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愛のお手本

2024年8月18日

ヨハネによる福音書 第13章12-20節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

主イエスが、最後の晩餐のとき、弟子たちの足を一人ひとりお洗いになって、そしてそのあとに、言われました。
「私がしたことがわかるか。」(13:12)
じんわり、温かいお言葉です。

小さな子どもに、愛情を注ぐ親が、私がしたことがわかる?というときには、わかってほしいと願うものです。それにも増して、
主の「わかるか」
というのは、十字架の「事が起こる前に」(13:19)これを受け取るように、とのお気持ちです。

私が「したこと」というのは、さっき足を洗ってくださったことです。それを子どものように見つめていた弟子たちに、主が「あなたがたも」と言われました。あなたがたも、私がしたとおりに「互いに足を洗い合うべきだ。」(13:14)

これを、主イエスの愛が、最高潮に達した時であったことを忘れてはならないと思うのです。最後の晩餐の時、主イエスが、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた(13:1)。
その愛が行動に出た。足を洗うことだった。それで「だから、あなたがたも」と主は言われました。この時をわすれないで、今のあなたの足の感覚をわすれないで、あなたも、他の人を洗うんだ。

でも「足を洗う」とは、どういうことでしょう。それはまず奴隷の仕事でした。当時のユダヤの道は舗装されていなかったので、ホコリだらけで、そこを紐のようなサンダルで歩くので、足はとても汚れたのだそうです。だから家に入る時には、その家の奴隷が、入ってくる人の足を洗いました。でもそういう、最も低い僕のすることを主イエスがなさいました。そしてそれは謙遜に、献身する、ということを表していて、その「手本」を示した(13:15)と主は言われました。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼ぶ。それは正しい。その私が「模範を示したのだ」(13:15)から、と。この「模範」という言葉は、珍しい言葉で、4つの福音書の中でもここにしかなく、「お手本」という意味があります。この「お手本」は、それをやってもらって初めてわかり、それを他の人たちにもまねてやってみる、という意味を持っています。そうすると、ここで主がなさったのは、ほんとうに低くなり、献身されたということでした。

主イエスが旧約聖書のイザヤ書にあるように、「神の僕」と成り尽くされたように。それからフィリピ書(2:6-8)のキリスト賛歌で、「キリストは神の形でありながら」かえって自分を無にして、僕の形をとり……、そうして「十字架に至るまで従順でした」とありますように。その低さは、僕であり、十字架に至るまでの主イエスの卑下をも含みます。

それほどに低く、謙遜に。誰かを支配しようなどとは思わず。コントロールしようなどとは思わず、上に立たず、教えたがらず、かえって僕となりて。と主は、手本を示されたのです。

そしてだからこそフィリピ書にあるように、「このため神はキリストを高く上げ、……すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して父なる神が崇められるためです」(フィリ2:9-11)とありますように、その方を、私どもは「主」と呼ぶのです。そしてその主が、「私がしたとおりに」(13:15)と言われました。私がしたとおりに。あなたがたも、謙遜に。互いに、低くなり、謙遜に。

でもそれは私どもにはちょっぴり難しく。私どもの、ちょっぴり悪い心は、気づかないうちに誰かの上に立とうとするので。ボクすごいでしょ?とか、私はあなたより上なの、といったことも、知らずにしてしまいますので。そんな私どもに根づいている根性が、主イエスにはよくごらんになれるのでした。
だから主イエスは、私どもの足を洗ってくださいました。そしてその「僕の手」が、「主の手」だったことを私どもは知ったのです。

そうして主はわかりやすく、私どもに「僕の自覚」を、僕の姿で教えてくださいました。
わかるか、と。

あまりこういう話はしたくなかったのですけれども、私は車椅子になった母の足を毎日洗っていたことがありました。ちょっと、スネをぶつけただけでしたのに、そこの血流が悪くなり、褥瘡ができてしまって、本当に痛々しく皮膚の中が腐ってしまいました。看護師さんに教わって、膝から下を、それこそたらいにぬるま湯を汲んで、両足を浸けて傷口を洗い、それから薬を塗って包帯を巻くのです。でも痛い痛いと言うのです。ソフトに、ソフトにぬるま湯を注いでも、痛くて、それでもなんとか、毎日殺菌しなくてはなりません。看護師さんがしてくれたように、もう少し、もう終わると励ましながら、でも毎日のことで、洗濯物も包帯だらけになり、そしてあまり綺麗事も言いたくないので、日々のことでつらいことも度々言っちゃったりしたのです。今でも後悔ばかりの日々です。

でもそんな嫌な自分を、一番教えてくださったのは主イエスでした。足を洗う。わかりやすかったです。僕となりて。愛する者の僕となりて。
主が僕となりて。愛のお手本でした。

弟子たちは、その姿を焼きつけて、何度も思い出したと思うのです。自分になにかあっても。教会でなにかあっても。互いに足を洗うと主が言われたことを覚え続けた。そして主が「このことがわかり、そのとおりに実行するなら、幸いだ」(13:17)と、言ってくださったとおり、その人は「幸い」で、そして愛は実行するんだと。頭だけじゃなく、気持ちだけじゃなく、愛は行動に移すんだ。主は「私がしたとおりに」と、言われたじゃないか。

訪問に行きますと、よくそういう場面に出会います。教会に来られないというのは、おつらいことに違いありません。でも教会が訪ねますと、その家に主がおられるということが確かめられます。愛の交わりが生まれます。輝いて迎えてくださいます。こちらを気遣い、労ってくださり、笑わせてくださいます。ある方は私の手を握って祈ってくださいました。しっかり握って、その額が手につくほどでした。それからクッキーがあるからと、いや、訪問に行ったらクッキーをくださいと言ってるわけではありません。そうではなくて、動けない自分が、何かできることを、と、しきりに思われる。でもそうやって、その愛が動く瞬間、その行動が私にはいつも身にしみて、するとその方がしきりに感謝しながら「教会だ、教会だ」と言われました。ああ、教会だ。それで言われました。
「お互いにね、わかりあって」。
「お互いにね、わかりあって。」
それが教会。

私は、主の言われるとおりだと思いました。ほんとうに「幸い」な人とは、こういう教会の方たちだと思いました。

でも主イエスがこれを言われた時には、そこには幸いではない人がいることを、主はわかっておいででした。18節で「私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない」(13:18)と主は言われました。「私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない」(13:18) 。

この言葉は先ほど交読した詩編第41篇です。その聖書がいうとおり、主イエスはユダを知っていてお選びになり、聖書のいうとおり、足蹴にしたということは、実現しなければならない。
ユダにはこのあとサタンが入り、そのユダによって、主は十字架に引き渡されます。でもそのユダも、主に足を洗ってもらったと思われます。一人だけ洗わなかったというようなことはどこにも言われてないからです。この直前に、主が弟子たちの足を洗われながら「皆が清いわけではない」(13:10)と言われたのは、足を洗った者たちの中に、「清くない者もいる」という悲痛でありました。そうしてユダも教会の一員だった。
だけども、すでに出ることを選んでいました。おそらくですけれども、足を洗ってもらった時も普通に、その心は動かなかった。そうやって、洗う主イエスの手を足蹴にしました。でも蹴ろうと思ったんじゃなくて、それも普通に、自分の中に触れてくる、この愛を無意味にしました。「わかるか」と言われたことが、わかりませんでした。

でもそんな「愛する者」がいることを、主はご存じでいながら、その足を洗い、神が与えた詩編を口にされました。
「私のパンを食べている者が、私を足蹴にした」。「この聖書の言葉は実現しなければならない」(13:18)。
なぜなら、この悪が救いへと変えられるからです。

主がユダを洗われたとき、愛は激しく動き、そして、これも担う、と。その手で受け取られたのが「十字架」になりました。
神が与えたユダでした。

それを弟子たちがわかるのは十字架のあとです。そしてあとでわかったのは、「足を洗う」とは、十字架を指していた。罪を洗うという、ゆるしの意味を持っていた、ということでした。

だから「互いに足を洗い合う」とは、赦し合うことでも、あったんだと。

弟子たちには十字架はできませんが、十字架は一回きりであっても、その姿が弟子たちに、そして私どもにも刻まれました。コロサイの信徒への手紙(3:13)にはこうあります。
「不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも」。

でもそうした場合、私どもが難しいのは、むしろ、洗ってもらうことではないでしょうか。

主が言われたとおりに、いや、自分はわかる。自分は、だれかの足を洗うことはできるだろう。でも、その相手に、自分が洗ってもらうなんて……。
そんなことは。考えられない。
なぜなら、人の罪はよくわかるのに、自分の罪はよくわからないからです。

だから自分はいつも、ゆるすほうで。ゆるされるほうではなくて、ゆるすほう。ちょっぴり悪い心はそこでもまた、上になり、いつも自分は洗う側で、自分は洗ってもらう必要はない、と。

でも、主イエスがその足を洗われたのです。

「私がしたことがわかるか」

 

そのことが本当にわかるのは、
主の十字架しかないのです。

 

このあいだ夏期学校があって、たった2日間でしたけれども、とても恵み深い夏期学校になりました。たくさんの場面が思い浮かびますけれども、その一つが、いつもお世話になっている事務室に、子どもたちが歌を歌いに行ったことです。こどもさんびかで、「イエス、イエス」という歌です。それを子どもたちが事務室の前のあの狭いところで歌いました。こんな歌です。

「イエス、イエス、
主の愛で、私たちを満たしてください。
弟子たちの足を静かに洗い、人に仕える主よ。
主の愛で私たちを満たしてください。」

そして最後に歌いました。
「しもべのように互いに仕え、
イエスと共に歩もう。」

先ほど旧約聖書も読みましたが、イザヤ書第57章15節で、高いところにおられる主が、打ち砕かれた人と、低められた人と共にいると、言ってくださいました。
「私が共にいて、その人の霊を生き返らせ、その心を生き返らせる。」
高いところにおられる主が低くなり、共にいてくださって、私どもの愛を生き返らせてくださいます。

主の愛で、私たちを満たしてください。
「しもべのように互いに仕え」、
「お互いにね、わかりあって。」
主と共に歩もう。

そんな雪ノ下教会です。

 

天の父なる神様
主の愛で私どもを満たしてください。
主の御名によって祈ります。アーメン