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2025年2月16日

ヨハネによる福音書 第14章1-6節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

今日も私どもはひとつの教会に集められて、ひとつの礼拝をささげております。私どもにはそれぞれに、たくさんのことがあって、この一週間も、それからここ数ヶ月のあいだにも、自分に何があったかは、それはそれぞれの思いの中にあることですけれども、でも、それでもこうして、私どもは、ここにいる、ということが与えられております。いつもの席に座って、いつものところにいて、そうやって私のいるところがここにある。他のどこでもなく、ここに、私のいるところがある。

たとえ年を重ねていって礼拝に来ることができなくなっても、今も配信をご覧になっている方もたくさんおられるわけですけれども、でも、私のいるところはここにあるんだと。キリストの中に在るんだと。それは周りの人がどうだとかいうことではなくて、大切な仲間がいるから、大切な奉仕があるから、それももちろん大事ですけれども、しかし周りの人によって、周りの環境によって、自分のいる所が決まるのではなく、主が、あなたはここにいると、あなたはここにいるようにと、主が、私どものほんとうの場所を、ほんとうの居所を定めてくださっています。

主イエスが、今日言われていることはとても愛情深いことです。心を騒がせるな(14:1)と言われました。心を騒がせるな。皆様ももしかしたらご経験があるかもしれませんが、自分が何かとても不安な時、どうしようもなく動揺している時になぜか、この聖書の箇所が開かれる。自分でも思ってもいないのに、この箇所がなぜか開かれる。すると主が言ってくださる。心を騒がせるな。

すると、ほんとうにそうだと思わされます。主イエスの血が通った言葉が、自分の体の中に、温かい飲み物を飲むようにして沁み渡ってきます。ほんとうにそうだと思わされます。ほんとうにそうだ。
心を騒がせるな。

「神を信じ、また私を信じなさい。」(14:1)

これは「神の中に信じなさい」「私の中に信じなさい」という言葉です。神を外から見るのではなく、神の中に入ってしまう。主イエスを遠くから眺めるのではなく、主の中に入ってしまう。自分がその中に入ってしまえば、その時そのもの自体をほんとうに信じ切ることができる。そういう強い言葉です。だから心配しないで、神を信じなさい。また私を信じなさい。あなたの心配事をぜんぶ、神の中に入れてしまいなさい。あなたの生活も、あなたの希望も、悲しみも、苦しみもぜんぶ、神の中に入れてしまいなさい。そして私の中に、ぜんぶ入れてしまいなさい。

そういうことを主が弟子たちにも、最後の晩餐の席で言ってくださいました。「もうしばらくしたら私はいなくなる。」そう言われて、心細くなった弟子たちに、けれども、心配するな。それでこう言われたのです。父のところには住むところがたくさんある。私はあなたがたのために場所を用意しに行くのだ。場所を用意したら、また戻って来る。あなたがたを迎えに来る(14:2-3)。だから、心配するな。

でも主イエスがこう言われたのは、主イエスのお心は至って平静で、何もないというのではなくて、主イエスのお心も十字架に向かって騒ぐというお気持ちがありました。少し前の第12章のところで、そこはヨハネ福音書のゲツセマネと呼ばれているところですけれども、そこで、主が「今、私は心騒ぐ」(12:27)と言われて、父なる神様に祈られました。この世の反抗する者たちとの戦いを前にして、私は父に願うのか。この時から、救ってくださいと願うのか。しかし私は「この時のために来たのだ」(12:27)と、そういう厳しい、父への祈りをなさいました。またついさっきはユダが出て行って、主のお心が悲痛に騒いだともいわれております。だからそういうことが、弟子たちにも伝わった、というのは当然のことであったかもしれません。弟子たちもまた、心臓がぶるぶると鼓動を立て始めた。主よ、どこへ行くのですか?どこへ行かれるんですか?と震え出した。主がそれを見て弟子たちに対する思いが疼き、その気持ちを静められて、ご自分がどこへ行くのか、何をしに行くのかということをそれではっきりとおっしゃった。私は父のところに行く。そしてあなたがたのための場所を用意しに行く。あなたがたのいるところを、私は用意しに行くんだ。

父の家には住むところがたくさんあるからね(14:2)。そこは、入り口は狭いが、中はとても広い。だから、あなたたちが行って向こうでまごつくといけないからね、私があなたたちの場所を用意しに行く。

この「父の家には住まいがたくさんある」というのの「住まい」というのを「ルーム」と訳しているものがありました。父の家にはルームがたくさんある。そうしますと、父のところに自分の部屋がある。私の部屋がある。たとえば、今座っている椅子、こんなに狭くないでしょうけれども、でもそこに、私のいられる、私の部屋がある。それも主イエスが言われた「私のいる所に、あなたがたもいることになる」(14:3)、というそういう部屋です。それが永遠の命と言われるものなのでしょう。

だけども、中はほんとうに広いから、入って、どこに行っていいかわからないと困るだろうから、あなたがたの場所を私が用意しに行く。そうしたら「戻ってきて、あなたがたを私のもとに迎える」(14:3)と言っておられます。戻ってきてというのは終わりの日、再臨の日と言われますけれども、これは「すぐに」という意味で、主にとってはすぐなのです。すぐに迎えに来る。だからそれまでの間ただ待っているだけでなく、あなたがたは、もうそこに行くまでの「道を知っている」(14:4)。と言ってくださいました。

でもそうしたら、弟子のトマスがわかりません。と言ったのですね。不謹慎ですけれどもほんとうにおかしくなってしまうくらい、この弟子のトマスは正直で、いやーわかんない。どこに?どうやって行くのですか?というのです。このトマスは前にも、主イエスがラザロという友を、死から起こしに行くと言われた時に、主が捕らえられるかもしれない、そんな危険なベタニアに主が向かわれるという時にも、「我々も一緒に行って死のう。」イエイ、うおう!と言った人です。

これをほんとうにわからない奴だなと、主イエスが今、どこへ行かれるか、何しに行かれるか言われたじゃないか、という人がいますが、しかしながら、これは私どものことでもあるのではないでしょうか。

トマスもほんとうにわかっていないのかというと、理屈ではわかる。そうだったのではないでしょうか。主よ、あなたは父のところに行かれる。そうなんですね。でもそれはどういうことなのでしょう?父のところには住むところがたくさんある。それはなんてすごいことなんでしょうか。だいたい私だって、あなたのために死ぬ覚悟があるのです。すっかり死んでそれで場所がある。でもその素晴らしい場所にどうやって行くんでしょうか?どうしてその道が、私たちに分かるんでしょうか?どうしてそれを私たちがほんとうにそうだ、と信じ切ることができるのでしょうか?

私どもも自分がどこへ行くか、知っていると思います。行くところがあるんだ。行き先は決まっているんだ。そこは希望のところで、でも、それまでが辛い。ということもあります。病気や寂しさとの厳しい戦いもあります。父のところに引っ越すのですから、もう何も要らない。身一つです。それはわかってる。でもそれまでのあいだいろいろと割り切れない。だんだん整理しなきゃいけない。部屋もだんだん小さくなってくる。行けるところも少なくなってくる。いるところがどんどん狭まってくる。だから早くそこに行きたいです。そう思うのと、ちょっとそれまでまだ長そうなので、それまでがどうしたらいいでしょう。
そこまでいくのに自分はどうしていたらいいでしょう。行く先は決まっているけれども、それまで、どこにいたら、自分はいいのでしょう?

そうしたら主イエスが言われました。
私が道だ。

あなたは私を通ってゆくんだ。あなたは今そこにいるんだ。

父のところに至るのは私だけだ。そのただ一つの道の中に、今あなたはいるんだ。

 

トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」(14:5)と言ったのはとても意味があると思うのです。主が死にに行かれるというのを、わかって聞いていると思うのです。わかっていて、主よ、あなたがどこへ行かれるのかわからない、と言っていると思うのです。どうして私たちを置いてゆくのですか?私たちを一人にしてどこへ行かれるんですか?と言っていると思うのです。だけれども主は、十字架で、「そこまでの道を通す」と言われているのです。

ほんとうに、天国は広い。でも入り口はせまい。贖いがなければ、誰一人そこに入ることはできない。
贖いは、私どものただひとつの道なのです。それを主が「私がその道を通す!」と言われているのです。「真理である私が命の道を通す!」と、言われているのです。だから、

「心を騒がせてはならない。神を信じ、私を信じなさい。」あなたの心配事も、あなたの生活も、私の中に入れてしまいなさい。あなたの希望も、悲しみも、苦しみも、あなたの罪も、ぜんぶ、私の中に入れてしまいなさい。

 

この間、教会の図書室で、『明治元訳』と言われている聖書を見つけました。ほんとうに小さな趣のある聖書ですけれども、明治時代に来たばかりの宣教師たちが苦労して、日本語に訳したといわれている聖書です。その『明治元訳』という聖書で、このヨハネ福音書の最初の第1章第1節のところをみますと「太初に道あり」(元訳1:1)と書かれてありました。「太初に道あり」。初めに道あり。

私どもが馴染んでおります「初めに言があった。言は神と共にあった」(1:1)と、主イエスのことを告げている御言葉が、「道」と、書いて「ことば」とふりがながついて読ませていますけれども、「太初(初め)に道あり。道は神と共にあり」とあるのです。昔の宣教師たちがヨハネ福音書を日本語にする時にこの方は初めから「道」だったと言いました。主イエスの「我は道なり、真なり、生命なり」、との御言葉が、それは初めからそうだったんだと言っているのです。創造よりも前から、この方は「道」だった。神と共にある時から、神と、私どもを結ぶ「道」でいてくださった。それを初めから、考えていてくださったことに、その気概をお持ちでいてくださったことに、感謝しかない。感謝しかありません。

私は道である。

この御言葉を想像してみました。
ある日、一人のおじいさんが住んでいるホームで、自分のお部屋を探しておりました。はて、私の部屋はどこかな?それで日の当たる廊下を歩いている。私の部屋はどこかな?誰かが聞きました。行く所はあるの?大丈夫、行く所は必ずあるさ。私の部屋が必ずあるさ。だってこの道をまっすぐ行けばいいんだ。だって、私はひとりじゃないからね、だって私は主の中を歩いているんだからね。

私どもも今その中にいるのです。

 

 

天の父なる神様
どうぞ主の中を、このまま、まっすぐに行かせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

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