死んだ者が,命へと解かれるのです
ローマの信徒への手紙 第6章1-14節
川崎 公平

主日礼拝
■今年もクリスマスを記念して、洗礼を受けられる方がいます。来週の主礼拝において、この場所で洗礼入会式を行います。今日は、それに先立って、午後の長老会という会議で、洗礼入会志願者の試問会をいたします。そのようなときに、たまたま、ローマの信徒への手紙第6章を読み始めることになりました。この手紙を書いた伝道者パウロがここで語っていることは、洗礼のことです。
洗礼って、いったい何だ。私も洗礼を受けている。あなたも洗礼を受けている。洗礼を受けたとき、いったい何が起こったのだろう。洗礼を受ける前と、受けたあとと、何がどう新しくなったんだろう。そのことを、この第6章は語っていきます。既に聖書朗読をお聞きになりながら、さまざまな思いが生まれたのではないかと思います。皆さんは、どの言葉に心が留まったでしょうか。
■少し妙なところから話を始めるようですが、7節の言葉に、「これは何だろう」と思われた方があるかもしれません。「死んだ者は罪から解放されているからです」と書いてあります。何だ、これは。ちょっとよくわからない。しかしもしかしたら、逆の感想もあったかもしれない。ほかの言葉はよくわからなかったけれども、7節だけは何となくわかる、という方がいたとしても不思議ではありません。「死んだ者は罪から解放されているからです」。皆さんは、この言葉からどういう意味を読み取られたでしょうか。
この7節だけを抜き出して読むと、まずはこういう意味になるかもしれません。人間、生きている間はどうしてもいろんな罪を犯してしまう。けれどもそれは地上に生きている間だけの話であって、死んだら、たとえば天使のようになって、清らかな存在になって、「死んだ者は罪から解放されるのです」。キリスト教の教えが本当にこういうものなのか、それは知らないけど、きっとこういうことを教える宗教はたくさんあるに違いない。下手をすると、「死んだら全部チャラになる」ということにもなりかねません。しかし前後の文脈から考えて、ここでパウロがそんな話をしているのでないことは、ほとんど明らかだと思います。
「死んだ者は罪から解放されているからです」と言うのですが、聖書の翻訳に文句をつけるというのはあまり好ましいことではないと思いつつも、どうもこの翻訳は誤解を招くように思われてなりません。「死んだ者は」ではなく、「死んだ者が」と訳すべきだと、私は思います。日本語の「は」と「が」の使い分けって、案外難しいですね。「死んだ者が、罪から解放されているのです」。一般的な真理ではありません。死んだら皆天国に行って、罪から解放されるんですよ、などという話ではないのです。おおよそ考えられないこと、極めて特別なことが起こっている。「死んだ者が、今や罪から解き放たれているのです」。
その前の6節には、「私たちがもはや罪の奴隷にならないためである」とも書いてあります。かつては、わたしたちは罪の奴隷であった。罪の力にがんじがらめに縛られて、そのために生きながら既に死人のような生活をしていた、そんなわたしたちが、けれども今はキリストに救われて、洗礼を受けて、今やどういうことになっているかというと、「死んだ者が、一度は死んだはずの者が、見よ、今や生きている。罪から解放されている」。
主イエスのお語りになった譬え話の中で、おそらくいちばん有名なのは、ルカによる福音書第15章に伝えられる、放蕩息子の譬えと呼ばれる話だろうと思います。父親のもとに、ふたりの兄弟がいた。お兄さんのほうはいわゆる模範生だったけども、弟のほうは父親から相続財産の生前贈与を受けて、それを持って家からいなくなってしまう。それで放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たし、たちまち生活は立ち行かなくなり、父親のところに戻って来るのですが、この弟息子の予想に反して、父親は大喜びでこの息子を家に迎え、後にも先にも見たことがないような祝宴を開きます。兄からしたら、それが面白くない。それで、怒りに震えながら文句を言います。「お父さん、なぜこんな無駄飯食いの役立たずのために、こんな宴会を開くのですか。理解できません」。そうしたら父親は答えます。「お前のあの弟は、死んでいたのに生き返ったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」。もしパウロがこの譬え話を知っていたとしたら、7節の言葉を書いたときにも、あの父親の喜びを噛み締めたことだろうと思います。「死んだ者が、生き返ったのだ。罪から解き放たれたのだ」。
「罪から解放されている」と訳されていますが、実は原文には「義とされている」とあります。「死んだ者が、罪から解かれて義とされている」。このローマの信徒への手紙においてパウロはひたすら、「わたしたちは、信仰によって義とされたのだ。キリストがわたしたちの罪のために死んでくださって、その血によってわたしたちは義とされたのだ」と語ってきたのですが、そんな大切な言葉をなぜここでは省略して訳したのか、その理由はよくわかりません。この「義」という言葉については、何度も説明しました。その人が正しいか、正しくないかという話ではなくて、関係を表す言葉です。神との正しい関わりを、神のほうから造ってくださる。あの弟息子が父の家に帰ったとき、父親は走り寄って首を抱き、接吻したと書いてあります。義とされるというのは、たとえばそういうことです。まさしく、死んでいた者が罪から解放されて、自由になって、どこかに飛んで行ってしまうという話ではなくて、むしろそこで初めて、神とのがっしりとした関わりの中に立つ。「死んだ者が、かつては罪の奴隷であった者が、罪から解き放たれて、義とされているのです」。あなたがたの話ですよ。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けたわたしたちは、そのような意味で、新しい命に生かされているんですよ。「死んだ者が、罪から解かれて、見よ、今や生きている」。そのことをよく考えてごらんなさい、と言うのです。
