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罪の行き着く先

2025年3月23日

ローマの信徒への手紙 第1章18-32節
川崎 公平

主日礼拝

 

■ローマの信徒への手紙を主の日の礼拝で読み始めて3か月、まだ第1章を読み続けておりますが、来月からは第2章に進みたいと考えています。それにしても、この手紙の第1章の後半は、そして実は第2章も、第3章の前半も、私どもの心をたいへん重くするものがあります。なぜ心が重くなるかというと、少なくともある程度は当たっていると思うからです。

あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです(29~31節)。

ずいぶん言葉はきついのですが、よくよく考えてみると、何も大げさなことは書いてありません。私どもが生きている世界の現実を、そのまま言い当てた言葉が、このように聖書に記されていることに驚きを覚えます。そして私どもは、もっと素朴に疑問を抱くべきだと思います。どうしてこの世界は、こんなにも暗いのだろう。神は、いったい何をしておられるのだろう。もし本当に神がおられるのなら、どうしてこんな悲惨なことが起こるのだろう。そもそも、神なんかいないんじゃないか。

そのような問いに対して、今朝読みました聖書の言葉は、たいへん明確に答えてくれています。そこで大切な意味を持つのは、24節、26節、28節に同じ言葉が繰り返されていることです。

そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに〈任せられ〉……(24節)

それで、神は彼らを恥ずべき情欲に〈任せられました〉(26節)。

彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに〈渡され〉……(28節)

24節と26節では「任せられ」と訳され、28節では「渡され」と訳されていますが、原文では同じ言葉です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書において、この言葉は主イエスのご受難を表現するために用いられます。「イエスは死に渡され」、「十字架に引き渡され」と言うのです。ここでも「引き渡した」と訳したほうがよかったかもしれません。「神は人間を、汚れた欲望へと引き渡された」。「恥ずべき情欲へと引き渡された」。「神は人間を、無価値な思いへと引き渡された」。この手紙を書いたパウロは、三度畳みかけるように同じ言葉を繰り返しているのですから、同じ日本語で訳してほしかったと思います。

「引き渡す」と言っても、嫌がる人間を、無理やり引きずって行ったわけではありません。私ども人間は、自分の自由で、自分の好きなように、罪を犯したのです。神は、それを敢えて許した。だからこそ私どもの翻訳では「任せられた」と訳されているのでしょう。「ならば、勝手にするがよい」。そこに、最初に読んだ29節以下のような、私どもの生活が造られていったのです。

■ここで思い起こされるのは、ルカによる福音書第15章に伝えられる、主イエスの語られた譬え話です。父親の家にいたふたりの息子の弟のほうが、相続財産の分け前を受け取るや否や、父の家からいなくなってしまったという話です。〈放蕩息子の譬え話〉と呼ばれることがありますし、その呼び方がいちばんはわかりやすいので、ここでも〈放蕩息子〉と呼ぶことにしますが、この話の肝心なことは、この息子が放蕩の限りを尽くしたことではありません。父の家から、いなくなったのであります。「ああ、これで俺は自由だ。お金はいっぱいあるし、あのクソ親父もいないし!」 そこからすべての悲惨が始まったのです。この弟息子は、あっという間に窮地に追い込まれ、遂には豚の餌にまで手を出したくなったと言われるのですが、もしも逆にこの弟息子が大成功を収めて大金持ちになったとしても話は同じことであります。神を捨てたのです。そこにすべての悲惨の根源がある。

なぜここで、放蕩息子の話が始まったのか、きっと皆さんも既にお気づきだろうと思います。この譬え話の中の父親は、もちろんそれは神を意味するわけですが、ご自分から離れ去ろうとする息子を無理に引き留めようとはしません。父親は、この息子がやがてどういう結末に立ち至るか、よくわかっていたのですが、それにもかかわらず、自分の子どもを鎖で縛りつけるようなことはなさいませんでした。それがまさしく28節に書いてあることで、「この弟息子は、神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、その息子を、無価値な思いに引き渡された」のです。ありとあらゆる汚れた欲望へと、任せられたのです。そこでただちに私どもは、自分自身のことを、また私どもが生きているこの世界のことを反省しなければならないと思うのです。

「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み」。もし神がいるのなら、どうしてこんな悲惨なことが起こるんだろう。そもそも、神さまなんかいるんだろうかと、われわれはそのように、はなはだ自分勝手なことを考えるのですが、本当は神の側からご覧になったら、話はまったくさかさまなのです。神は生きておられるのに、どうして人間はここまで自分勝手になれるんだろう。わたしの家に帰って来ればいいのに、どうして豚の餌まで食べようとするんだろう。神の側から見たら、こんなに不思議なことはないのですが、けれども私ども人間は、どうしても罪を犯したかったので、それで神は、敢えてそれを許したのです。

「神は、人間を、罪の中へと引き渡された」と言われます。三度繰り返して、そう言われるのです。考えてみると、こんなに恐ろしい言葉はないかもしれません。しかもそこで、神よ、なぜあなたはこんな恐ろしいことをなさるのですか、と文句を言うことはできません。私どもがしたいことを、したいようにしただけの話であります。それにしても、神がそれを許した、神が人間を引き渡した、というこの表現は、こんなに恐ろしいことはないと思うのですが、しかしまた、ここにしか望みを見出すことはできないのではないかと、私は思います。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち」た、この世界なのであります。すべては、人間が勝手にしたことなのですが、それを許しておられるのは、神なのです。いちばん深いところですべてを支配しておられるのは、やはり神なのです。そしてすべての支配者でいてくださる神は、決してご自分の放蕩息子たち、放蕩娘たちを見捨てたりなさいません。いつか必ず帰って来ることを待っておられます。しかし、いつ帰ることができるのでしょうか。どうしたら、帰ることができるのでしょうか。

■そこでもうひとつ、丁寧に読み解かなければならない大切な言葉があります。28節に、「価値がある」とか「無価値な思い」という言葉が出てきます。ここに「価値」という言葉が繰り返されているのは、なかなか翻訳に苦労したというか、工夫のあとが見られます。もともとの意味は、「テストする」、「よく吟味する」という意味の言葉です。よく吟味して、テストして、「合格。これは価値がある」と判断するということです。そのニュアンスを生かして28節を少し丁寧に訳し直すと、「彼らは神をテストして、そのテストの結果、神を知ることに価値を見出さなかったので」。まさしくあの放蕩息子のごとく、こんなクソ親父の家でくすぶっていて何の意味があるか。お金さえもらったらこっちのものだ、これからは自由に生きるんだ。そういうことであります。

それに対する神の答えは、「神は、彼らを無価値な思いに渡され」。この「思い」というのは、「理性」と訳すこともできる言葉です。少なくとも古典ギリシア語を勉強し始めて一年目くらいの学生にこれを訳しなさいと言ったら、99パーセントの人は「理性」と訳すと思います。私どもはたいてい、自分の理性には間違いがないと思い込んでいます。ところがその理性が、神の目からご覧になったら、とうていテストに合格できるような代物ではなかったのです。あの放蕩息子だって、きっと自分では理性的に考えて、合理的に考えて、絶対こうしたほうがいいと信じて、父の家を飛び出したのです。「神なんかいらない」という歪んだ理性に、神は私どもを任された。そのとき、どういうことが起こったか。

ちょうど40年前に、当時の牧師の加藤常昭先生がこの箇所について説教して、こういうことを話されました。かつてオイルショックという事件が起こりました。私がまだ生まれていないくらい昔の話ですが、突然石油の値段が高くなって、そこで日本で何が起こったかというと、すべての店からトイレットペーパーが消えました。紙がなくなると聞いて皆が買いだめをした。14年前の震災のときにも、5年前のパンデミックのときにも、似たような買いだめ騒動が起こりました。どうして日本人というのは、こんなに愚かなんだろうと、本当に悲しくなりました。「無価値な理性」というのは、まさしくこういうことを言うのでしょう。毎朝のようにドラッグストアの前に開店前から行列をなして、「いや、あなた、もう一生分のトイレットペーパーを買い込んだのではないですか」と言いたくなるほどに買いだめをした人間の姿は、悲しいほどに愚かだと言うほかないのですが、そこで加藤先生は言うのです。「それなら、神についてはどうでしょう。紙ひとつでさえ無くなりそうだと聞けば、すぐにうろたえるのに、神はおられなくてもやって行けるなどと、なぜ思い込むのか。神なしで生きて行くほうが人間として正しい生活なのだとさえ、なぜ考えてしまうのか」。

