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一番たいせつなこと

2025年2月9日

マタイによる福音書 第22章34-40節
柳沼 大輝

教会学校・小礼拝合同礼拝

 

今日の聖書のみことばの中心は「最も重要な戒め」とは何かということです。ここに普段、私たちが聞き慣れない言葉が出てきます。それは「戒め」という言葉です。どこか遠い昔話に出てくるような古めかしい印象を感じます。「戒め」などという言葉は、私たちの日常生活の中ではほとんど使うことがないでしょう。

そこで「戒め」という言葉を辞書で引いてみました。すると「前もって注意すること。またその言葉、訓戒」、「過ちを犯さないように懲らしめこと」などといった意味が出てきました。つまり「戒め」とは同じ場所に生きる者たちをまとめるための非常に重いしきたり、規則、ルールであると言えるでしょう。

みんなの周りにもそういった「決まり」がたくさんあるのではないでしょうか。学校での校則やクラブでのルール、家族との約束ごとなどは一種の「戒め」であると言えます。こんな話をするとすぐに「戒め」があるなんて自由がない、まるで何かに支配されているようで嫌だと感じる人がいるかもしれません。

けれど、聖書のなかに度々出てくる「戒め」はそれとは意味が違います。聖書のなかに出てくる「戒め」は別の言葉では「律法」と訳されます。「律法学者」や「律法の専門家」などといったかたちで福音書のなかに出てくる、あの「律法」です。しかしそれは本来、人間を縛り付けて支配するものではありません。

「律法」とは、神様からいただいた「恵み」、「恩」に対してどのように「恩返し」をしていったらよいかということを神様が私たちに教えてくださったものです。それが聖書の語る「戒め」であり、「律法」です。

私たちはいつも神様からたくさんの「恵み」を与えられています。「恵み」が与えられているからこそ、今日もこうやって礼拝に来ることができました。それでは、その恵みに対してどのように神様に「恩返し」をしていったらよいのでしょうか。自分の頭で考えたらよいのかもしれませんが、残念ながら私たちには答えがわかりません。いや、むしろこうやって神様に「恩返し」をしよう、こうやって神様に愛を返していこうと頑張ったことがかえって誰かを傷つけてしまったり、自分勝手であったりすることが実に多いものです。

だから本来、私たちから「恩」を受けるべき側であるはずの神様がそんな私たちのことを憐れんでくださって、あなたがたはこのように生きていったらよいと、こうやって神様に「恩返し」をしていったらよいと具体的なかたちで私たち人間に与えてくださったのが「律法」であり、「戒め」でした。つまり「戒め」「律法」とは、神様と人間が愛の関係に生きることができるようにと、神様が与えてくださった私たち人間への「賜物」であり、「ギフト」です。そして、それは、聖書の民、イスラエルにとって、光り輝くかけがえのない「宝物」でした。

しかし時代が経つごとに、その「宝物」は、本来の目的であるはずの神様に「恩返し」をするためのものではなく、「律法」を守れない者、「戒め」に従って生きられない者たちを裁くための道具になっていきました。だから今日のところでファリサイ派たちは一緒に集まって、そこでイエス様を試すためにそのうちの一人である律法の専門家が、このように問うたのです。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」(36節)。この問いの裏には「その最も重要な戒めを守れない者はやっぱり駄目な奴なのですよね。罪人なのですよね」という思いが込められていました。

さて、旧約聖書に記されているその「戒め」、「律法」の代表的なものと言えば、私たちが毎週、礼拝のなかで唱えている「十戒」です。もう一度、読みます。

我は汝の神、主、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。
汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。
汝、己のために、何の偶像をも刻むべからず。
汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。
安息日をおぼえて、これを聖くすべし。
汝の父母をうやまえ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、その隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ。
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。
アーメン

内容としては実にシンプルでとてもわかりやすいものであると思います。しかし大人になればなるほど、この言葉のように生きられない自分の現実を知っていくのではないでしょうか。「神様よりも自分が一番たいせつで神様に目を向けられない」、「自分の肉なる父や母をどうしても愛することができない」、「他人が自分より輝いて見えて疎ましくて仕方がない」。そうやって子どものころは、純粋に受け止められた「十戒」の言葉が、社会の厳しさを知って、不条理を知って、神様を愛せない自分を知って、隣人を愛するどころか、自分勝手に傷つけてしまう自分を知って、神様の恩をこんなにも踏みにじっている自分の罪の現実に目が開かれていくのではないでしょうか。「十戒」の言葉に、いや、聖書に書かれている「戒め」の言葉にお前はまるで駄目な奴だと、どこか裁かれているように感じてしまうということがあるのではないかと思うのです。

ある方がこのように言いました。「私は聖書の言葉を読んでいると、心が苦しくなる。だってここに書かれているようには、私は生きられないから」。たしかにそうかもしれません。聖書は、私たちの神様を愛することのできない、隣人を愛することのできない、罪の現実をはっきりと明らかにします。

しかし聖書のみことばはそこで終わりません。聖書はたしかに証しします。そんな罪人の私たちを生かすためにイエス様は十字架で死んでくださったのです。そんな私たちが神様に対して「父よ!」と呼びかけることができるように、神の子とするために主は三日目に復活してくださったのです。

今日の聖書箇所は、先月から子どもたちと一緒に教会学校の礼拝で聴き続けているところでありますが、イエス様がエルサレムに入城し、十字架へと向かわれていく途上の場面です。先ほど、取り上げた律法の専門家の質問に対し、イエス様はこのようにお答えになりました。『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(37~39節)

この言葉は何もこのように生きることのできない私たちのことを裁くための言葉ではありません。この言葉は、私たちのために十字架で自らのいのちを投げ出してくださったイエス様の言葉です。あなたがたはこのように愛に生きることができるのだと、十字架を通して、私たちに示してくださった主の言葉です。

その主の愛を知るとき、その愛に触れられるとき、私たちも少しずつ神様を愛することができるようにされていきます。神様がゆるしてくださっている自分をゆるすことができるようにされていきます。神様が愛しているあの人を、あの子のことをたいせつにできるようにされていきます。そうやって少しずつ自分なりにイエス様が教えてくださった「主の戒め」に生きることができるようにされていく。神様に対して、しっかりとその恩に「恩返し」をしていくことができるようにされていく。ここに私たちの生きていく「喜び」があります。神の子とされた者の「幸い」があります。

私たちはこの喜びの知らせを毎週、この礼拝の場で聖書のみことばから聴くのです。このみことばに勇気をもらってここからまた立ち上がるのです。

今日の箇所の最後にこうあります。この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。(40節)「律法全体と預言者」とは、いわば「聖書全体」ということです。神様を愛すること、そして隣人を自分のように愛することに聖書のすべてがかかっていると言うのです。私たちは今日、この一番たいせつなことを聖書のみことばから聴きました。ここに「すべて」がかかっています。ここに私たちが生きていくすべての「拠り所」があります。だからいまともにイエス様の十字架を見上げて、神様の愛を受け取ります。この愛をもって生きて行きます。私たちは主に救われた神の子です。もう自分の罪に涙し怯えなくていい。感謝をもって、喜びをもって、主の言葉に生きて行こう。そうやってみんなで一緒にイエス様について行こう。

 

天の父よ、あなたのことを心から愛することのできない自分に、そして、隣人はおろか、自分のことさえもゆるし愛することのできない自分に惨めさを覚えます。しかしあなたはそんな私たちに今日も「生きよ」と語りかけてくださっています。あなたの言葉に、「愛の戒め」に生きることができますように力と勇気をお与えください。聖書のみことばに聴き、あなたについて行く、その「喜び」をまたここで再び、受け取らせてください。いま、私たちはあなたの言葉を信じます。あなたの言葉に従います。この祈り、私たちの救い主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン

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