神の言葉の聞こえるとき
テサロニケの信徒への手紙一 第2章1-13節
川崎 公平

主日小礼拝
■2か月ほど前のことになりますが、東京神学大学において、神学生出席教会の牧師と教授会の懇談会という集まりがありました。現在、私どもの教会にもひとり神学生がいますから、私も呼ばれて出席したのですが、なかなか面白い会でした。多くのものを得て帰って来ることができました。その多くの事柄を全部お話しする必要もないと思いますし、そんなことをしても礼拝の説教にはならないと思います。ただ、特に私が前のめりになって聞いた話は、東京神学大学の教授のひとりが――実はその教授というのは私の同級生だったので、ますます関心を持ったのですが――〈最近の神学生の傾向〉について、いろいろ話してくれたことです。最初に念を押しておきますが、今こういう話をするのは、鎌倉雪ノ下教会に出席しているひとりの神学生をほめたりけなしたりする意図はまったくありません。
まずその先生が言われたことは、「最近の神学生は忙しいから、教会のほうでも配慮してほしい」。昔の神学生はよほど暇だったんでしょうか。しかし、話を聞いてなるほどと思わされました。私が神学生だったころは、一学年20、30人くらいの学生がいました。今は、たとえば学部3年生は6人しかおりません。そこで何が起こるかというと、授業の発表とかチャペル礼拝の説教とかクラス別祈祷会の奨励とか、かつての2倍、3倍、それ以上のペースでどんどん順番が回ってくる。確かにこれはたいへんなことです。皆さんもどうかご配慮を……。
それから、もう少し深く考えさせられたことは、特に若い神学生は、生まれたときから身の回りにパソコンがある。中学生、高校生のときから当然のように自分のスマホを持っている。そういう若い神学生が総じて得意なことは、わからないことがあれば何でもぱっと調べる。インターネットを使って〈調べる力〉は持っている。しかも、物心ついたときから日本が不景気で、ということもあるでしょう、紙の辞書を買いたがらないということです。まあね、確かに昔ほどには、紙の辞書は必要なくなったかもしれません。私が大学生の頃に何万円も出して買った立派なギリシア語の辞書が、今はネット上で無料で使えます。
皆さんもだんだん私の話を予測しながらお聞きになっているかもしれませんが、最近ではさらに生成AIと呼ばれる便利な道具が現れて、たとえば「テサロニケの信徒への手紙一第2章1節から13節までの説教を作って」と言えば、あっという間にそれなりの説教原稿が出てきます。もし内容が気に入らなければ、(たとえば)「もう少し4節と5節に焦点をしぼった説教にして」とか、「キリスト教をあまり知らない人でも慰められる説教にして」などと命令すれば、たちまちまた別の新しい説教原稿が出てきます。私はまだAIに説教準備を手伝ってもらったことはないのですが、巷の噂では、AIの作る説教は、下手な牧師の説教よりもよほどちゃんとしている可能性が十分にあります。コンピューター関連の技術って、基本的にはどんどん進歩しますからね。10年後、20年後、AIが今よりもさらにずっとすばらしい説教原稿を書いてくれる時代が来るかもしれません。
しかしその上で、その神学校の教授は言うのです。最近の学生の傾向として、自分の頭で考えて、時間をかけて考え抜いて、それを自分の言葉で表現していく、その力が弱ってきているのではないか。実際に、学生の提出するレポートを読んでいると、どうもこの言い回しは、彼の言葉遣いじゃない。どうも、機械が書いてくれた文章をそのまま課題として提出したらしい。けれども、もう一度同じことを繰り返しますが、自分の頭で考え抜いて、それを自分の言葉で表現する力は育たないのではないか。そうならないように、神学校の教授たちも気をつけて指導しているけれども、教会のほうでもよろしく、という話をされました。
最初に申しましたように、私は今ここで、現在この教会に出席している神学生のことをどうこうする意図はまったくありません。むしろ私は、その教授の話を聞きながら、うちの神学生のことなんかすっかり忘れて、深い思いに誘われました。帰りの電車の中でも、ずっとそのことを考えていました。AIで説教を作れるのかな。たぶんだめだと思うけど、どうしてだめなんだろう。そもそも、説教って何だろう。説教者って、何だろう。
