Let It Be
ルカによる福音書 第1章26-38節
柳沼 大輝

主日礼拝
聖書のなかには、私たちの常識では到底、理解することのできないような出来事がたくさん記されております。本日、共にお聴きしているこの「受胎告知」と言われる聖書の箇所もその一つであると言えるでありましょう。
ここに記されております「受胎告知」の出来事を古くから教会は「処女降誕」と呼んできました。まだ男性と関係を持っていない、いわば「処女」であるはずのマリアに聖霊の力によって男の子が宿り、それによってイエス・キリストが人の子としてこの地上にお生まれになったという教会の教えであります。
はじめて聖書に触れた方が、本日の箇所を取り上げてよくこのように言います。「聖書にはよい教えがたくさん書かれている。イエスが立派な方であったということも十分わかる。けれどもこのような箇所があるから、このような非現実的なことが書かれているから聖書は信じられないのだ」。
よく聞く言葉であると思います。しかし主イエスを救い主と信じて、すでに信仰生活を送っておられる方々のなかにあっても、本日の御言葉と向き合うとき、ここに語られていることは、現実の出来事なのだろうか。まことにこのようなことが起きたのだろうか。そのように聖書が証しする不思議な神のみわざに戸惑い、少しばかり聖書への疑いが生じるといったことがときにあるのではないでしょうか。そういった意味では、私たちもはじめて聖書を手に取って、こんなことはありえないと、起こるはずがないと頭のなかであれやこれやと考え、神を疑い、戸惑う者たちとそれほど変わらないのではないかと思うのであります。
しかし大切なことは、そのような信じられない私たちのために御子はこの世に来てくださったということであります。そのような疑い深い私たちのために主は十字架で死んでくださったということであります。本日はその主の真実を「受胎告知」という神のみわざを物語るこの御言葉から共に聴きたいのであります。
天使ガブリアエルはナザレというガリラヤの小さな町に神によって遣わされました。ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるマリアのもとに遣わされたのであります。「いいなずけ」というのは、ヨセフと婚約関係にあるということであります。それはつまり結婚の約束をした段階であって、まだヨセフとは一緒に暮らしていないということであります。そのような傍から見たら未婚の娘であるマリアのもとに天使ガブリエルは遣わされたのであります。
そこでガブリアエルはマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方」。この言葉は、直訳しますと「喜べ、恵みを受けた方」となります。「おめでとう」という言葉が「喜べ」という命令形の言葉なのです。つまり天使は、ここでマリアに言うのです。「喜べ、恵みをいただいた方」。そして続けてこう言います。「主があなたと共におられる」。
しかしマリアにしてみたらいきなり「喜べ」と言われても、何を喜んでいいのかわかりません。「恵み」と言われてもどんな「恵み」かわからない。「主が共におられる」と言われても「おられる」とはどういうことなのかもよくわからない。この天使ガブリアエルの言葉は「わからない」ことだらけの言葉なのです。ですからマリアは恐れながらも、戸惑い、そして考え込んだとあります。考え込んだとは議論するという言葉であります。マリアはわからないことだらけのこの言葉を前にああでもないこうでもないと、頭のなかで自問自答したのでありましょう。
そんなマリアに向かって天使ガブリアエルは彼女の名前を呼んでさらに続けます。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(30-33節)
主イエス・キリストの降誕を告げる有名な言葉であります。しかし意外かもしれませんが、よく見てみますとこのガブリアエルの言葉は、マリアがヨセフによらずに、つまり男の人と関係を待たずに男の子を産むなどといったことについて、まだ一切、何も語っておりません。たしかに「身ごもって男の子を産む」とは語られていますが、けれどもそれは聞きようによってはゆくゆくヨセフと一緒になって、結婚して、一緒に生活するようになり、神の祝福として子どもを授かり、その子が特別な子になると解釈できなくもない言葉であります。
この戸惑い、思いあぐねているマリアにガブリエルが語った言葉からは、ヨセフによらずに男の子を産むことについて、具体的にまだ何も語られていないわけであります。むしろ、ガブリエルが語ろうとしているのは、後半の方であって、その生まれて来る子がどんな子であるのかということに重点を置いて語っているのです。つまり、ガブリエルはその生まれて来る子がどんな子で、どんなものを持っているのか、そのことを一所懸命にマリアに対して伝えようとしているのです。
にもかかわらず、マリアはガブリエルに言うのであります。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」(34節)マリアはガブリエルによってはじめに語られた「男の子を産む」という言葉にばかり反応して、そんなことはありえない、常識では考えられないと、ガブリエルが語るこの神の言葉を疑い、信じようとしないのです。
ガブリエルがマリアに語った言葉には、彼女がわからずにあれかこれかと考え込んでいる、彼女に与えられているはずの「喜び」も「恵み」も「主が共におられる」とはどういうことかももうすでにその答えが語られております。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。
偉大な人とは、力をもった人であるということであり、いと高き方の子とは、神の子であるということであります。そしてその子はダビデの王座に坐り、ヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。ここで言われているのは、神の子がこの世を「支配」してくださるということであります。「王座」という言葉も「治める」という言葉も、同じ「支配」という言葉であります。神の子が、この暗闇に満ちた世界を光で照らしてくださる。神の愛でこの世界を治めてくださる。そのような神の支配がマリアに与えられた喜びであり、恵みであり、主が共にいてくださるという「現実」でありました。そしてその神の救いの現実にマリアもまた神によって招かれているのであります。
しかしマリアは男の人を知らないのに男の子を産むなどそんなことはありえない、できるはずがない、そのことに心を捕らわれて、この神から与えられている大きな恵みに気づくことができません。彼女は、自分の頭では理解できないことに囚われて天使が伝える神の言葉を疑い、それを受け止め、信じることができないのであります。
そんな神の言葉を疑うマリアに天使ガブリエルは告げます。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。(35節)
聖霊があなたに降って、神の力があなたを包む。そのようにして、つまり男の人を介さずに、聖霊の力によって、あなたは男の子を産む。そのようにガブリエルは神の言葉を語ります。けれども、神の言葉はそこで終わりません。マリアがその神の不思議なみわざを信じることができるように「一つのしるし」を彼女に示すのであります。
「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(36-37節)
不妊の女と言われていたエリサベトが男の子を身ごもっている、この出来事がマリアに対して神から与えられた「一つのしるし」でありました。本日の箇所の直前、24節にはこうあります。
「その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた」。
このことからいったい何がわかるかと言いますと、妊娠から五か月の間は、エリサベトとその夫であるザカリア以外に、その妊娠という出来事を知る者は誰もいなかったということであります。けれども、妊娠、六か月に入り、いよいよお腹も大きくなり、エリサベトの妊娠が誰の目から見ても明らかになった、隠せなくなった、そのときに、天使ガブリエルはマリアのもとに遣わされたのであります。だからこそ本日の箇所の冒頭、26節には、わざわざ「六か月目に」というエリサベトの妊娠の期間を示す言葉が書き記されているのであります。
本日の箇所の前ですでに語られていることでありますが、祭司ザカリアのもとに天使が現れて、「あなたに待望の子が与えられる。その子をヨハネと名付けさない」との神の言葉が告げられたとき、彼もまたマリアと同様にその神の言葉を信じることができませんでした。自分はもうすでに老人であるし、妻エリサベトも年を重ねて高齢になっている、いまさら自分たちの間に子どもが与えられるなど信じられない、そんなことありえない、非現実である、そのように考えました。しかし天使から告げられた言葉は、そんなザカリアの困惑などお構いなしといった調子で、ただ信じなさい、とそう促すのです。結局、彼は、天使が告げるこの神の言葉を疑い、この喜びの知らせを信じることができませんでした。ゆえに彼は天使が告げた通り、ヨハネが生まれるまで、神の言葉が実現するまで口を閉ざされることとなります。
一方、マリアはと言いますと、ザカリアのときとは明らかに違うのであります。マリアが神のみわざを信じることができるように、神の言葉が伝える「恵み」を受け取ることができるように神はマリアに「一つのしるし」を与えてくださるのであります。あなたの親類であるエリサベトも常識では考えられないかもしれないが、男の子を身ごもっている。神の力によって子どもが与えられた。神にできないことは何一つない、とそのように神の全能の「しるし」をすでに用意してくださっているのであります。
このことから言えることは、マリアは「信じる」ことを前提として、天使の御告げを受けたのではないということであります。神の子の誕生を告げる言葉、その神の恵みは、すでに「信じる」ことが前提にある者、純粋無垢で本当に信じられる者のところに告げられたのかと言いますと、そうではないのであります。「主を宿す」、その女性もまた、信じられない者であるにも拘わらず、身ごもるということが与えられている。そういうことを前提として、この「受胎告知」の記事は主の救いのみわざを物語るのであります。
私たちはこのことから教えられることがあります。それはマリアが信じられない者として「一つのしるし」を必要としたように、神がその相応しい「しるし」をマリアに用意してくださったように、私たちにもまた信じるための「一つのしるし」が備えられているということであります。
マリアは主イエスの母になることをゆるされたのであって、自ら、そのことを信じることができたからマリアは主イエスの母になったのではありません。そしてそのことは私たちの「救い」においても言えることであります。私たちも神を信じるに至ったというのは、私たちが敬虔で信仰深い者であったから、救いに至ることができたというのではありません。自分で信じると決意したから救いに招かれたのではないのであります。
それでは、私たちが信じるために神が備えてくださっている「しるし」とは何でありましょうか。それはこんなにも疑い深く、こんなにも罪深い私のために、私たちのために、御子が人の子としてこの世に来てくださったということであります。そしてこんなにも不信仰な者のために主イエスが十字架で死んでくださったという、その救いの出来事であります。まさにマリアの妊娠というのはこの神の救いの出来事のためにもちいられた神のみわざでありました。