それが、28節に書いてあることの意味です。「彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。具体的には、何をするようになったのか、それが29節以下に列挙されているわけですが、これをある説教者は、「むさぼり」というひとつの言葉で言い換えて見せました。まさしくその通りだと思わされます。「むさぼる」という言葉は、少し古風な響きを持ちますが、私どもはこの「むさぼる」という言葉の意味を、忘れてはならないと思うのです。たとえば私どもは毎週、十戒を唱えることによって、この「むさぼり」の罪と向き合わされます。「汝、その隣人(となり)の家をむさぼるなかれ」。

私どもの聖書の翻訳では、「むさぼる」という古風な言葉は消えて、「欲する」と訳されました。「隣人の家を欲してはならない」。あれも欲しい、これも欲しい。「欲しい」という意欲がなかったら、一日たりとも生きていくことはできないはずですが、問題は、その「欲しいものを欲しがって何が悪い」という思いが罪に傾くとき、具体的にはその欲望が「隣人のものを欲しがる」ようになるとき、「不正、邪悪、貪欲、悪意、妬み、殺意、争い、欺き、邪念」が生まれるということです。必要に応じてトイレットペーパーを買うのは、何も間違っていません。「トイレットペーパーを欲してはならない」なんて聖書の教えはありません。しかしそれが〈むさぼり〉に変わるとき、人間は人間ではなく、獣以下の存在になるのであります。しかもそこでいちばんの問題は、そのような私どもの無価値な理性が、決して神を欲しがらないということなのです。神なんかいらない。トイレの紙のほうが神よりもずっと大事。

■その関連で、もうひとつ難しい問題に触れなければなりません。それは、26節以下に記されている、いわゆる同性愛の問題です。現代では同性愛という呼び方では不十分だそうで、性的少数者とか、セクシャルマイノリティとか、それをなお具体的にLGBTQなどと呼ぶようになりました。こういう、性的少数者と呼ばれる人たちが一定数存在することは常識になってきましたし、それは医学的にも証明されています。何より大切なことは、そういう性的少数者の人たちが差別されるようなことは絶対にあってはなりませんし、それがまた世界の常識になってきたことは、喜ばしいことだと思います。

けれども他方で、こういう問題を扱う議論を読んだり聞いたりしながら、私はどうしてもひとつの疑問を捨てることができません。率直なものの言い方をお許しいただきたいと思いますが、私は男です。性的少数者ではない、多数派の男に属すると思います。そして男という生き物は、男であるがゆえに罪に誘われるし、実際に罪を犯すものです。「欲しいものを欲しがって何が悪い」という理屈は通らないのであります。恥ずべき情欲に引き渡された男の欲望というのは、本当に罪深いものです。

同じように、レズビアンの人はレズビアンであるがゆえに罪に誘惑されるし、実際に罪を犯すのであります。ゲイの人は、ゲイであるがゆえに罪に誘惑されることがいくらでもあるだろうと思いますし、また実際に罪を犯すのであります。Bの人も、Tの人も、Qの人も、同じ罪人であります。その罪を、いったいどうするつもりなのか。「欲しいものを欲しがって何が悪い」という理屈は通らないのであります。26節以下に書いてあることを、性的少数者一般をおしなべて断罪する言葉として読むことはできません。ただ、たまたまパウロがこの手紙を書いたときに、いちばんわかりやすい、いちばん典型的な人間の倒錯した姿が、このようなものであったのです。

女は自然な関係を自然に反するものに替え、同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

ひとつわかりにくいことは、「その迷った行いの当然の報い」というのは、具体的にどういう報いであったのでしょうか。何も書いていないのでわかりませんが、実はそんなに難しいことでもないだろうと思います。問題は、別に同性愛に限らないのです。性的な問題に限らないのです。「欲しいものを欲しがって何が悪い」というむさぼりの罪が、「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意」を生み、「妬み、殺意、争い、欺き、邪念」によって理性が歪み、そして皆さんもどこか身に覚えがあると思います、その次に「陰口を叩き、悪口を言い」と続くのですが、自分は理性的だと思い込んでいる人が言う陰口・悪口ほどたちの悪いものはないと思います。ちょっとでもインターネットの世界を覗いてみてください、無価値な理性に引き渡された人間が、どんなにひどい悪口・陰口を叩くことか。そのことが、どんなに人間をだめにしているか。皆、自分がいちばん正しいと思っているのです。それが、どんなに社会をだめにしているか。今、現に、私どもの生きている世界は、そのような悲惨の中にあるのです。それが、私どもの受けるべき〈当然の報い〉です。

■こういう世界にあって、私どもも何となく不安にならないでもないのです。いったい、この先、世界はどうなってしまうのだろう。人間はどうなってしまうのだろう。聖書なんか読まなくたって、実はすべての人が、漠然とした不安を抱いているのです。けれどもそういう不安の中で、私どもが決して口にしたがらないことがあります。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら」(32節)。いったい、私どもは、こういう神の定めを知っていたでしょうか。「このようなことを行う者が死に値する」なんて、いいや、そんな神の定めなんか聞いたこともないと、誰もが言いたがるのではないでしょうか。ところが聖書は、いや、あなたは知っているはずだと言うのです。「このままだと、本当にたいへんなことになるよ。取り返しのつかないことになるよ。あなたがたも、知らないはずはないでしょう」。そして事実、私ども人間は、取り返しのつかないことをたくさんしてしまいました。人間のむさぼりの罪のために、失われるべきでない命がたくさん失われてしまいました。

そのような世界の中で、ただひとつ残された希望が、「神は、人間を、罪に任せられた」という、この言葉だと思うのです。無価値な理性しか持ち合わせない人間が、好き勝手やっているだけの世界にしか見えないのですが、それでこのまま滅びに向かって突進しているような世界にしか見えないのですが、その人間の罪のすべてが、神の支配を免れていないということは、大きな慰めであります。だからこそ、あの放蕩息子は帰って来たのです。神に背いて、神から離れて、放蕩の限りを尽くしたと思っていたら、それはただ神によって引き渡されただけで、実は依然として神のみ手からは逃れ得ていなかったのです。だから、あの息子は父の家に帰って来たし、私どもも帰らなければなりません。あの譬え話の中では、放蕩息子が自分で悔い改めて、自分で帰って行ったような話になっていますが、そのような話を私どもに聞かせてくださるのは、主イエス・キリストご自身であります。今ここでも、私どもは、神の招きの声を聴かせていただくために、この礼拝をしているのです。

■25節の最後に、「造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン」と、なんだか唐突な賛美の言葉が出てきます。どう考えても、神を賛美する文脈ではないのです。その直前には、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」と書いてあります。「造り主の代わりに造られた物を」。場合によっては、トイレットペーパーでさえ神よりも大切なものになることがあるのです。それほどに歪んだ私どもの生活であります。けれども、私どもの造り主はひとりしかいないので、そのことに気づいたら、いつでも帰らないといけないし、帰ることができるのです。神は、どんな放蕩息子でも受け入れてくださる、私どもの父です。その造り主にふさわしい賛美の歌を、今新しい思いで歌わせていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。

 

ただあなたの愛の中でのみ、自分の罪深さに気づかせてください。私どもの歪んだ理性のために、たくさんの人を傷つけてしまいました。何よりも、あなたのみ心を痛めてしまいました。帰るべきところに、帰らせてください。あの弟息子が帰って来たとき、あなたは走り寄ってその首を抱き、最高の着物と最高の食事でその帰りを喜んでくださいました。その喜びの中に立ちながら、「もう二度と罪を犯すな」とのあなたのみ声を聴き取らせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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