■そんなことを思いながら、まず私が思い出した聖書の言葉が、伝道者パウロの書いたテサロニケの信徒への手紙一でした。5年前に、いわゆるコロナ禍が始まってすぐにこの手紙を礼拝で読みました。それ以来、私にとってかけがえのない聖書の言葉になりました。特に今朝は第2章を読みました。ここでパウロが書いていることは、かつて自分たちがテサロニケに行って伝道をした。そこで何が起こったか。自分たちは、そのとき何をしたのか。いや、自分たちが、というよりもむしろ、神が何をしてくださったのか。そのことを、第2章1節でこのように書き始めます。
きょうだいたち、あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところへ行ったことは無駄ではありませんでした。
わたしたちがテサロニケに行ったこと、そこであなたがたに出会ったこと、すべては「無駄ではありませんでした」と言います。「私たちがあなたがたのところへ行った」。そのこと自体が、大きな意味を持つ出来事だったのだ。それはなぜかと言うと、続けて2節ではこう言います。
それどころか、知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。
「わたしたちは、神の福音を語ったのだ」。それだけです。「わたしたちは、福音を語らせていただいたのだ」。それができたから、すべては無駄ではなかったのだと、そう言うのです。
しかもパウロはここで、「私たちの神に勇気づけられ」と言います。わたしたちが福音を語らせていただいて、それゆえにテサロニケに行ったことが無駄にならなくてすんだのは、神が勇気を与えてくださったからだと言うのです。
伝道には、勇気が必要です。そうかなあ、と思われる方もあるかもしれません。このような聖書の言葉を読むと、逆に、伝道には勇気が必要だということを忘れてしまうかもしれません。「知ってのとおり、私たちは以前フィリピで苦しめられ、辱められましたが、私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした」と言うのですが、これはいかにもわれわれの現実から遠く離れているようです。「いやいや、現代の日本では、そんな残酷なことは起こらないよ。中国や北朝鮮じゃあるまいし、日本で伝道するのに勇気なんかいらないよ」という考えが大きな勘違いであることは、実際に自分が伝道しようとするとすぐにわかります。別に迫害なんて大げさなことが起こらなくても、ふつうに自分の家族に、友人に、本気で伝道しようと思ったら、どうしたって勇気が要ります。「今度教会ですばらしいコンサートがあるから、おいでよ」。そのくらいなら勇気がなくても言えます。けれども、「神の福音を語る」ことができるでしょうか。「あなたは、イエスさまに救っていただかなければならないんだ。人間は、神を礼拝しなければ生きていけないんだ」と、その人の心に届くように、通じるように。かなり勇気が必要です。この人に福音を届けるために、それこそ自分の頭で考えて、考え抜いて、自分の言葉で伝道の言葉を紡いでいく。そしてそういうときに、AIはあまり役に立たないと思います。コンピューターには、勇気もへったくれもないからです。
パウロはここで、「わたしたちは神に勇気づけられて、あなたがたに福音を語ったのだ」と言います。勇気は、神が与えてくださる。そして神は、ご自身の福音を伝えるために、ほかのいかなる手段も用いず、ただ人間をお用いになります。神に勇気づけられた人間。神がお用いになるのは、それだけです。言うまでもないことですが、その人間が、必要に応じてパソコンだのAIだの、いろんな道具を利用することはあり得ることです。つまらない話をするようですが、私も説教の原稿を書くためにパソコンを使います。もう40、50年も前に、この教会の牧師であった加藤常昭先生は、当時の人としてはかなり早く、ワープロを使い始められました。説教原稿もワープロで書いた。それを先輩牧師から非難されたそうです。「ワープロで説教を書くなんて、そんな心がこもっていない説教はけしからん」。おかしな話ですね。どんな道具を使ったって、神の福音を伝えるために、最後に用いられるのは人間です。神に勇気づけられた人間です。そのために、今ここに、この教会も生かされているのです。
■テサロニケの信徒への手紙一は、そのように、神の福音のために生かされた人間の姿を生き生きと伝えてくれます。それがこの手紙の大きな魅力のひとつだと思います。3節ではこうも言います。「私たちの宣教は、迷いや不純な動機から出たものでも、策略によるものでもありません」。考えてみますと、ここでパウロという人は、ずいぶん言いにくいことをはっきりと言っています。このような言葉が通じる、心が通じる、そういう教会の関係が造られたということが大事です。くどいようですが、AIにはこういうことは言えないのです。もしもAIが、「私たちには、迷いも不純な動機もありません」なんて言ったって、「そんなの当たり前だろ」ということにしかならないでしょう。AIには最初から、迷いも不純な動機も、あるわけがないのです。しかし人間には、迷いも不純な動機も、あります。ところが、そんな人間が神に勇気づけられて、迷いも不純な動機も捨てさせていただいて、そうして初めて神の福音を語り得るのです。
5節以下にはこうも書いてあります。「知ってのとおり、私たちは、こびへつらったり、口実を設けて貪ったりはしませんでした。それは、神が証ししてくださいます。また、あなたがたからもほかの人たちからも、人からの誉れを求めませんでした」。少なくとも私のような人間には、耳が痛い言葉です。人に媚びたりへつらったり、人からほめられたいと思ったり、そういう誘惑を知らない人はひとりもいないし、説教者だって例外ではありません。むしろ、恥を忍んで申しますが、私が人からの誉れをいちばん欲しくなる場面は、説教をしているときではないかと思います。「先生、今日の説教、よかったです」なんて言われたらやっぱりうれしいし、けれども人からの誉れを目指して説教している人間は、いつの間にか「神に勇気づけられた」言葉ではなく、別の動機に基づく言葉を語り始めるのではないかと思います。
耳が痛いと言えば、私にとっていちばん耳が痛いのは、ここに「母親」とか「父親」という言葉が出てくるところです。7節の後半から、「母親がその子どもを慈しみ育てるように、あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたは私たちの愛する者となったからです」。自分は、本当にこういうことが言えるかな、と正直に言えばひるみます。あるいは11節以下、「あなたがたが知っているとおり、私たちは、父親が子どもに対するように、あなたがた一人一人に、神にふさわしく歩むように励まし、慰め、強く勧めました」。今皆さんが私の顔をしげしげと見て、これがわたしたちの母親かなあ、父親として受け入れられるかなあ、というようなことを吟味し始めたら、ちょっと逃げ出したくなります。
ところが、ここでもうひとつ――別に逃げるつもりはないのですが――もうひとつ興味深い言葉があります。7節の中ほどに、「むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました」と書いてあります。 母親だったり父親だったりしたはずの牧師が、なぜここで急に幼子になるのでしょうか。もう一度7節全体を読むと、「私たちはキリストの使徒として重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました。母親がその子どもを慈しみ育てるように……・」。私はキリストの使徒として重んじられるべきだと言ってみたり、それが急に幼子になったり、かと思うと私はあなたがたの母親だと言ってみたり、どうもここは意味が取りにくいのですが、こういうところこそ、AIに説明を求めるのではなく、私が、私自身のこととして考えてみるのがいちばんよくわかると思います。
私も、キリストの使徒です。そして、皆さんがどう思っていらっしゃるか知りませんが、子どもには母親が必要です。父親が必要です。それと同じように、教会には牧師が必要なのです。ところがその牧師とは何者かと言えば、幼子のような存在であると言われるのです。論理的には無茶苦茶に聞こえますが、私自身のこととして考えると、本当によくわかるのです。
幼子には、何の力もありません。自分で自分を守ることができない。誰かに守ってもらわないといけない。それが幼子です。自分には何の力もない。ただ神に勇気づけられて、神の力以外に何の後ろ盾も持たないから、だから、そういう存在として、ただ神の福音だけを語らせていただくのです。「わたしには、神さまがいるから。もし神さまがいなかったら、わたしはみなしごになってしまうから」。神に守られた幼子にしか語り得ない福音の言葉というものがあると思うのです。そしてそういう人間の言葉こそが、母親のごとく、父親のごとく、教会を教会として生かす力を持つのだと私は信じます。