私たちは聖書を手に取って、さまざまなことを考えます。ああでもないこうでもないと頭のなかで考え込み、戸惑い、こんなことはありえない、現実ではないと神の言葉を疑います。神の救いを諦めます。そうやって、聖書が証言し、私たちに伝えようとしている恵みを聴きそびれてしまう。けれどもそうやって神を疑い、恵みを受け取ろうとしない者に、主は聖霊をお送り、あなたの名前を呼びかけ語りかけるのです。「恐れるな。私があなたを救う。そのために私は十字架で死んだ。だからあなたは私の言葉を信じなさい」。
こんなに疑い深く、神から遠いはずの私のために神の子であるはずの主イエスが人の子としてこの世に来てくださった。十字架の上で自らの命を捨ててくださった。考えてみますとこの出来事こそが一番、常識外れな、ありえないことであるはずであります。しかし、神にできないことは何一つない。こんな私のことをも神は憐れみ救ってくださった。この救いのしるしが今、ここにある。現実の出来事として私たちの目の前に鮮やかに描き出されている。それが、主に救われているということであります。
私たちが自ら、信じようと思って救われるのではありません。もちろん、信仰とは「私が信じる」ことでありますが、その前提として主が十字架と復活のみわざによってすでにこの私を救いへと招いてくださっている。「私の恵みを受けよ」とその御手をもってすでに私を捕えてくださっている。そうやって備えてくださっている主の「真実」がある。だからこそ私たちは信仰へと至るのであります。そして私たちはその救いの恵みに毎週、この礼拝において説教を通して、また聖餐を通して与ることがゆるされているのであります。
マリアは言います。「私は主の仕え女です」。「主の仕え女」というのは「主の奴隷」と言うことであります。マリアは神の言葉を前にして、自分がいったいどのような存在であるのか、神の言葉に打ち砕かれそのことをはっきりと認識したのであります。自分はただ神に従い自らの身を捧げるべき存在でしかない。そうやって、罪の身を捧げて、まったく神にお仕えすること、それがまさに信仰であります。
私たちも神の言葉を聴くとき、自分がいったいどのような者であるのかということを知らされていきます。私たちも主に仕える者であります。しかし、私たちに罪がある限り、この身を捧げるということはできないのであります。神にこの身を捧げたいと願っても疑いや迷いがあり、すべてをまっすぐに神に捧げることはできません。
神が言っておられること、それは罪の身をなお憐れんでくださる、救ってくださる、この罪の身をなお、もちいてくださるということであります。その神の恵みに私たちがお応えできることは、「神様、感謝です。この罪の身をあなたにお捧げします」と祈ることに他ならないでありましょう。神の前に相応しく、すべてを信じることができるようになったら、それからこの身を神に捧げるのではありません。主を疑う気持ちがまったくなくなったから、そう言って神にこの身を委ねるのでもありません。私たちはそのように神に相応しい自分になったら神に自分を捧げることができるとそのように考える。しかしそうではないのであります。神の前にまったく相応しくないからこそ、神が憐れんでくださったこの身であるからこそ、ただ感謝をもってこの罪の身を神に捧げるのであります。
マリアは続けて言います。「お言葉どおり、この身になりますように」。マリアはこの罪の身を、一生、神に仕える者として捧げ、この罪の身が神の御言葉に聴き従いますと言い表す、それがこのマリアの言葉であります。私たちは神の憐れみによって罪深い者でありながら、なお神の御言葉に聴き従うことをゆるされています。疑い深い罪の身でありながら、それでも、この身に神の言葉が、その救いの恵みが実現することを体験することができる、それが私たちの信仰であります。
マリアは自らの身を捧げました。清く正しい者としてではなく、神の言葉を疑い信じられない者として、神がなお憐れんでくださったからこそ、その罪深い身を神に捧げました。その罪の身で神の言葉に従いますと言い表しました。私たちにもマリアと同じようにこの罪の身をそのまま神に捧げることのできる「信仰」が与えられています。
またすぐにありえない、そんなことできるはずがないと、神の言葉を疑うかもしれない。しかしもうすでにここに「しるし」があります。私たちを救うために人となり来られたイエス・キリストの十字架があります。その主が「今日も」御手をもって私の恵みに与りなさいと私たちを招いてくださっている。だからもう恐れることはない。このアドベントのとき、その神からの「しるし」を見つめて歩んで行こう。そして言い表そう。「お言葉通り、この身になりますように」。ここに主が共にいます、神の恵みが、私たちに与えられている本当の信仰があるのであります。神よ、この疑い深い者を、なお憐れみ、御言葉によって支え導いてください。あなたの言葉によって、罪多きこの世にまったき光を輝かさせてください。
主イエス・キリストの父なる御神、この罪多き私をなお憐れみ、救い出してくださったあなたのみわざに感謝いたします。疑い深い私です。またあなたの前に戸惑い、恐れを抱く私です。しかしあなたがそんな私を求めてくださった。見出してくださった。だからこそ、私はなお主にこの身を捧げます。どうかこの身にあなたの言葉がなりますように。主よ、私たちをあなたの救いのためにもちいてください。この祈り、私たちの主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン








