In me, in you
ヨハネによる福音書 第15章1-10節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
ヨハネによる福音書の第15章を読みました。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」
主イエスの美しい譬え話です。
主イエスのお声が聴こえてきそうな御言葉です。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」
もしかしたらみなさまは、その1節より、こちらの5節のほうをよく覚えておられるかもしれません。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
一度聴いたら誰でも忘れられなくなるような、そんな御言葉です。愛読し、もう暗記している。そういう主イエスのお言葉ですけれども、でもこうしてお聴きすると新たに思わされます。そうか、私はイエスさまというぶどうの木につながっている枝なんだ。いつもイエスさまにくっついている枝なんだ。そうやって、ほんとうはみんな、ここに帰ってくることができる、そんな御言葉です。
今日は転入会式が行われました。奇しくもそこでもこの御言葉が読まれたのです。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」。そうだね、と言われているみたいです。そうだね、あなたはもう一度ここに帰って来るんだ。あなたは、ここにつながっていなければならない。あなたがたは、みんなその枝なんだ。
改めてここから見ても思います。ここには一本のぶどうの木が立っていて、そこからはこんなに多くの枝がついている。配信先にも枝がいる。どれ一つ欠けてはならない主イエスの枝です。そこで主イエスはこう言われています。
In me。
私のうちに。In me。
私の内に居れ。
教会というのは、一本のまことのぶどうの木。
そして皆様も、このたとえをお読みになって、一見しておわかりになると思いますけれども、ぶどうの木である主イエスが、「つながっている」という言葉をとても大切に言われています。「私につながっていなさい」、「私につながっていれば」。それから「私もつながっている」、「私もその人につながっている」。
当然、ぶどうの木に枝がつながっていなければ、もう枝は枝ではなくなって、落ちて枯れてしまいます。でも主イエスはそのぶどうの木と枝の関係を、そのように「つながっている」と、ほんとうに生き生きと語ってくださって。それも、お互いに、相互に、「つながっている、つながっている」と、おっしゃいます。
そこで主イエスがこんなにも大事になさっているこの「つながっている」という言葉ですが、昔は「居る」と訳しておりました。「私の中に居る」。「私もあなたがたの中に居る」。または「とどまる」とも訳されます。主イエスがこのあと「私の愛にとどまりなさい」(15:9)と言われますが、それも同じ言葉です。「とどまる」というのですから、ちょっとそこに居るというのではなくて、いわば、そこに「住んで」しまうのです。主イエスの愛の中に「住む」。主イエスの愛の中に「住み着く」。それはお互いに、そこに住んでいる。お互いにそこに存在している。
それで主イエスがそれをおっしゃるたんびに、英語で申し訳ないですけれども、In me。と言われるんですね。In me。私の中に。
それから、あなたがたの中に。In you。
In me、In you。
主イエスがこのことを話されたのは、あの最後の晩餐の席でした。あの夜は静かで、弟子たちとの密な時間でした。でも羊飼いが打たれたら、羊はばらばらになる。そのとおりに、このあと弟子たちはほんとうにばらばらになります。死の恐れの中で、ほんとうにばらばらになります。
でもその前に主イエスが、この1本のぶどうの木の話をしてくださったのですね。このぶどうの木は、死を超える。いわばよみがえりの木。あなたがたはそこにつながっている。
In me。
それまで弟子たちは、主イエスの「傍に」にいて、主イエスに従ってまいりましたけれども、しかしこれからは、主イエスの「そばに」ではなく「主の中に」になる。
もうそのときには、弟子たちは、主イエスから離れるということを考える者はひとりもいない。その結びつきはいつまでも続く、死んでも続く。In me。In you。
私どももそこにいるのです。
でも私どもが、このぶどうの木の話を聴いて、きっとそれでも気になるところがあると思うのです。どうしても、心配になるところがあると思うのです。それは「実を結ぶ」というところではないかと思います。「実を結ぶ」。「実を結ばない」。
じつは主イエスは、ほんとうは、その話を最初からなさっています。実を結ぶか、実を結ばないか。「私につながっていれば、枝は豊かに実を結ぶ」、でも「つながっていなければ、実を結ぶことができない」。そればかりかもっと厳しいのは「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き」(15:2)と、言われます。
そこには農夫がいる
「私の父は農夫である」(15:1) 。
神様が手入れをなさいます。
そうすると、どうしようと思います。自分はどうだろう。自分は実を結んでいるんだろうか。そもそも実をつけたことがあるんだろうか。
人生の実り、といいますけれども、誰でも実りのある人生を望んでいます。実りを数えることができる人生もあります。でも反対にいくら努力しても実らない人生もあります。それほど苦しいことはないと思います。一見、実がなっていても、中はスカスカということもあります。もしも何も得られなかったら、何も実らなかったら、一度しかない人生、無駄になったと思うかもしれません。でもその実り多い人生とはいったい何なのか。ということを主イエスが、ここで語っておられます。
主イエスはいったい何を求めておられるんだろうか。
「私の父は農夫である。」と主は言われましたが、それは神様が苦い経験をお持ちだったからです。もともと「ぶどうの木」とか「ぶどう畑」というのは、旧約聖書では神様の民イスラエルを意味していました。でも、イスラエルがいい実をつけたというのは、ほとんど出てこないのです。それよりも農夫がせっせとぶどう畑の世話をするのに、できたぶどうの実は酸っぱかった、とイザヤ書第5章にあります。農夫が言います。
「私がしなかったことがあるか」。
それなのに実ったのは酸っぱいぶどうだった。甘くなかったのです。おいしくなかったのです。ちっとも実らないか、それか、実っても傲慢。傲慢というのは、自立してしまうのです。自立して、神から離れてしまうのです。自分で立っている気になってしまうのです。
誰でも、自分が認められたいと思うことはあると思います。何かうまくいったときには、自分がやりました、と言いたいです。自分がやったのです。自慢したいです。いろいろうまくいったなら、自分は恵まれていると思うときでさえ、もしもその自分のことばかり考えると、自分の中に、主イエスがおられるということをすっかり忘れてしまうと、そこに立ち帰らないと、そこで罪を犯すのだと、言わなくてはなりません。
味をみるのは神様です。
おいしいかどうかを決めるのは神様です。
神様が、枝の純粋さを見ておられるのです。
だから主イエスが言われています。
私があなたがたの中に「住む」。In you。
それで「私の言葉」とおっしゃいます。「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」(15:3)。あなたがたはすでに清い。なぜなら、主の語られた言葉が、私どもの中に住んでいるからです。
ぶどうの木が、枝に与える栄養は「言葉」です。でも主イエスご自身が言葉ですから、主イエスご自身が言葉となって、私どもの中に「住んで」くださる。私どもが説教を聴いて、まるで私のことだ、私に語られている、と思う。それで人生を変えるのも、人生が喜びで満たされるのも、悔い改めの豊かさに生かされるのも、私どもが主から命をもらっている枝だから。
だから私は「実を結ぶ」ことができる。自分で実を結ぶのではなくて、主につながっているから、私は自然に実を結ぶのです。
実りの多い人生とはいったい何なのか。それは、主イエスの言葉に生かされる。主イエスの言葉に生きて従ってゆきたいと思う。主のお心が自分の心になって、主にお仕えしたいと思う。それが実りの多い人生だと思う。
それで思いました。私の父は農夫である。
父はそれで、この地上に「まことのぶどうの木」を植えてくださったのです。
「私はまことのぶどうの木」。
主イエスがそう言われるとき、私が「まことのぶどうの木」と言われている。「私からは、父が悲しまれるような実はならない。」
あなたがたはその私につながっている。
主が私どもにそのいい実を結ばせてくださるのです。
私がこの中で一番心を惹かれたのは、主イエスがこう言ってくださったことです。
「私を離れては、あなたがたは何もできない」(15:5)。
あなたがたは、何もできない。
嬉しくなりました。私どもをそんな存在にしてくださる。あなたがたは私がいないと何もできない。「頼れ」と言ってくださっている。それほどまでに私どもと一つとなってくださっている。どうしてこんなつまらない。実りのない人生。そうやって自分はだめだと言っていたら、それは主イエスのことをだめだと言っている。
さっき「私につながっていながら実を結ばないものは」と主イエスが言われたと申しました。主はどんなお気持ちでこのことを言われたんでしょうか。主につながっていながら、実を結ばないというのは、どういうことなのでしょう。主につながっていながら、主イエスのほうは離さないのに、主イエスから離れてしまう枝が、あるということなのでしょうか。もしそうなら、主イエスはどうなさるでしょう。父に切ってくださいと言われるのでしょうか。そうしたら、主イエスが切られるのです。そしてそんなことを主イエスはちっとも言っておられない。
そうじゃなくて「とどまれ」と言っておられます。私のうちにとどまれ。私の中に、
「私の愛にとどまりなさい」(15:9)。
それなのに、どこに行くんだ。
あなたは、私を離れては、何もできない。
本日、転入会をされた方が、試問会でこういうことを言われました。「老後になっても、この恵みの中にいたいと思いました」。
年を重ねてまいりますと、教会に来られなくなるときが来ると思います。それは考えたくないほど現実的なことです。いまも何名もの方々を数えることができます。どれだけの思いをなさっているんだろうかと思うのです。
あるときはご自宅に行き、あるときは施設に行き、そして病院にもまいります。
たとえ何もできなくなっても。たとえいろいろなことを忘れても。
そして死の床に入っても。私がたとえば耳元で「教会です」と申しまして、そして主の言葉を告げますと、ハッとなられます。眠っておられた方も目を開かれます。ただ起こされたっていうんじゃないのです。目を上に向けて、明らかに、主を見ておられます。
聴いておられるんです。
主の言葉が、
その方の中で生きておられるのです。
あなたは私を離れては、何もできない。
In you。
そして主が言われるんです。In me。
それは死を超えて、いつまでも続く。
ぶどうの木と枝は、お互いにそうやって居続ける。そういうことなのでしょう。
それが実りです。
なんて美しいぶどうの実でしょう。