■さらに8節に進むと、こう書いてあります。「あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです」。これもまた、特に私のような伝道者をひるませる言葉です。自分は果たして、そこまで言えるかな。けれどもこういう言葉を読みながら、きっと皆さんは既に伝道者パウロの愛ではなく、まずキリストの十字架のことを自然と思い起こされるだろうと思います。主イエス・キリストは、それこそ神のひとり子として「重んじられることができたのですが、むしろ、あなたがたの間で幼子のようになりました」。主イエス・キリストは、幼子のようになられた。その幼子というのは、もう一度申します、神の愛以外には何の支えも持たない、何の後ろ盾も持たない存在として、主イエス・キリストは私どもの間で幼子のようにお立ちになりました。そして事実主イエス・キリストは、「神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと」、十字架の死に至るまで、その歩みを貫いてくださいました。
このお方の愛に触れて、このお方の愛に生かされて、私どもはここに立ちます。そういう私どもに、伝道の使命が委ねられているのです。このキリストの福音を伝えるために、神はほかのいかなる手段も用いず、ただ人間をお用いになります。神に勇気づけられた人間。神がお用いになるのは、それだけです。キリストの愛が口先だけの愛であったことは一度もない。それと同じように、キリストの愛の担い手たちもまた、口先だけで愛を教えるわけにはいきません。「あなたがたをいとおしむ思いから、私たちは、神の福音だけでなく、自分の命さえも喜んで与えたいと願ったほどです」と、たとえばそのように言えるようになった人間を、神はお用いになるのです。教会は、そのために生きています。
今日はこのあとの主礼拝で、東京神学大学で長く教えられた近藤勝彦先生を説教者として迎えます。皆さんもそれぞれにご予定があるでしょうが、もし可能なら、今からでも予定を変更して、主礼拝にも続けて出ていただきたいとさえ思います。まあ、それはさすがに難しいでしょうから、今日でも明日にでも、それこそインターネットの恩恵にあずかってでも、近藤先生の説教を聴いてほしいと思います。私は学生のときから、近藤先生の説教が好きでした。比較するのもおかしいのですが、当時の教授会の中では近藤先生の説教がいちばん好きでした。神学校では毎日10時から30分弱の礼拝があります。教授たち、また学生たちが順番で説教をします。その中で近藤先生の説教は、何と言うんでしょう、学生相手に説教しながら、学生を学生として見るのではなく、今ここで福音を伝えるべき相手として見てくださったような気がします。近藤勝彦というひとりの人間が、人間の心に向かって語りかけるような。人間の心から、人間の心に向かって語りかける、こういう説教を、自分も語れるようにさせていただきたいと思わされたものです。そのようなところでこそ、パウロが13節で感謝したような、神の言葉の出来事が起こるのです。
このようなわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。私たちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、まさに神の言葉として受け入れたからです。この神の言葉は、信じているあなたがたの内に今も働いているのです。
このような出来事が起こるために、今ここに、教会が生かされているのです。神の言葉の出来事、神の愛の出来事のために、人間が用いられるのです。人間の心が用いられる。人間の言葉が用いられる。そうであれば、AIの作った説教など、忍び込む隙もないことは明らかであります。お祈りをいたします。
教会のかしら、主イエス・キリストの父なる御神、あなたのみ言葉を聴きました。そのような教会の群れが今ここに生きているのは、ただあなたのみわざであると信じ、感謝いたします。あなたの命の言葉によって、教会は生きています。本当は、すべての人があなたの愛の語りかけを聴かなければなりません。そのために教会は生きています。どうか今ここに生きるこの教会を、あなたのご用のために用い尽くしてください。ことにみ言葉のために立てられているすべての説教者のために、その準備をしている神学生のために、またそのために仕えている神学教師のために、ますます熱心に祈る教会とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン








