神は平和の神だから
中村 慎太
コリントの信徒への手紙一 第14章26-40節
主日礼拝
私たちは、神さまの愛にお応えして礼拝をささげます。そして、神さまに喜ばれるために、教会を造り上げるために、イエスさまにお仕えします。
コリントの信徒への手紙は、どうやって教会が造り上げられていくかを、私たちに教える手紙です。この手紙を書いたのは伝道者パウロたちです。伝道者パウロたちは、コリントというギリシアの町に行き、イエスさまのことを伝えました。そして、コリント教会という群れが生まれた後、彼らは次の伝道の地へと旅立ちました。しかしパウロたちは、コリントを離れた後も、手紙によってアドバイスをし続けたのです。
コリントの信徒への手紙一第14章では、コリント教会でささげられる礼拝がばらばらにならないように、どうしたらいいかを助言していました。そこで大切に語られるのは、教会の目的は何か、教会に仕える者の目的は何か、ということでした。
第14章では、ある言葉が繰り返し用いられています。今日読んだところにもあった言葉で、教会に集う者たちが何を目的にするかを、伝えている言葉です。
「造り上げる」、という言葉です。これが、14章の第3節から始まり、数回にわたって用いられています。今日一緒に聴いた所でいうと、26節の後ろの方、「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」という所です。
パウロたちがこの言葉を使う時は、たいてい「教会」、が造り上げられるものとして記されています。教会、や教会の仲間である誰かを造り上げていく、それこそが私たち教会で仕える者の目的だ、と。
「造り上げる」というこの言葉、聖書の元の言葉では、「オイコドメー」という語なのですが、この言葉には、「家」を意味する語が込められています。「家を造り上げる」というもとの意味があったのです。聖書の元の言葉、ギリシア語で家というのは、「オイコス」と言います。この言葉、どこかで聴いたことがある方いますか。これ、あるヨーグルト食品の名称にもなっています。家庭で愛食されるように願って、オイコス、家という意味の名を付けたそうです。
パウロたちは繰り返し伝えていたのです。教会で仕える私たちは、まるで家を建て上げていくように、教会がさらに造り上げられていくように、力を尽くしていく。教会という信仰の家、家族を造り上げていくために、私たちは教会に集い、皆で神さまに礼拝をささげるのです。
家を造る体験、何かを工作する体験。私自身の体験。
一つ一つの道具に、役割がある、そして、それらがそれぞれの役割を果たすことで、家などの一つのものが造り上げられていく。
教会に集められた私たちは、まるでその道具のようなものです。一人一人が、神さまから与えられた役割をもっていて、かけがえのないものなのです。
今日は、旧約の創世記のみ言葉も聴きました。実は、この聖書の初めの書においても、主なる神さまが私たちを、目的、役割を持ってお造りになったことが記されていたのです。
父なる神さまは、この世界を6日間かけて、お造りになりました。全てを一瞬で作るのではなく、一日一日、丁寧にお造りになったのです。そして、それぞれに、そのものらしさをお与えになった。地、海、それぞれの種を持つ実をつける木、星、鳥、それぞれの獣、家畜、土を這うもの。神さまの思いに従って、この世界は造られていきました。そして、造られたものは、それぞれが父なる神さまの造られた思いに従い、それぞれの在り方で生きることで、神さまを賛美することになりました。神さまはそれを、一つ一つ見て、「良し」としてくださり、喜んでくださったのです。
また、父なる神さまは、人間もお造りになりました。人間は、他の造られたものにはない、大切な役割が与えられました。それは、神さまと似たものとされ、神さまのことを知り、神さまにお応えするものとして造られたのです。
家を造る時、実際に働くのは大工の役割です。その中でも、大工の棟梁、リーダーは、設計者の思い描いていることが、しっかり分かっていて、初めていい家づくりができる。私たち人間は、そのように、私たちをも造られた主なる神さまの思いを知って、それに基づいて、造られた者の代表のように、生きていくことが、役割として与えられていたのです。そして、神さまはそのように生きる私たちを見て、良し、として喜んでくださるのです。
ところが、人間は、神さまの思いから離れてしまう者でもありました。主なる神の考えではなく、自分の考えに捕らわれてしまう。主なる神さまの目的ではなく、自分の願いを優先してしまう。そのように私たちが主なる神さまから離れてしまうこと、罪を、私たちは持ってしまうのです。
それはまるで、設計者の考えを無視して、他の働き手を自分の思い通りに使ってしまう建設者のようです。あるいは、自分の役割を果たすことのできなくなった大工道具のようです。
コリント教会でも、同じように、自分の思いにとらわれて、他の者たちより自分を高めようとして、礼拝に集う者がいたようです。ある者が預言をしたら、負けじと自分も神さまの言葉を伝えようとした。ある者が異言によって神さまをほめたたえたら、すぐに自分も異言を語ってしまう。
「それでは、教会がさらに造り上げられていくだろうか。そのようにではなく、神さまに与えられた役割を、一人一人大切にして、互いに学び励まされるようにしようではないか」とパウロたちは伝えるのです。
26-33節。
34節からの婦人が家で夫に質問する形をせずに、礼拝で質問をしてはならないという言葉も、一人一人が与えられた役割を思い、教会を造り上げる目的を優先とすることを、を思い出させるための言葉です。そのために聖書に書き記されて、私たちに伝えられていると考えることになります。教会で、夫に質問することをせずに自分の知りたいことを聞く婦人の問題が起こったのでしょう。それで礼拝が中断されることがあったのかもしれない。しかし、教会が造り上げられるために、それぞれの役割を果たしていくべきではないか。婦人の役割、夫の役割も、神さまからどんな目的で、どんな意味を持って与えられたかを、大切に思い巡らそうではないか。神さまに造られた目的が、それぞれにあることを思い出させるための言葉として、私たちはこれらの言葉に聴きます。
ともかく、私たちは、神さまの与えてくださった目的と役割に従って、神さまのお考えになるように、教会を造り上げて行こう、とパウロたちは伝えるのです。
40節。
では、皆さんはどんな役割を教会で与えられているでしょう。そして、どのようにそれをしていけばいいでしょう。すぐに答えが浮かばないひともいるかもしれません。
教会を造り上げるための役割も賜物も、あるいは具体的な奉仕も、私たちはすぐには分かりません。何より、私たちは神さまから離れてしまう罪を持っている。だから、神さまの思い、み心が、分からなくなってしまったのです。
しかし、私たちには、神さまのみ心が、思いが、ある方によって、はっきりと伝えられました。イエスさまが、この地上に来てくださり、私たちに父なる神の思いを、教えてくださった。父なる神はどのようなお方か、言葉を尽くして、あらゆる行いで、お教えになった。父なる神が、私たちをどのような思いでお造りになったかを教えてくださった。父なる神は、イエスさまを十字架に架けてまで、私たちを救いたいと願い、愛してくださっていた。
私たちが、自分が神さまにとってかけがえのないものであり、神さまの教会を造り上げるという目的のために大切なのだということは、イエスさまによって示された神さまの私たちへの愛によって、はじめて知らされるのです。
私たちはそのようにして、イエスさまから、父なる神の思いが知らされます。そのように、私たちの思いを超えて、神さまの思いを知れるようになった時、初めて私たちは一人一人に与えられた神さまからの役割を見つめられるようになります。そして、教会をつくりあげるために、何が自分にできるか、分かるようになる。
私自身、他人と比べてばかりの時は、自分が何を役割として与えられているか、分からなかった。しかし、神さまに喜んでもらうことを、第一とするようになった。
イエスさまがタラントンの譬えで教えてくれたように。
実際に、鎌倉雪ノ下教会は、神さまの愛を知り、イエスさまに救われた喜びに生かされ、教会を造り上げる一人一人によって、今も進んでいます。与えられた賜物を生かし、仕えている皆さんによって、造り上げられています。造り上げられてきました。
私たちは、神さまの思いを、イエスさまによって知らされたのです。私たちは神さまがどんな方かを知らされ、神さまがどのように私たちを喜んでくださるかを知らされたのです。だからこそ、私たちは、神さまに「よくやった、あなたはこんな小さなことにも忠実にしてくれた、一緒に喜ぼう」と言ってもらえるように、教会で仕えていきます。
そのようにして、神さまの喜びのために、教会が造り上げられるために、私たちは教会で仕えていきます。ともに、主なる神に喜ばれるように、主なる神と共に喜びを分かち合えるように、教会を造り上げていきましょう。