復活・勝利・感謝
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第15章35-58節
主日礼拝
「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。」
今日読んだ新約のみ言葉の最後の方、コリントの信徒への手紙一第15章57節の言葉です。主の勝利への喜びと、感謝に満ちた言葉でした。このコリントの信徒への手紙を記した、伝道者パウロたちは、力強い言葉で、主の勝利への喜びと、感謝の言葉を記しました。それは、コリント教会の仲間を、さらに励ますための言葉です。皆で神さまに感謝をささげ、その神さまのために与えられた使命に生きようではないか、と力づけるための言葉でした。
これらの言葉は、この手紙で取り扱われていた、ある議論の答えです。
コリント教会に起こっていた問題は、復活の否定です。コリント教会に、復活などはない、と考えてしまう者がいた。第15章の1節目からは、そのような人をイエスさまへの信仰に戻すための言葉が、綴られていました。
当時のコリント、ギリシアの文化には、イエスさまによって示された信仰とは違う考え方が、広まっていました。この世界は汚れていて、肉体は汚れた器だ、そして、人間は死んだら、その肉体から離れて、精神的に、魂だけが、理想の世界へと昇っていく、というような考えです。そのような考えに影響されたコリント教会のある者たちが、死んだ者が復活するなどということはあり得ない、と考えたのです。それでは、まるで死体が歩くようなものではないか、肉体という物体が、また復活するなどないではないか。死者はどうやって復活するのか、と議論していたのです。
しかし、それは、私たちの想像を超える、私たちよりはるかに偉大で、思いをお持ちで、私たちを限りなく愛してくださる主なる神さまのことが、まったく抜け落ちている考え方です。
伝道者パウロたちは、主なる神さまの御心について語りつつ、そのような考え方に反論します。今日私たちが聴いたのは、第15章35節からでした。
「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。あなたが蒔くものは、後にできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」
愚かな人だ。ルカによる福音書11章40節でも用いられている。イエスさまが、ファリサイ派や律法の専門家に対して非難する言葉として、用いている言葉です。
主なる神さまは、御心のままに、この世界を、被造物をお造りになりました。種をつける植物も、私たちのような人も、お造りになりました。そこには、御心が、ご計画が、目的があったのです。聖書を読むと、神さまが、この世界を目的に従って、造り、保たれ、そして、愛してくださっていることが分かります。この地上の世界は、無意味なものではありません。今この地上で生きている私たちそのものも、無意味な空しいものではないのです。
いつかは朽ちる私たちですが、その先があるのです。まるで穀物が蒔かれた後、その実の部分が朽ちて腐ることで、種が芽吹くように、救われることが、計画されている。
42節から。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。」
父なる神さまは、目的を持って私たちをこの地上に造られました。その目的とは、主ご自身が、私たちを救うという目的です。その救いは、イエスさまによって起こります。
私たち人のことを、パウロはアダムとして言い表します。創世記に記されている、最初に造られた人間です。そして、その私たちの所に降りてきて、人となってまで、救いをもたらしてくださったイエスさまのことを、最後のアダム、と表現するのです。45節から。
「聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました。つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。最初の人は地に属し、土からできた者ですが、第二の人は天に属する方です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。私たちは、土からできた人のかたちを持っていたように、天上の方のかたちをも持つようになります。」
イエスさまによって、私たちには新しい形が与えられます。変えられます。まるで新しい衣を着せられるかのように、朽ちることのない、永遠の命を着せられるのです。
51節から。
「ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」
ここまで、パウロたちは言葉を尽くして、復活について解き明かしました。まだ起こっていない、将来のことを、解き明かしているのです。そして、また、当時のコリント教会の状況も、どんな手紙のやり取りがこれまであったかも、私たちには分からないので、はっきり言って、難解です。
一つ一つの言葉を、じっくり研究することもできます。しかし、この主の日、復活のイエスさまに礼拝をささげる日、最も大切なことは、そのイエスさまの勝利を喜ぶことです。
コリントの信徒への手紙の第15章におけるクライマックスは、56節からです。それは、イエスさまが死に打ち勝たれたことを、ほめたたえる言葉です。
54節から。
「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。/「死は勝利に吞み込まれた。「死は勝利に吞み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前の棘はどこにあるのか。」
死は、私たちにとって、恐ろしいものです。誰もそれから逃れることができない。私たちは、それに支配されているかのように感じることがある。死に、負けてしまうことがあるように感じる。
しかし、教会は、その死に負けない群れです。というより、教会はその死に打ち勝ってくださったイエスさまの群れです。
イエスさまは、私たちが、死に負けて、死に引き渡されることを、良しとはなさいませんでした。その私たちを救おうと、ご決心なさった。私たちが、地上の生涯の最後、死んでしまうというその現実を、イエスさま自身、引き受けてくださった。もっとも、低い形で、最もむごい形で、死んでくださることで。十字架という死を、引き受けてくださることで。
56節にあります。
「死の棘は罪であり、罪の力は律法です。」
死は、まるで棘のように、私たちに食い込んで、抜けなくなりました。それは、私たちが罪を背負っているということでした。主なる神さまから、命の源である神さまから、離れ、背いて、死の方へと向かってしまう、私たちの罪です。それは、棘のように、私たちを死に至らしめる。そして、その罪は、律法によって示され、私たちを、時に苦しめる。どうしたって、自分の力では逃れられない罪が、律法から示される。
しかし、イエスさまは、その私たちの罪を、十字架によって背負ってくださいました。私たちの代わりに、十字架に架かり、父なる神さまから私たちが受けるはずの罰を、背負い、贖いを成し遂げてくださいました。
それは、まるで、イエスさまが死に負けたかのような出来後だったはずです。しかし、父なる神さまは、そのイエスさまを、ご復活させられました。イエスさまは、死に負けたわけではなかった。勝利してくださった。
私たちは、その主の勝利が確定しているなかで、その勝利に連なっている歩みを続けている。
主なる神さまこそ、まことの勝利者なのです。イエスさまが、その勝利を、私たちに与えてくださった。その復活によって。
私たちは、時に、死に打ちのめされ、復活の力以上に、死を大きく感じてしまうことがあります。死は、強大なのです。誰一人、それを克服することもできない。しかし、私たちの主なる神さまは、計り知れなく偉大な方です。それは、死に勝利なさったということからも分かります。この世界で、何人も克服できない死に、主は打ち勝つことができる。いやむしろ、主なる神さま以外にそれができる方はいないのです。
私たちは、その主にどう向き合うのか。私たち自身を明け渡すのです。降伏する、と言ってもいいでしょう。
伝道者パウロ自身が、そのように、主に全てを明け渡して、主にすべてをささげて生きた者です。パウロはかつてサウロの名で呼ばれ、キリストの教会を迫害していた者です。キリストの弟子の殺害に参与し、そして、さらに、教会の者を迫害しようと、死に引き渡そうと、ある町に向かっていた。しかし、復活のイエスさまが、そのサウロにであってくださった。サウロは打ち倒されました。そして、イエスさまが、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語り掛けてくださる言葉を聴きました。
そこから、パウロがイエスさまの伝道者として、イエスさまに従う僕としての歩みが始まりました。
サウロは、死に打ち勝ってくださったイエスさまに、降伏したのです。これが、勝利の主に対する、私たちの生き方ではありませんか。
そのパウロが、コリントの信徒への手紙を記しているのです。復活を信じることができないコリント教会の者たちに、語っている。自分の知識によって、主の復活を信じられなくなっている者に、自分の力で、死を見つめ、死に対抗しようとしている者に、教えているのです。
私たちも、死を前に、自分の理解を形作ろうとする。しかし、それは、本当に死にぶち当たった時、どれほど弱いことでしょうか。
私たちは、自分の力では、死に向き合うことも、罪を克服することもできない。
しかし、主は、死に打ち勝ってくださっている。罪を、覆してくださっている。
教会は、その主に感謝をささげ続けます。
「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。」
そして、その勝利の主に、心からひれ伏し、降伏するようにして、従う。それは、この世界で唯一、完全に信頼して、いいお方、負けて、全てを明け渡して、すべてをささげていいお方です。
「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」
教会は、その主の業に励みます。主の勝利の知らせを、全世界に告げ知らせるという働きです。主の福音の知らせを、勝利の知らせを、告げ知らせましょう。