■なぜパウロはここで、このような話を始めたのでしょうか。パウロの思いをよく知るために、まず大切な意味を持つのは1節、そして2節です。「では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。決してそうではない」と書いてあります。これまた妙な話が始まったな、と思われるかもしれませんが、どうもパウロは、いつもこのような議論をしていたらしいのです。いちいち読み上げませんが、既に第3章の8節でも、また同じ第6章の15節にも同じような内容の文章が出てきます。「わたしたちは恵みの中にいるんだから、どんどん罪を犯そう、という話になるのだろうか。絶対に違う」。
ローマの信徒への手紙は、パウロの手紙の中で最後のものだと言われます。キリストに捕らえられて以来、20年にわたってキリストの福音を宣べ伝えてきました。そう言えば私も牧師になって以来だいたい20年ですが、伝道者として生活していると、いろんな疑問や質問に答えなければならない場面があります。時には険しい議論をしなければならないこともあります。「決してそうではない」と言わなければならない場面も、ときどきあります。そして、そういう疑問とか質問とか議論というのは、実はそんなに多種多様ではありません。明らかに、いくつかのパターンがあります。第6章1節で「恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか」と言っていることもまた、パウロが絶えず聞かされてきた疑問であったらしいのです。
なぜこういう疑問が生まれるのでしょうか。ひとつの明白な理由は、パウロが罪の赦しの福音を伝えていたからです。どんなに大きな罪を犯しても、神の恵みはあなたの罪よりもずっと大きい。「さすがにこれは、いくら何でも」と誰もが思うような、どんなに大きな罪でも、キリストの十字架によって赦してもらえない罪はひとつもない。また逆に、人間がどんなに善い行いをしても、どんなに正しく生きようとしても、結局人間はどこまで行っても罪人なんで、ただ神の恵みにすがるしかないのだ。罪を赦していただくほかないのだ。――そうパウロは教えるのですが、これに対する批判というのが、「恵みが増すようにと、罪にとどまるほうがいいんじゃないですか」。どんな罪も赦される。へーえ、結構な話ですね。じゃあ、その神の恵みをできるだけたくさん受けるために、できるだけたくさん罪を犯したほうがお得ですね。そんな教えをウイルスのようにまき散らしているから、倫理道徳が崩壊するんじゃないですか、という批判です。
これは、皆さんもすぐにお気づきになると思いますが、明らかに揚げ足を取るための屁理屈です。けれどもパウロは、そのような屁理屈をあえて正面から受け止めています。実はとても大切な話だからです。牧師の生活をしていると、いろんな質問を受けることがあると申しましたが、しかし今申しましたような疑問は、私があまり正面から聞かれたことのない疑問であるかもしれません。「先生、恵みが増すようにと、罪にとどまるべきですか?」そんな質問をされたことはない。答えがわかりきっているというよりも、正面から取り上げにくい話だからかもしれません。その取り上げにくい問題に、しかし今は、正面から取り組まなければなりません。きっと皆さんも、屁理屈を言うつもりはなくても、同じ問題にぶつかることはあると思います。どんな罪でも赦される。それなら、「罪にとどまるべきだろうか」とは言いにくいけど、事実として、私どもは罪にとどまり続けているのです。それでいいのでしょうか。これは、常に、毎日、問題になることです。罪の力に負けて、こんなことをしちゃいけないんだと、心ではわかっていながら、ま、いっか。どうせ赦してもらえるし。他人のすることにはやたらと厳しいことを言うくせに、自分のことは基本的に何でも赦してしまっているということが、皆さんにはないでしょうか。しかも、なまじ罪の赦しの福音を知ってしまっているがために、かえってそのために罪の上にあぐらをかいてしまっている。そんな罪深い現実が、少なくとも私にはすごくたくさんあるのですが、皆さんはどうでしょうか。
■「恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。決してそうではない」。決してそうではないのですが、結果として、私どもの生活はそうなってしまっているのです。どうすればいいのでしょうか。「これからは、もっと頑張れ」と言うのでしょうか。「少しずつでいいからね」とでも言うのでしょうか。パウロは、そんな中途半端なことは言いません。「あなたがたは、洗礼を受けたではないか」。そこから議論を始めるのです。「あなたがたは、一度死んだのだ。そして甦ったのだ。あなたは洗礼を受けている。その事実を、その意味を、もう一度よく考えてごらんなさい」。パウロがここで語ることは、今後の課題とか目標とか、そんなことではありません。パウロはあくまで、事実だけを語っていきます。3節以下を、もう一度読んでみます。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
