳の教師はそういう言い方しかできないのです。けれども聖書の言葉遣いは違います。「しかし、今や」。「今は事情が変わったのだ。今は、特別な時なのだ。決定的な出来事が起こったのだ」。何が起こったのでしょうか。「しかし、今や、あなたは罪から自由にされたのだ」と言います。
■先ほど、出エジプト記第20章の最初の部分をあわせて読みました。私どもはここに語られる神の言葉を〈十戒〉と呼んで、毎週礼拝の最初に唱えているわけですが、こういう言葉を口にすることに対して、おそらく、特に、初めて礼拝に来られた方は妙な気分になるのではないかと思います。悪い意味での驚きがあるのではないかと思います。「汝、殺すなかれ。姦淫するなかれ。盗むなかれ」って、どうしてこんな不愉快な言葉を口にしなければならないか。「そんなことわざわざ言われなくたって、私は人を殺したことなんか一度もない、不倫をしたことも泥棒をしたこともない」。しかし十戒というのは、倫理道徳の言葉ではありません。その意味ではローマの信徒への手紙と同じ性質の言葉です。「しかし今や、事情がまったく変わったのだから。今や、あなたは特別な場所に移されたのだから。特別な立場に移されたのだから」。十戒の大前提にある事実は、そのことです。まったく新しい〈今〉という時があって、だからこそ聞くことができるようになった神の言葉が、出エジプト記第20章1節以下に、こう書いてあります。
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。
わたしが、あなたを自由にしたのだから。わたしが、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したのだから。だから、今や、あなたは、と語り始めるのです。毎週礼拝でこの十戒という言葉を唱えるのは、それに似た、けれどももっと大きな、もっと決定的な出来事が起こったと信じてのことです。われわれも、今や、自由にされたのだ。神がわたしを救ってくださったのだから、だからわたしは、神以外のものを神としない。もうわたしは殺さない。盗まない。姦淫しない。神の恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、だなんて、そんなことは絶対に考えられない。
十戒というものを理解する上で、しばしば教えられるひとつのことは、「~してはならない」と翻訳するのが本当に正しいか、ということです。むしろ文法的に言っても、十戒の言葉は命令文ではなくて、断定的に訳すべきではないかと言われます。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」ではなくて、「あなたは、わたし以外のものを神とはしない」。「あなたは、殺さない」。「あなたは、姦淫しない」。「あなたは、今や、自由なんだ」。
そのついでに、またもや聖書の翻訳を批判するような話になって申し訳ないのですが、少なくとも十戒に関しては、新共同訳から決定的に翻訳がまずくなったと思うことがあります。今私どもが使っている聖書協会共同訳も、そのまずい翻訳を受け継いでしまいました。それは十戒の後半部分です。たとえば「殺してはならない。姦淫してはならない」と訳されています。けれどもその前の口語訳では、「あなたは殺してはならない」、さらにその前の文語訳でも、いつも私どもが唱えているように、「汝殺すなかれ」と訳されました。「あなたは、殺さないんだ」と、神が、わたしに、お語りになるのです。「あなたは」という、この主語がとても大事です。
命令の文章ではなくて、断定的な文章だと申しましたが、「わたしは殺しません、わたしは姦淫しません、わたしは盗みません」と、決意表明をしているわけではないのです。そうではなくて、神が私どもにお語りになる。「あなたの神は、わたし以外にいないんだよ。わたしが、あなたをエジプトの奴隷から導き出したのだから」。「だから、あなたは殺さないんだ。あなたは姦淫しないんだ。あなたは、隣人のものを欲しがったりしないんだ。あなたは今や、自由なんだから」。その神の語られる「あなたは」という言葉の意味が本当に骨身に染みてわかったら、実は命令でも断定でも、どちらの翻訳でも大差ないということになるだろうと思います。「あなたは、殺してはならない」と訳すか、「あなたは、殺さないんだ」と訳すか、結局は同じことです。「わたしが、あなたを、エジプトの奴隷の家から救い出したんだ。あなたは、自由なんだ」。大切なことは、この神の言葉を聴くということです。
■ところが問題は、その「聴く」ということが、私どもにはいちばん苦手なのです。16節に「従う」という言葉が繰り返されます。何週間か前の礼拝でも説明したと思いますが、この「従う」と訳されている言葉は、直訳すると「下に立って聴く」という意味です。だから同じ言葉が17節では「聞き従う」とも訳されます。「知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。罪の声に聴き従うのか。神の声を、下に立って聴くのか。これは、あれかこれかの二者択一であって、それ以外の選択肢はないと、それこそパウロは断定しております。しかし特に現代人は、そうは考えないかもしれません。わたしは罪の奴隷なんかじゃない。だからと言って、神の言葉に聴き従え、などと強要されても困る。そういう人は、結局は自分の声に聴き従っているのです。けれども問題は、その自分自身の声というのが、いちばんたちが悪いのです。
とても恥ずかしい話をすることになりますが、しばらく前に(クリスマスのあとくらいだったと思います)、非常に悪い夢を見ました。基本的に私は寝ている間、あまり夢を見ません。本当は見ているのでしょうが、起きたら何も覚えていない。昔からそうだったのではなくて、若い頃は楽しい夢を見ることもありましたし、悪夢にうなされることもありました。けれどもこのところ、悪夢というものをほとんど見ることがなくなったので、これは年を取ってよかったなと思うことのひとつです。けれども、たとえば体調が悪い時など、ときどき悪い夢が出てきます。私が昨年の暮れに久しぶりに見た悪夢というのは、恐怖とか不安とかは全然なくて、その代わりに――お願いですからつまずかないでくださいね――怒り狂っているのです。本当に地団太を踏んで(繰り返しますが、夢の中の話です)、できる限りの大きな声を出して……変な寝言を言ってなかったかと心配になるほどです。自分の主張を押し通すためなら、どんな大声でも出す。出せる限りの大声を出す。目を覚ましたあと、はて、自分は何をそんなに叫んでいたのかな、と思い出そうとしてもさっぱり思い出せない。牧師が見るような夢ではないと、正直に思います。目を覚ましたあと、本当に悲しくて、起き上がる気力もなく、もう一度寝ました。しかもそういう夢の中でギャーギャーわめいているとき、神の言葉は1ミリも聞こえていないのです。ええ、本当に、自分でも驚くくらい、神さまのことなんかひとつも信じていない。「下に立って聴く」だなんて、冗談じゃない。少なくとも夢の中の自分は、時折そういう姿を現わすのです。
しかし、夢の中だけの話でしょうか。夢の中でわめいている自分と、今このように澄ました顔で説教なんか語っている自分と、いったいどちらが本物の自分なのだろうか。
知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです(16節)。
神の声を聴いていなければ、その人は罪の奴隷だと言います。「いいや、わたしは罪の奴隷になんかなった覚えはない、自分は自分の声を聴いているだけだ」と思っても、その自分自身が罪人なのですから、結局は罪の奴隷です。そして罪の奴隷になると、神の声が聞こえなくなります。「わたしだけが、あなたの神なんだよ」と言われる神の思いがわからなくなります。そうしたら自分が神になるほかない。「では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です」(21節)と言われると、他人の話ならすぐにわかるのです。夢の中であらん限りの声で叫んでいる牧師の姿を想像しながら、そのことに気づかない人はいないでしょう。「うわあ、あの人、すごい罪の奴隷になっちゃってるな」。自分のことになるとたちまちわからなくなるのです。ところがそれこそ夢の中で、気づいていなかった自分の本性が明らかになったりするのです。
自分自身を神としてしまう人間のみじめさが、いちばんよくわかるのは、十戒の最後の戒めであるかもしれません。「〔あなたは〕隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」。自分を神とすると、なぜ隣人のものがうらやましくなるのか、全然わからない、という感想もあるかもしれませんが、よく考えればすぐにわかることだと思います。罪人にとって、こんなにわかりやすい話はないのです。「自分が神なのに。自分がいちばん偉いはずなのに。自分がいちばん大事にされなければならないはずなのに。それなのにどうして、自分よりもあいつのほうがいいものを持っているんだ」。それが怒りに変わります。いら立ちに変わります。まさしく罪の奴隷です。
けれどもここでパウロは、あなたは罪の奴隷になりますか、それとも神の言葉に聴き従いますか、あなたはどちらを選びますか、などという話をしているのではありません。徹頭徹尾、神を無視している罪人のためにこそ、神の声が聞こえるのです。「あなたには、わたし以外に神があってはならない」。「わたしだけが、あなたの神なんだよ」。わたしが、あなたを愛し、あなたを自由にしたのだ。だから、あなたもわたしだけを神としなさい。だから、あなたは殺さないんだ。あなたは、隣人のものを欲しがらないんだ。あなたは、自由なんだから。
そうであれば、「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか」(15節)。そんなことは、二度と考えることもできないのです。「私たちは、恵みの下にいるのだから」。わたしたちは、神の言葉を聴いているのだから。神の愛の言葉の下に、立たせていただいているのだから。だから、罪を犯そう、なんて考えることなど、できるはずもないのです。
■興味深いことに、この十戒と呼ばれる言葉は、今日読んだ出エジプト記第20章のほか、申命記第5章にももう一度出てきます。実は微妙に細かい違いがあるのですが、今朝はその話はしません。大切なことは、ほとんど同じような神の言葉を、聖書はまったく別の文脈で、しかも省略することなくきっちり書き残したということだと思います。申命記というのは、たとえば英語ではDeuteronomyと言います。それはギリシア語にさかのぼり、もともとは「第二の律法(deutero-nomos)」という意味を持ちます。同じ神の言葉を、一度聴くだけではだめだった。二度聴かなければならなかった。しかし本当は、一度でも二度でも足りないので、何度でも、最後まで、死ぬまで聴き続けなければなりません。「わたしだけが、あなたの神なんだよ」という神の言葉を、私どもは、一生かけて、何度でも繰り返し聴き続けなければならないのです。そのために、毎週十戒を唱えるのです。
出エジプト記と申命記の間には、40年の荒れ野の旅がありました。考えてみれば、たいへんな試練です。出エジプトという劇的な救いのみわざを体験したイスラエルですが、そののち40年にわたって野宿の生活をしなければならなかった。だがしかし、その40年の間、神はご自分の民を愛し、養い、また鍛えてくださいました。何よりも、絶えずみ言葉を聴かせてくださいました。「わたしだけが、あなたの神なんだよ」。しかし神の民イスラエルは、荒れ野の生活の中で何度も誘惑されました。エジプトに帰りたい。奴隷の生活のほうがずっとよかった。神さまなんか信じるんじゃなかった。出エジプト記と申命記の間にある民数記第11章4節以下に、こんなイスラエルの泣き言が書いてあります。
「誰が私たちに肉を食べさせてくれるのだろうか。エジプトにいた頃、ただで食べていた魚が忘れられない。きゅうりもすいかも、葱も玉葱もにんにくも。今では、私たちの魂は干上がり、私たちの目に入るのは、このマナのほかは何もない」。
マナというのは、神がイスラエルのために天から降らせてくださった食べ物のことです。ところがイスラエルは言うのです。右を見ても左を見ても、マナのほか何もないじゃないか。もううんざりだ。エジプトの奴隷だったときは幸せだったなあ。あー、本当に道を間違えた。
そんなイスラエルのために……もう一度申します、そんな罪人のためにこそ、神の言葉が聞こえるのです。一度ならず、二度ならず、何度でも、神は私どもにお語りになる。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。「わたしだけが、あなたの神なんだよ」。
この神の声を聴きながら、私どもも、何度でも、確かめ直すのです。今、自分たちはどこにいるのだろう。何が起こったから、今、自分たちはここにいるのだろう。今、私どももパウロと共に信仰を言い表したいと願います。「わたしたちは今、神の恵みの下におります」。「だから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。断じて、そんな話にはならない」。神に愛された神の民の歩みを、み前におささげしたいと心から願います。お祈りをいたします。
あなたの恵みの下で、今私どもはあなたの恵みの言葉を聴きます。「わたしだけが、あなたの神だ」と、心を込めて語りかけてくださるあなたの愛の中に、今、まっすぐに立つことができますように。罪の誘惑に誘われるときにも、自分を神として変な大声を上げてしまうようなときにも、それにまさるあなたの言葉を聴かせてください。私どもの救い主、イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン









