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イエスとは何者か

2023年9月24日

マルコによる福音書 第8章27-33節
川崎 公平

主日礼拝

■フィリポ・カイサリアという場所で生まれたこの一連のやりとりは、その場に居合わせた十二人の弟子たちのみならず、その後の教会の歴史において、つまり現代の私どもにとりましても、無限の重みを持つものとなりました。その場に居合わせた弟子たちは、ここで起こったひとつひとつのことを、そこで交わされた言葉、ひと言ひと言を、生涯忘れ得ぬ思いで、大切に伝えたことだろうと思います。

話のきっかけは、さりげないことであったかもしれません。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリアの村々へ出かけられた。その途中」とありますように、道をてくてく歩きながらの対話であったかもしれません。「途中」というのは、原文を直訳すると「道の上で」という表現です。道を歩きながら、その途上で、特別に改まった場所を設けるわけでもなく、ところがそこで主イエスが問われた内容は、核心に触れるものがありました。しかし、いきなり本当の核心に踏み込むというのでもありませんでした。道を歩きながら、「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった、というのです。そうしたら、弟子たちはすぐに答えを用意することができました。洗礼者ヨハネの再来だとか、何百年ぶりに現れた預言者だとか、伝説の預言者エリヤの再来だとか、いろんなことを言う人がいますよ。

けれども、主イエスはこれらの答えに満足されなかったようなのです。そこから一歩踏み込んで、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。弟子たちに、そうお尋ねになりました。弟子たちは、少し驚いたかもしれません。この問いは、いい加減なことではすまないということに、すぐに気づいただろうと思います。驚くままに、しかし聞かれるままに、弟子のペトロが答えました。「あなたは、メシアです」。

このペトロの答えは、これがそのまま、教会の信仰の土台となりました。「メシア」というのはヘブライ語で、要するに「あなたは、救い主です」ということですが、新約聖書の原文のギリシア語を読むと、ここには「キリスト」と書いてあります。それなら「あなたは、キリストです」と訳せばいいじゃないか、なぜわざわざヘブライ語に置き換えて「メシア」と訳したか、その問題についてはまたあとで触れたいと思います。とにかくここで、イエスをキリストと呼ぶ、教会の信仰の言葉が生まれたのです。その意味でも、この第8章27節以下の箇所は、歴史を画する、文字通り画期的な箇所であると言わなければなりません。

私ども教会の信仰というのは、「イエスはキリストである」、この一点にすべてが尽きるのです。そして私どもはいつも、主イエスご自身から、このことを聞かれているのだと思うのです。「あなたは、わたしのことをどう思うのか。どう信じているのか。わたしのことを何者だと言うのか」。神はいるのかいないのか、そういう問題ではないのです。そんなことで教会が立つか倒れるかが決まるということはありません。毎週礼拝にさぼらず行っていますか、とか、隣人愛に励んでいますか、とか、もちろんそういうことも大事な意味を持つかもしれませんけれども、決して最後の問いにはならないのです。主イエスご自身が私どもにお尋ねになること、その最初で最後の決定的な問いは、「わたしのことを、何者だと言うのか」という、このひとつのことに尽きるのです。そしてそれに答えて生まれた信仰の言葉、「あなたこそ、キリストです」というペトロの答えは、それがそのまま教会の命そのものとなりました。

■ところが、そこでひとつ際立っていることがあります。「あなたは、メシア、キリストです」。このペトロの言葉が、そのまま教会の信仰の土台となった。教会の命になった。それはその通りです。そのことを訂正するつもりはまったくありませんので、その点は念を押しておきたいと思います。けれども、その上で、この福音書の記事を素直に読むと、たいへん不思議なことに気づかされます。「あなたは、メシアです。あなたは、キリストです」。その信仰の言葉をお聞きになった主イエスは、これを喜ばれたでしょうか。ペトロを祝福なさったでしょうか。あるいはペトロをほめられたでしょうか。そうではなくて、主イエスは弟子たちを叱った、と30節に書いてあります。「あなたは、メシアです」と、その言葉を聞くや否や、間髪入れずに主が何を言われたかというと、「イエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」。つまり、「わたしがメシアだなんて、口が裂けても誰にも言うなよ」と弟子たちを「戒められた」と訳されていますが、ここはやはり「叱った」と訳した方がよかったと思います。「戒める」では、少し翻訳として弱いと思います。弟子たちはここで、叱られたのです。なぜそういうことをうるさく申し上げるかというと、その次の段落の32節、33節にも同じ「叱る」という言葉が出てくるからです。

まず32節では、その前のところで主イエスがご自分の十字架と復活について話し始められた。そうしたら、「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」といくぶん和らいだ翻訳になっていますが、ここも「ペトロはイエスを叱った」と訳した方がよかったと思います。それと同じ「叱る」という言葉が33節にも出てきて、「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている』」。

ここに三度繰り返して「叱った」という言葉が出てきます。イエスは弟子たちを叱った。ペトロはイエスを裏に呼び出して叱った。そうしたらまたイエスは、ペトロを叱って、「サタン、引き下がれ」。サタンとは尋常ではありませんが、しかしペトロが主イエスを脇へお連れして叱るというのも、尋常なことではありません。人間が神を叱ったのです。けれどもここで何と言っても不思議なことは、「あなたは、メシアです」と申し上げた、その言葉に対して間髪入れずに返ってきた主イエスの反応が、「メシアだなんて、絶対に人に言うなよ」という、厳しいお叱りの言葉であったというのです。「ええ? どうしてしゃべっちゃだめなんだろう? というか、どうしてこのことで、こんなに厳しく怒られなきゃいけないんだろう? 『あなたは、メシアです。あなたこそ、救い主です』と申し上げただけなのに……」。それは弟子たちにとって、長い間、謎として残り続けたに違いないのです。

誰かに叱られるという経験は、私どもにとりまして、それほど小さなことではないと思います。一度でも、それがどんなに短い言葉であったとしても、誰かから叱られるという経験をしたら、案外私どもはそれを生涯忘れないものです。特にここで三度繰り返される「叱る」という言葉は、意味が強いものです。実はマルコによる福音書において、この箇所以外で弟子たちが主イエスに叱られたことはありません。主イエスが悪霊を叱る。風を叱る。波を叱る。例外的に、主イエスのところに幼子を連れて来た人たちを弟子たちが叱ったという記事もありますが、主イエスは基本的に、悪霊を叱ることはあっても弟子たちを叱ったことはない。この箇所だけなのです。主イエスが弟子たちを叱ったのは。

その例外的な箇所が、どのような文脈であったかというと、もう一度申しますが、「あなたは、メシアです」とペトロが申し上げた、その言葉に対して、主イエスは厳しい責の態度を露わにされたというのです。これは、考えてみると本当に不思議なことだと思うのです。

念には念を押しておきますが、「あなたは、メシアです」というペトロの答えは、まさにこれこそが教会の信仰の中心に立つべきものです。神は、どうしても私どもを救いたかったし、事実私どもは、神に救っていただかなければならないし、だからこそ神はイエスをキリスト、メシアとしてこの世にお遣わしになったのですが、そのメシアを受け入れるというまさにそのところで、人間が神から叱られなければならない、その根本的な問題が見えてくるのです。

いったい救いって何でしょうか。神が私どもを救ってくださるというのですが、いったい何から救われるのでしょうか。そもそも、なぜ救われなければならないのでしょうか。

■ここに三度繰り返して、「叱る」という言葉が出てくると申しました。その中でいちばん話として分かりやすいのは、2番目(32節)のペトロが主イエスを叱ったということだと思います。それは軽率であったに違いない。けれども気持ちは分かるんです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と書いてあります。「人の子」とは主イエスのこと、メシアたる人の子イエスのことです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け」、その「多くの苦しみ」というのは、「長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され」ることだと言います。ただ殺されるのではありません。名誉の死ではないのです。「排斥されて」、つまり世界でいちばん邪魔な人間として捨てられ、すべての名誉を奪われて、それで「三日の後に復活することになっている」と言われても、弟子たちは全然納得ができないのです。

それで、ペトロは主イエスを叱りました。「先生、それは絶対に間違っています! さっきの発言は取り消してください!」 それに対して主イエスは、ペトロをサタンとまで呼ばれました。そう言うあなたは、神のことを思わず、人間のことを思っているだけだ。そんなあなたは、もはや悪魔であるとしか言いようがないじゃないか。

しかし、なぜペトロは、主イエスを「叱る」という大それたことをしたのでしょうか。自分の尊敬する先生を、どんなことがあっても守りたかったのだ、先生をかばいたかったのだと説明する人たちもいます。けれども私は思うのですが、ペトロが本当にかばおうとしたのは、主イエスではなかったと思います。そうではなくて、ペトロは自分をかばっただけです。自分の救い、自分の幸せ、自分の安心、自分の願い……ペトロがこのとき考えていたことは、一から十まで自分、自分、自分、自分……。その自分の幸せを守ってくれそうなメシアを期待しながら、明らかに主イエスのお示しになる救いの道は、それに真っ向から逆らうようにしか思えなかったから、ペトロはイエスを叱ったのです。「先生、違うでしょう。あなたはメシアなんだから、ちゃんとしてくださいよ」。「十字架とか、復活とか、そんなことで、人びとを幸せにすることができるとお考えですか。あなたはメシアなんですから、苦しむとか死ぬとか、二度と言わないように。そんなことより、わたしを幸せにしてくださいよ」。それに対して、主イエスは言われたのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」。

■最初の方で触れましたが、ここで「メシア」と訳されている言葉は、実は原文のギリシア語でははっきりと「キリスト」と書いてあるのです。なぜそれを「キリスト」と訳さずに「メシア」と訳したか、これはたいへん多くの議論を呼ぶことになりました。以前用いていた新共同訳聖書も、同じように「メシア」と訳しました。けれどもさらに昔の口語訳と呼ばれる翻訳では、「あなたこそキリストです」となっていました。言うまでもなく、今私どもが主イエスに対する信仰を言い表そうと思ったら、口語訳にならって「あなたこそキリストです」と言った方がよいに決まっています。それに対して、「あなたは、メシアです」などと言われると、「は? メシアって何?」と、少し残念な思いに誘われる人だっているだろうと思います。もちろん聖書を翻訳した人たちは、そんなことは重々承知の上で、あえて「メシア」と訳したのでしょう。

この「メシア」という言葉の背後には、当時のユダヤの人たちの長い歴史がありました。涙なしには語り得ない、歴史の手垢が付いたような言葉、それがこの「メシア」という称号であったのです。ユダヤの人たちは、何百年もメシアを待ち続けた。旧約聖書の大部分は、メシア待望の歴史であると言っても言い過ぎではないと思います。そしてそのメシア待望には、だんだんと、具体的なイメージがまとわりついていきました。メシアが現れたら、たとえば本当に具体的に、もう二度と徴税人に苦しめられるようなことはなくなるんだ。ローマ皇帝が「人口調査をせよ」と言えば、妊娠中だろうとお構いなしに、何十日も旅をしなければならないような、そんな間違った社会もメシアが登場した暁には終わりを告げるんだ。それはもう、本当に同情するほかないほどの、苦しいほどのユダヤの人びとの信仰の歴史があり、人びとの悩みと悲しみが染みついたような言葉が、この「メシア」という救い主の名であったのです。

ここにいた12人の弟子たちの中にも、実際には、いろんなメシア待望の思いがあったに違いないと思います。ペトロの期待したメシアと、イスカリオテのユダが期待したメシアと、もしかしたら多少のずれがあったかもしれません。けれども、少なくとも、ここで主イエスが初めてご自分の十字架について語り始められたとき、弟子たちの誰も、これを期待通りのメシアだとは思いませんでした。だから、ペトロは主イエスを叱ったのです。「先生、それは違います。それは絶対に、神のメシアの行くべき道ではありません」。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」。

■神は、私ども人間を、どうしても救わなければなりませんでした。これは、当たり前のことのようで、しかし実はなかなか当たり前のことではありません。私どもは、神に救っていただかなければならない存在なのですが、なぜ救われなければならないか、本当によく分かっているでしょうか。改めてここで思わされるのですが、人を救うということは、神にとっても決して容易なことではありませんでした。神さまにもできないことがある、と言ったらそれは明らかに言い過ぎですが、それでも神さまにとって難しいことがありました。神さまにとっていちばん難しかったこと、それが人間を救うことであったのです。御子の死をもってするほか手立てがない、というほどに、神にとってはいちばん難しいことであったのです。人間を救うということは。

世界を見渡しても一目瞭然でしょう。人間は、救われなければならないのです。私どもの生活の、身の回りを見回すだけでも分かるでしょう。人間は、神に救っていただかなければ、どうしようもない存在なのです。しかも人間は、どうやったら自分で自分を救うことができるのか、本当は誰もよく分かっていないのです。

救いとか救われるとか言われても、どうも自分の生活感覚から離れすぎてよく分からないという感想もあるかもしれませんが、本当はそんなことはないと思います。本当は、私どもはいつも自分で自分を救おうと、自分の生活を救われたものにしようと、悲しいほどに一所懸命になっているものだと思いますし、そのために神の助けを求めることだっていくらでもあるだろうと思います。自分の名誉が損なわれたと思ったら、神よ、わたしの名誉を守ってくださいと祈るでしょう。思い通りにいかないことがあったら、神よ、わたしの願いを実現させてくださいと祈るでしょう。ところが、そのように絶えず自分の救いを求めている私どものために、メシアそのものであるお方が現れて、「あなたにいちばん必要な祈りはこれだよ」と教えてくださった〈主の祈り〉という祈りは、まるで私どもの本能を逆なでするように、「神のみ名があがめられますように、み国が来ますように、み心が行われますように」と言うのです。本当は、ちょっと落ち着いて考えれば誰だって分かりそうなものだと思うのです。「わたしの名誉が、わたしの支配が、わたしの願いが」と言い続けている人間は、まさにその祈りにおいて、滅びの中に落ちているのです。その祈りが聞かれたら救われるとか、聞かれなかったら救われないとか、そんな話じゃないんです。「わたしの名誉が、わたしの支配が、わたしの願いが」という祈りそのものにおいて、既に救いから落ちている。それは、獣にも劣る生き方です。人間が人間らしく生きる道ではないのです。

ところがそんな私どものために、主イエスが〈主の祈り〉を教えてくださって、神の栄光のために、神の御国のために祈るようにと教えてくださったのは、そこにしか人間が人間らしく生きる道がないからです。だがしかし、この祈りを教えてくださった主イエスを、人びとは十字架につけました。誰もが、自覚的に、あるいは無自覚的に気づいたのです。このイエスという男は、わたしの幸せのために仕えてくれるわけじゃないんだな。神の栄光のためのメシア、神の御心の実現のためのメシア……そんなの、わたしの救いでも何でもない。そう言って、人びとはイエスを十字架につけました。だがしかし、かくしてメシア・キリストの歩みは全うされたのであります。

■このマルコによる福音書を読んでおりますと、目立たないことですが、しかし興味深いことがあります。マルコによる福音書の中に、「メシア」あるいは「キリスト」という言葉が、どこに何回出てくるか。おそらく皆さんが驚くほど少ないのです。第1章1節に、「神の子イエス・キリストの福音の始め」とありますが、これは書物のタイトルみたいなものです。その次に出てくるのが、今日読んだ第8章29節です。そのあと、何か所が出てきますが、イエスをキリスト・メシアと呼んでいる箇所は、(微妙な箇所もなくはないのですが)ほとんど一度もありません。最後の最後に、第15章の32節にようやくイエスをメシアと呼ぶ言葉が出てきます。

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(第15章31,32節)。

あのときペトロが口にした、「あなたは、メシアです」という言葉が、ようやくこの第15章で、このように用いられたのです。お前はメシアだろう。人を救うのが仕事だろう。それなのに、自分を救えないとはどういうことか。もし何だったら、今すぐ十字架から降りてごらんよ。それを見たら、今すぐにでも信じてやるよ。

ペトロは、もちろん人びとと一緒にあざ笑うようなことはしなかったけれども、その思いはこの人びとの思いに近かったのです。ほーら、やっぱり、あのとき俺が叱った通りだ。十字架になんかつけられちゃって、誰の役にも立たないじゃないか。自分自身さえ救えないじゃないか。

けれども、もう今日はこれ以上長い話をする必要もないのであります。まさしくこのように十字架につけられたメシア・キリストこそが、人間を人間として救う力を持つ。このお方に救われて初めて、人間は人間らしく生きることができるのです。その意味で、ペトロが言い表した信仰の言葉、「あなたは、メシアです。わたしの救い主です」という言葉は、永遠の価値を持つのです。

■来週の日曜日、ウィリアムズ郁子先生という英国国教会の牧師を招いてこの場所で説教と、午後には講演をしていただきます。何度も申しておりますように、実は私の従姉妹にあたるのですが、このたび鎌倉にお呼びすることを決めて以来何度となく彼女が申しておりますことは、「本当にわたしなんかでいいのかしら」ということです。牧師としての経歴ということで言えば、私などよりずっと後輩ということになります。たくさんの教会を導いたわけでもない。歴史を動かすような大きな働きをしたとも思えない。けれどもそんな自分の働きにも何かの意味があるのなら、鎌倉でもどこでも喜んで行きましょうと言ってくれています。

私のような者が、来週の彼女の話を忖度して先取りするのはおかしなことですが、午前の礼拝も午後の講演も、主題は〈和解〉です。赦して生きる、赦されて生きるということです。この教会の中でも、いろんな方々が来週の集会のためにいろんな準備をしてくださって、たとえばしばらく前の新聞の記事のコピーが掲示されたりもしていますが、その新聞記事にも書いてあるひとつのことは、英国の牧師として働く中で与えられたひとつの出会いのことです。かつての戦争で、日本軍の捕虜であった、日本人の残虐行為を目の当たりにしたというあるイギリス人男性が、とにかく一生、日本人だけは赦すまい。日本人とだけは、絶対に口を利くまい。そう心に決めていた元捕虜の男性の病床に、あるクリスマスの夜にお見舞いに来てくれた牧師が、思いがけず日本人の女性であった……という話も、きっと来週どこかでなさるでしょうから、私があまり詳しく紹介してもしょうがないだろうと思いますが、たとえばもしもそのように、誰かが誰かを赦すことができたなら、そこにもキリストのみわざは見事に表れているし、「キリストは、このわたしのためにも十字架につけられたのだ」ということを、感謝をもって受け入れることができるのです。そして本当は、このような救い主こそ、世界中が、のどから手が出るほど欲しがっているはずのものだと思うのです。

■マルコによる福音書の記事と合わせて、イザヤ書第42章の最初の部分を読みました。2節以下に、こう書いてあります。

彼は叫ばず、声を上げず、
巷にその声を響かせない。
傷ついた葦を折らず
くすぶる灯心の火を消さず
忠実に公正をもたらす。
彼は衰えず、押し潰されず
ついには、地に公正を確立する。
島々は彼の教えを待ち望む。

実は私どもが心の底から待ち望んでいた救い主の姿が、このように描かれております。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず」であります。ここに望みがある。世界の望みはここにあるのだと、私どもも望みをもって証しし続けていきたいと願います。お祈りをいたします。

あなたの御子イエスの前に立ちつつ、今私どもも心新たに、「あなたこそ、キリストです」と申し上げることができますように。あの救いが欲しい、この救いが欲しいと、右往左往しているこの世界のありさまを、あなたがどんなに深い悲しみをもって見つめておられるかと思います。しかし、この世界は、既にあなたの御子が訪れてくださった世界です。あなたの御子が十字架につけられ、お甦りになり、あなたと和解させていただいたこの世界であります。どうか望みをもって、あなたの確かな救いのもとに立ち、またその喜びの知らせを告げ続ける者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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