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神はなぜ怒るのか

2025年3月2日

ローマの信徒への手紙 第1章18-32節
川崎 公平

主日礼拝

 

■ローマの信徒への手紙第1章の18節から、予定を少しだけ変更して最後の32節までを読みました。カール・バルトという神学者が、たいへん有名なローマの信徒への手紙の注解を書きまして、この第1章の後半に「夜」という題を付けました。その「夜」というひとつの文字を見つめるだけでも、たいへん多くのことを考えさせられます。ここには、私どもの生きる世界の暗い姿が、まさしく「夜」と呼ぶほかないようなこの世界の暗さが、実に正直に描かれています。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです」(29~31節)。なぜ、私どもの生きるこの世界は、こんなにも暗いのでしょうか。どこにこの暗さの原因、暗さの理由があるのでしょうか。聖書はそのことについて、私どもに何を教えてくれるのでしょうか。

「夜」というのは、かつてはこんなに暗い夜をわれわれは生きていたけれども、今は違う、ということではないだろうと思います。この手紙を最初に受け取った紀元1世紀のローマの社会というのは、それはもう乱れに乱れて、夜と呼ぶほかなかったけれども、今われわれが生きている場所は違う、などと言うことは決してできません。今、私どもも闇の中を生きています。ある説教者が、こういう話を紹介しています。中国の広東で、宣教師がローマの信徒への手紙第1章の話をしたら、これを聞いていたひとりの中国人が立ち上って、こう言ったそうです。「あなたは、この手紙を書いたのは1世紀のパウロという人だと言うけれども、本当はそうではなくて、最近中国に来たことのある宣教師が書いた文章に違いない」。それはつまり、その当時の中国の世相をありのままに描写したようで、いくら何でも話が出来過ぎていると感じたということでしょう。けれどもそれを言ったら、私どももきっと、似たようなことを言いたくなるのではないかと思います。

■いったい、どうしてこんな変な社会になっちゃったんだろう。どうしてこの世界は、こんなに暗いのだろう。どこにその正体を見出す手がかりがあるのでしょうか。そのことについてこの手紙は、「神の怒りが、天から現わされたのだ」と言うのです。

不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます(18節)。

これは、たいへん勇気のいる発言だと思います。今、われわれは夜を生きていると申しましたが、その程度のことなら誰だって口にするのです。あれが悪い、これが悪い、今の日本はこんなに悪い、おそらく30年後はもっと悪くなる、その理由はああでこうでと、いろんな人がいろんな批評めいたことをもっともらしく口にするのです。しかもそのことについて、誰も責任を取ってくれるわけでもないのです。ところがここで聖書が明確に語ることは、「神は怒っておられるのだ」。「神は人間のあらゆる不義に対して、天から怒りを現されます」。いったい現代において、こんなことをはっきりと語ってくれる人が、どれだけいるだろうかと思うのです。

今日の説教の題を、「神はなぜ怒るのか」としました。そういう説教の題が、一週間教会堂の前に貼り出され、あるいは教会のホームページでも、来週の日曜日には川﨑という牧師が「神はなぜ怒るのか」というお話をしますよ、という予告をしたわけですが、こんな説教題を見て、いったい人は何を思うだろうかと、心配しなかったわけでもありません。世の中には、神の怒りを脅し文句にして伝道に励んでいる宗教団体が、わりとたくさんあります。そして、おそらくここにおられる皆さんを含めて、大部分の現代人は、それは宗教のあり方として間違っていると、はっきりそう考えているのです。たとえば災害が起こる。戦争が起こる。そうでなくてもろくでもないニュースが、きりがないほど飛び込んでくる。それに対して、そらきた、これは神の怒りのしるしだ、などというのは、あまりにも宗教として幼稚ではないかと、私どもはわきまえているのです。第一、聖書には「神は愛です」と書いてあるじゃないか。その愛の神がなぜ怒るのか。おかしいじゃないか、などとつぶやきながら、また同時に、どうしてこの世界はこんなに暗いんだろう、この夜はいつまで続くのだろうと、ため息をついてみたりするのです。

いったい、どうしてこの世界は、こんなに暗いのでしょうか。夜は、いつまで続くのでしょうか。そのことについて悩みながら、ああでもない、こうでもないと、あてどなく思い煩いながら、けれども私どもがどうしても受け入れたくないことは、神が怒りを現されるという、このことであるのかもしれません。

■けれども、ここはひとつ冷静になって、よく考えていただきたいのです。私どもは、どちらの世界を選びたいのでしょうか。実は最初からこの世界に神なんかいないので、その神なんかいないこの世界が、ただただ人間の罪によって滅びに向かって突進して行くのと、そうではなくて、この世の有様を神がご覧になって、激しく怒っておられる世界と。皆さんは、どちらの世界がいいと思いますか? というのは本末転倒なので、本当は私どもに選択の余地なんかありません。神は、怒っておられるのです。「どうして、お前たちは」。「もっと、ちゃんとしてくれよ」。

私は思うのですが、神が怒っておられるということこそ、この世界にとってのただひとつの希望であると言わなければなりません。「明けない夜はない」などと申しますが、本当にこの夜が明ける日が来るのか、誰も知らないのです。もしかしたらこのままどんどん夜の闇は深くなって、遂にそして誰もいなくなったということになるか、ならないか、誰も保証はできないのです。ところが、聖書がここで明確に語ることは、その夜の闇の傍らに、天から怒りを現される神が生きておられる、ということなのです。「おい、いい加減にしろ」と言われる神の怒りが天から現されなかったら、私どもを取り囲むのはひたすら夜の闇だけで、たまに光が見えたとしてもそれはつかの間の慰めでしかなく、結局どこにも希望はないということにしかならないだろうと思うのです。

神はなぜ怒るのでしょうか。神は愛だからです。神の怒りは、冷酷な運命とは違います。因果応報というのとも違います。運命とか因果律には何の感情もありません。滅びるべく定められている人が、運命のままに滅びていくだけの話です。その人がどんな人生を送ろうが、その人がどんな罪を犯そうが、冷酷な運命はそれに対して怒ることもありません。喜ぶこともありません。悲しむこともありません。運命に感情はありません。けれども私どもが聖書から教えられている神の愛は、運命信仰に真っ向から対立するものです。そもそも運命なんてものは最初から存在しない。徹頭徹尾愛でしかない神は、その愛のゆえに、人間の罪に対して、天から怒りを現されます。そこからローマの信徒への手紙は、神と人間との関係を丁寧に説き起こしていくのです。

■ここでたいへん大切な意味を持つのは、18節の最後の言葉です。「神は天から怒りを現されます」と、私どもの翻訳ではこれが18節の最後の言葉になっているのですが、原文では単語の順番がちょうど真逆で、18節の最初の言葉は「現されています」です。「現されています、神の怒りが、天から」。そう書き始めるのです。そこで誰もが気づかなければならないことは、17節と18節が密接につながっているということです。私どもの翻訳では17節と18節の間で大きく段落が分けられて、しかも新しい小見出しまで付けられているので、そのつながりがわかりにくいのですが、パウロの気持ちからすれば、17節と18節の間には何の切れ目もありませんでした。

そのつながりを示すひとつのしるしが、「現されます」という言葉です。これはむしろ「啓示されている」と翻訳すべきだったかなと思います。既に17節にその言葉が出てきます。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。この「啓示されている」という言葉については、先週の礼拝でも説明しました。「隠れているものをあらわにする」という意味の言葉です。イエス・キリストの福音の内に、神の義が啓き、示されている。それまで隠されていた神の愛の何たるかがあらわにされている。それこそが、パウロがすべての思いを込めて語ろうとしたことでした。「神の義が、言い換えれば、神が神であることが、今や明らかにされているのだ」。その「啓示されている」という、まったく同じ動詞が、18節でもう一度繰り返されるのです。「神の義が、福音の内に啓示されています」。「啓示されているのは、天からの神の怒りです」。パウロにとっては、イエス・キリストの福音が啓き示されたことと、神の怒りが啓示されたことは、ひとつのことでした。

神の義が啓き示されたとき、神が神であられることが明らかにされました。神は愛であることが明らかになりました。しかしまた、そこであらわにされたのは、人間の正体であります。神の側からご覧になったときに、初めて明らかになる人間の正体です。神が、私ども人間をどんなに愛しておられるか。その愛のゆえに、人間の罪に対しては神がどんなに真剣にお怒りになるか。それを私どもは知りませんでした。福音が啓示されるまでは、誰もそれを知りませんでした。

ある説教者が味わい深く語っていることですが、私どもは思いのほか、自分の本当の姿を知らないものです。自分のことは自分がいちばんよくわかっていると、どんなに年を取っても私どもはついそういうふうに思い込んでしまうのですが、同時に私どもがよく知っていることは、自分を客観的に見るということが実はどんなに難しいかということです。それと同じように、いやもっと深い意味で、人間のことをいちばんよく知っているのは人間ではありませんでした。神の側から見て、初めて見えてくる人間の正体を、私どもは知りませんでした。けれども、福音が現れたとき、神の義が啓き示されたとき、また同時に人間の正体もあらわにされました。ここにはっきりと書いてある通り、「天から」啓示されたのです。神がお怒りになるほどに、それほどに愛されている人間の正体を、私どもは知りませんでした。それは、天から示されるほかなかったのです。福音の内に、初めて啓示されるべきものであったのです。

■そのように、天からの光によってあらわにされた人間の正体を、ここでは「人間のあらゆる不敬虔と不義」と呼んでいます。天から啓示された神の怒りは、何に対する怒りであったかというと、それは「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して」であったと言うのです。不義というのは、ただ正しくないことではありません。ただ倫理的に芳しくないことというのではありません。神に対する態度が曲がっている、間違っているということです。「不敬虔」というのもそういうことでしょう。

その人間の不義が、「真理を妨げている」と言います。神が神であられるという真理です。人間の不敬虔と不義が、言い換えれば人間の神に対する態度が根本的に曲がっていたために、神の真理を「妨げている」と言うのですが、これも興味深い表現で、もう少し強い言葉で訳したほうがよかったかもしれません。ある人の説明によれば、「牢の中に閉じ込めてしまう」という意味の言葉です。捕まえて、牢の中に閉じ込めて、あるいは縛り上げてしまう。そのような言葉を、ほかでもないパウロが用いたとき、パウロは思わず自分の胸を打ち叩かずにはおれなかっただろうと思います。かつて教会の迫害者であったパウロが、鼻息荒く、ひとりでも多くのキリスト者を捕まえて、縛り上げてやろうと、ダマスコに向かっている途中、パウロのためにも神の義が啓示されました。主イエス・キリストの光がパウロを打ち倒しました。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。「おい、いい加減にしろ」と、まさしくパウロのためにも、神の怒りが天から啓示されたのです。神の真理を捕まえてやろう、縛り上げてやろう、牢屋の中に閉じ込めてやろうと息巻いていたパウロの不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されました。

だがしかし、そこで打ち殺されたのはパウロではありませんでした。ひとたびは打ち倒されたパウロが、教会の手によってもう一度起こしていただいたとき、パウロの目から、うろこのようなものが落ちました。そのときパウロのためにも、文字通り目が開かれ、示されたことは、主イエス・キリストが十字架につけられたのはわたしのためだという、福音でしかありませんでした。天から神の怒りが啓示されたとき、真っ先にその神の怒りに打たれなければならないのは、このわたしだ。けれどもそのわたしに代わって、キリストが十字架につけられたのだ。

■パウロにとって、福音とは、主イエス・キリストそのものでありました。今私どもが礼拝をし、またこのように聖餐の食卓を祝うのも、十字架につけられたイエス・キリストこそわたしの福音であるということを学び直すためでしかありません。聖餐のパンと杯を見つめながら、私どもは神の正しさを啓き示されます。私どものために肉を裂き、血を流された主イエス・キリストのことを思い起こしながら、まさしく今、ここで、神の怒りを啓き示されるのです。ああ、神の怒りというのは、こんなにも恐ろしいのか。神の愛というのは、こんなにも激しく、こんなにも深いのか。

私どもも、自分の罪がわからないでもないのです。神の怒りとか言われると、ちょっと抵抗があるけれども、何となくわからないでもないのです。自分なりに自分の罪を悲しみ、あるいはそれ以上に他人の罪に憤るのですけれども、それはいつも中途半端です。「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、悪口を言い」、そのように言葉を重ねられると、そうだなあ、自分にもひとつふたつあてはまるかな、いや本当は三つでも四つでも思い当たるかな、などとのんきなことを考えるのですけれども、本当は、天から啓示されなければ、私どもは自分の罪がひとつもわからないのです。神が、私どもの罪をどれほど耐えがたくお感じなるか。どんなにお怒りになるか。主イエスの十字架の前に立って初めて、私どもは自分の罪の真相を知るのです。

今、聖餐の食卓を囲みながら、天から鮮やかに啓き示される、神の怒りを学び直したいと思います。神のみ子イエスが、十字架に死ななければならないほどの、神の怒りであります。それもすべては、神が私どもの罪に対して、どんなに苦しまれたか、どんなに心を痛め、傷つかれたかということでしかないのです。そこにまた、神の愛が鮮やかに啓き示されているのです。

ある説教者が、こういうことを言いました。「この世の悪に対して、最後の血の一滴まで戦うお方がひとりだけおられる。それが神である」。神は、人間の罪に対する怒りを天から現されて、これを一ミリも割り引くことはありませんでした。一歩も妥協されることはありませんでした。私どものすべてを、神のものとして救い取るためであったのです。この神の愛の前に、恐れおののきつつ進み出て、私どものために与えられる主イエス・キリストの体、私どものために流される主の血をいただきたいと心から願います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、私どものあらゆる不敬虔と不義に対して、あなたは天から怒りを現されます。今、み子イエス・キリストの十字架の前に立ちながら、「あなたは、滅びてはならないのだ」と、あなたの狂おしいほどのみ声を聴きます。どうか今、私どものためにも、あなたの義を啓き示してください。私どもの心を開かせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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