そして、7節で言うのです。「死んだ者が、罪から解き放たれて、義とされているのです」。あなたがたは、生きているのです。死んでいたのに、今は生きているのです。神の前で。そのことを、よく考えてごらんなさい。
「考えなさい」と言えば、11節の最後にも「考えなさい」という言葉が出てきます。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」。あなたは、そういう存在なんだ。そのことを、よく考えてごらんなさい。
「罪に対しては死んだ者であり」というのはわかりにくい表現ですが、罪に対して縁を切ったということです。罪に対してはもう死んだ者となった。いない者になった。罪の力が一所懸命私どものことをきょろきょろ探すのですけれども見つからない。「あれ、あいつら、俺の奴隷だったはずなのに、どこに行った?」「罪に対して死ぬ」とは、たとえばそういうことです。それに対して、「神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」。あなたは今、そういう存在なのだから、そのように自分のことを考えなさい。今、あなたがどこに生きているのか、もっと言えば、誰に対して生きているのか、誰の前で生かされているのか、そのことをよく考えてごらんなさい。
そのことをよく考えるために、必要なら、主イエスの語られた譬え話を何度でも思い出してみればよいと思います。いなくなっていた弟息子が家に帰って来たとき、父親はこう宣言しました。「死んでいた息子が、生き返ったのだ。いなくなっていた息子が、見つかったのだ。喜び祝うのは、当たり前ではないか」。そのように、今私どものためにも、神が語りかけてくださるのです。その神の愛がよくわかったら、「恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか」。そんな屁理屈は、もう二度と通用しなくなるのです。
■もとより、私どもの罪深い生活はこれからも続きます。その意味では、私どもは冷静にならなければなりません。今日も、明日も、あさっても、相変わらず私どもは、罪と戦い続けなければなりません。けれどもそこで、それこそよく考えなければならないことがあります。既にキリストの十字架と復活において、戦いは終わっているのです。既に決定的な勝利が確立しているのです。ある神学者は、そのことをたいへん印象深く、このようにたとえて見せました。もう戦いは終わっている。勝利は決定的になっている。けれども、まだ敗残兵がそのへんをうろうろしている。その敵と戦わなければならないし、油断すると傷を負うことにもなりかねない。私どもの洗礼後の戦いは、そういうものだと言うのです。そういう罪との戦いの中で、決して忘れてはならない大切なしるしが、私どもに与えられた洗礼です。洗礼のときに、神が私どもに聞かせてくださるみ言葉が、私どもの戦いを支えます。「あなたは、生きているんだよ。死んでいたのに、生き返ったんだよ。そのようなあなたであることを、よく考えてごらんなさい」。
12節にはこう書いてあります。「ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」。この文章は、実は原文で読むと、また少し雰囲気が変わるかもしれません。私どもの読んでいる翻訳だと、パウロがわれわれに命令しているかのように読めますが、実はそういう文章ではないのです。少しややこしい話になりますが、ギリシア語の動詞の命令法には二人称の命令と三人称の命令があります。二人称というのはつまり〈あなた〉に対する命令です。仮に12節が〈あなた〉に対する命令だとしたら、こういう話になるでしょう。「あなたは、自分の体を罪に支配させてはなりません。あなたは、体の欲望に従ってはなりません」。ところが原文では、そんなことは言っていないのです。〈あなた〉に対する命令ではなく、三人称の命令です。「罪」に対して命令しているのです。「罪よ、お前はもう支配してはならない」。その関連で言うと、14節にも「罪があなたがたを支配することはありません」とありますが、むしろこれも命令文として読むべきだという意見があります。「罪よ、もう二度とこの人たちを支配するな」。「お前はもう支配者ではないのだから、引き下がれ」。
既に戦いに負け、敗残兵のようにうろちょろしている罪の力に向かって、このような力強い命令をくだしてくださるのは、伝道者パウロではなく、神ご自身であります。その神の言葉に励まされて作られる、私どもの生活です。今日の午後の試問会を経て、来週にはこの場所にずらりと、新しく洗礼を受ける方たちが並びます。そしてその次の週はクリスマス、そのときには新しく洗礼を受けた人たちと共に聖餐を祝います。神の用意してくださる、祝いの食卓です。そこでもまた新しく、神の喜びの言葉を聴かせていただきます。「死んだ者が、罪から解き放たれたのだ。あなたは死んでいたのに、生き返ったのだ」。今ここでも、神のみ声を聴きつつ、聖餐の祝いの食卓を共に囲みます。お祈りをいたします。
あのいなくなっていた息子が家に帰って来たとき、あなたの喜びはどんなに大きかったことでしょうか。死んでいた者が罪から解放されて、ご覧ください、今このようにあなたのみ前に生かされております。あなたがそのような者として私どもを見ていてくださるのですから、私どももまた、自分自身を罪に対しては死んだ者であり、あなたに対しては生きている者であると認めることができます。この恵みの事実の中にしっかりと立ちつつ、なおしぶとく私どもに絡みつく罪との戦いを、戦い抜くことができますように。私どもの救い主、イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン









